第3章 散財
【平城京・黄金と血の祈り】
紫香楽宮での激しい山火事や度重なる地鳴りを経て、聖武天皇の「彷徨の五年」は、悲壮な敗北とともに幕を閉じた。
恭仁京、難波宮、そして仏教の理想郷と夢みた紫香楽宮——。
都を転転とするたびに巨額の国庫が吹き飛び、途中で乗り捨てられた都の跡には、野晒しの材木と民衆の屍が残された。
貴族や民衆の不満が限界に達した天平17年(745年)、
天皇は失意のうちに、一度は捨てたはずの平城京へと還都するしかなかった。
「進……見よ。わしが逃げ回り、徒に富を潰した都の姿を……」
平城宮に戻った天皇の姿は、以前にも増して痩せこけていた。
恭仁京の未完の宮殿を破却し、柱や瓦を平城京へと運んで講堂へと組み直す——極限の「リサイクル」によってかろうじて維持される宮殿は、もはや栄華の象徴ではなく、国家破綻の影そのものであった。
【底をついた国庫と、金色に塗られる地獄】
平城京の東、金鐘寺の敷地(のちの東大寺)にて、ついに盧舎那仏(大仏)の巨大な鋳造工事が始まった。
しかし、聖武天皇の「万物を救う」という純粋な祈りは、現実の国家を恐ろしいパラドックス(矛盾)へと引きずり込んでいく。
大仏造立に投入された銅は約500トン。
さらに錫、鉛、そして大仏の全身を覆う金メッキのために、全国から膨大な水銀と金がかき集められた。
当時の日本の財政規模から見れば、それは国家の全資産を投じるに等しい無謀な暴挙であった。
「銅が足りぬ! 全国から仏具や銅鏡を押収せよ!」
「陸奥より金が出た! これもすべて大仏へ捧げよ!」
役人たちの怒号が大坂や陸奥、筑紫へと飛ぶ。
国庫は完全に底をつき、都の倉庫は空っぽになった。
天災と疫病でただでさえ荒廃していた日本全土の経済が、一本の大仏の骨組みによって決定的に息の根を止められようとしていた。
【過酷なる民の生贄…行基の勧進と、街道に転がる屍】
工事現場を見つめる進の耳に、昼夜を問わず響き渡るのは、木遣り歌ではなく役夫たちの苦悶のうめき声であった。
全国から強制徴用された数万人の役夫(農民)たちが、平城京へと送られていた。
過酷な労働、泥のような食糧、そして水銀中毒の恐怖。現場では毎日、熱病や疲労で倒れた人々が、ゴミのように大車に積まれて運ばれていった。
それだけではない。都へ至る街道の傍らには、故郷へ戻る体力を失い、行き倒れて死んだ農民たちの腐臭が漂っていた。
(……国を救うための大仏が、民の命を喰らい尽くしている……!)
進は背筋が凍りつくのを感じた。
この地獄の現場を支えたのは、かつて朝廷から「弾圧」されていた高僧・行基であった。
朝廷は背に腹は代えられず、民衆に圧倒的なカリスマを持つ行基を大僧正に抜擢。
行基とその弟子たちは全国を駆け巡り、「一握の土、一枝の草を捧げよ」と勧進(寄付集め)を行った。
「皆の者……この大仏は、死んだお前たちの親兄弟を救う光となるのだ……!」
行基の叫びに、涙を流しながら自分の着物やわずかな米を差し出す民衆たち。
民の善意と信仰心が動員され、皮肉にもそれが過酷な労働を継続させる「駆動装置」となって、民衆自らの首を絞めていく。
聖武天皇の理想は、狂気じみた聖なる悲劇へと変貌していた。
【開眼供養・虚無の開眼】
天平勝宝4年4月9日。
ついに東大寺大仏殿にて、歴史的な大仏開眼供養が執り行われた。
インド出身の僧・菩提僊那が巨大な筆を握り、開眼の墨を入れる。
一万人の僧侶が読経し、唐や新羅の音楽が響き渡り、五色の糸が空を舞う。
絢爛豪華を極めたその祝宴の真ん中で、病によって退位し、太上天皇となった聖武は、黒い袈裟を纏ってひざまずいていた。
金色に輝く十五メートルの盧舎那仏が、静かな笑みをたたえて見下ろしている。
(……できた。大仏が、できたのだ……)
聖武の頬を、涙が伝った。
しかし、その涙は歓喜の涙ではなかった。
大仏の足元に広がるのは、この大仏のために命を落とした数万の役夫たちの影。
国家財政は破綻し、田畑は荒れ果て、民は飢えに苦しんでいる。
長屋王の怨霊を鎮め、国家を救うために造った巨仏は、その犠牲の上に立つ「巨大な金の墓標」に過ぎなかったのではないか——。
『……帝よ。満足されたか』
風の音に混じって、自害した長屋王の嘲笑が聞こえた気がした。
「わしは……救いたかったのだ……。ただ、この国を……」
聖武太上天皇は、光り輝く大仏の膝元で、深く深く頭を垂れたまま動かなくなった。
窓から差し込む静かな光。
銅と水銀の匂い。
進は静かに息を吐き出した。
(聖武天皇の「国を救いたい」という純粋な祈りが、結果として国家を破綻させ、多くの民を死に追いやるというパラドックス……)
己のエゴで破滅した秀吉とも、時代の波に呑まれた井伊直弼とも違う。
善意と理想を抱いた最高の権力者であっても、現実の重みを見誤れば、その祈りすらも牙を剥いて人々を狂わせていく。歴史の持つ「業」の深さに、進の心は静かな衝撃を受けていた。




