第3章 悪夢の続き
【伏見城・死の床に漂う沈黙】
慶長3年(1598年)夏、伏見城の太閤居所は、死の匂いと重苦しい静寂に満たされていた。
豪華を極めた蒔絵の燭台、天井一面に施された金箔の鳳凰。
日ノ本のあらゆる富と権力を集めた絢爛豪華な部屋の中で、伏せっている秀吉の身体は驚くほど小さく縮んでいた。
落ち窪んだ眼窩、白く乾いた唇。
かつて天下を揺るがした「英傑」の面影はもはやどこにもなく、ただ死の恐怖に怯え、消えゆく命にしがみつく老人の姿だけがそこにあった。
「……小一郎……。小一郎はおらんのか……」
うわ言のように秀吉が呼んだのは、天正19年に没した異父弟・豊臣秀長(小一郎)の名であった。
【弟・秀長の幻影…後悔と孤立の果てに】
深夜、激しい咳き込みのあと、秀吉の意識は朦朧とした闇の淵へと落ちていった。
ふと気がつくと、枕元にほのかな灯火がともり、見覚えのある温厚な男がすっと佇んでいた。
仕立のよい小袖を纏い、生前と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた弟・秀長であった。
「……小一郎……! 小一郎、来てくれたか!」
秀吉の顔に、この数年見せることのなかった心からの安らぎが広がった。
秀長は豊臣政権における「天下一の補佐役」であり、強硬になりがちな兄の暴走を止められる唯一のブレーキだった。
大名間の摩擦を和らげ、温厚な人格で政権の裏を支え続けた最愛の相棒であった。
秀吉はすがりつくように手を伸ばそうとした。
しかし、秀長は静かに首を振り、その温和な顔に深い悲しみの影を落とした。
『兄者……。もう、無理をなさるな』
その声は、信長の亡霊のような禍々しい恐怖ではなく、胸を締め付けるような切ない哀愁に満ちていた。
『これ以上、罪を重ねるのをやめくだされ。朝鮮からただちに兵を収め、流された血を洗うのです。……このままでは、豊臣の天下は長続きいたしませぬ』
「小一郎……お前、何を言うのだ! わしは秀頼のために……豊臣の家を揺るぎなきものにするために……!」
『違います、兄者』
秀長は静かに兄の言葉を遮った。
『秀次殿を死なせ、その妻子まで惨殺したのは……利休殿を腹切らせ、無謀な異国への兵を出したのは……秀頼様のためですか? 違います。ただ兄者の胸の中にある「老い」と「恐れ」が、豊臣の根を自ら腐らせたのです。……わしが生きていれば、こんな凄惨なことにはさせなかったものを……』
「ああ……っ、小一郎……! 許せ、許してくれ……!」
秀吉の胸に、底知れぬ後悔が濁流となって押し寄せた。
(もし小一郎が生きていてくれたなら……。わしが秀次を殺すのを止めてくれたはずだ。朝鮮へ兵を出す愚も止めてくれたはずだ。わしは……わし自身の手で、豊臣の国を壊してしまったのか……!)
最大の理解者であり、唯一無二のブレーキであった弟を失ったことへの孤独。
そして自らの手で政権を引き裂いてしまったという遅すぎた悔恨。
秀長が寂しげな笑みを残して消え去ると、秀吉は枕に顔を押し付け、声を殺しておいおいと泣いた。
【「三足の蛙」の怪異…予言される崩壊】
秀吉の胸を苛んだのは、過去の後悔だけではなかった。
彼の枕元には、信長から受け継いだひとつの怪異が不気味な影を落としていた。
本能寺の変の前夜、急襲を知らせるかのように突然「クワックワッ」と激しく鳴き声をあげたと伝えられる、青磁の香炉——「三足の蛙」である。
中国で財を呼ぶ霊獣とされる三本足のカエルを象ったその香炉は、信長の死後、天下人となった秀吉の手に渡っていた。
秀吉は信長の霊力を授かるお守りとして、同時に信長が最期に聞いた「死の予兆」として、この香炉を畏怖しながら手元に置いていたのだった。
その夜、秀長の幻影が消え去った直後のことである。
部屋の隅に据えられた香炉から、ふっと不気味な青白い煙が立ち上った。
─── クワッ……クワッ……
静まり返った深夜の伏見城に、耳を疑うような低い湿った音が響き渡った。
「ヒッ……!?」
近侍していた進の背筋に、氷を突き立てられたような寒気が走った。
金属と陶器でできた固いカエルの香炉が、まるで命を得て蠢くかのように、ぬらぬらと濡れた光沢を放ち、二度、三度と奇妙な声をあげたのだ。
「カエルが……! 本能寺の蛙が……鳴いておる……!」
秀吉は落ち窪んだ目を血走らせ、ガタガタと体を震わせた。
かつて本能寺で信長の死と織田家の落日を告げた三本足のカエル。
それが今、この伏見城で、己の死と豊臣家の破滅を告げるために鳴いている——。
「嫌だ……! 嫌だぁっ! わしの創った天下だ! 秀頼へ引き継ぐのだ! 誰にも……誰にも渡さぬぞ!!」
秀吉は這い上がり、香炉を叩き割ろうと手を伸ばしたが、力尽きて畳の上に倒れ込んだ。
三本足のカエルの鳴き声は、まるで秀吉の執着と豊臣家の栄華を嘲笑うかのように、暗い夜の底へと静かに消えていった。
【死の淵での叫び】
それから数日後、秀吉の意識は完全に途切れ途切れとなり、死の牙城がいよいよ彼を呑み込もうとしていた。
「秀頼を……秀頼を頼む……。家康……利家……臣下ども……秀頼を……」
うわ言のように「秀頼」の名を繰り返し、天下のゆくえに執着し続けながら、豊臣秀吉は慶長3年8月18日、その波乱に満ちた生涯を閉じた。
金箔の壁、豪華な調度、万の兵——何一つとして彼を死から救うことはできず、太閤の最後は、亡き主君の幻影と、弟への後悔、そして不気味なカエルの予言に苛まれた孤独なものであった。
進は思う。
(秀吉ほどの男であっても……築き上げた栄華が大きければ大きいほど、その影として生まれる「業」に呑み込まれていくのか……)
かつて本能寺の変の夜に鳴いたというカエルの不気味な声が、まだ耳の奥に残っている気がした。
だが、進の夢はここで終わりではなかった。
豊臣家という巨大な楼閣が崩れていく影には、さらに深き「大坂城の怪異」と「千利休の怨霊」という怪異が待ち受けていることを、進は予感していた——。




