第2章 太閤の心の闇
【積み重なる罪業と、焦燥の檻】
伏見城を襲った大地震を経て、秀吉の衰弱と心の病は一層の深刻さを増していた。
甥である関白・豊臣秀次を謀反の疑いで高野山へ追放した末に自害させ、三条河原でその妻妾や幼き子供たち三十余名を容赦なく処刑した「秀次事件」。
そして、終わりの見えない過酷な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)による泥沼の疲弊。
幼き秀頼に確実に天下を譲らねばならぬという極度の焦燥は、秀吉からかつての柔軟さと寛容さを完全に奪い去っていた。
流された血の海の上に立つ太閤の居室には、昼なお暗い沈黙と、逃れようのない「業の匂い」が充満していた。
【ある夜の惨劇】
その夜、進が静かに伽を務めていた折のことである。
秀吉は浅い眠りの中で、急に激しく呼吸を乱し始めた。
額には大粒の油汗が浮かび、唇は紫に変色し、うわ言のように何かを小さく呟いている。
(また……始まったのか)
進が駆け寄ろうとしたその瞬間、秀吉の身体が跳ね上がるように大きく震えた。
夢の中で、秀吉の枕元に立っていたのは——黒き漆塗りの甲冑を身に纏い、あの本能寺の煤と炎の匂いをさせた織田信長であった。
信長の目は冷たく澄み渡り、地獄の底から響くような地鳴りの声で秀吉を見下ろしていた。
『藤吉郎。……もう死んでもよい頃だ。こっちへ参れ』
信長は苛烈な怒声をあげ、秀吉の襟首を掴まんばかりに手を伸ばしてきた。
「う……上様! お戯れを……! わ、わしは……上様の仇たる明智光秀を討ち、織田家へ忠義を尽くしてきた身でございます! 何卒……何卒命ばかりは……!」
秀吉は夢の中で、惨めに額を地に擦り付け、必死に命乞いをした。
しかし、信長の氷のような眼光は、秀吉の企みをすべて見透かしていた。
『白々しい言を抜かすな! 自分の息子たちの有様が不憫でならぬ。……おのれのせいじゃ。早くこちらへ来い!』
信長の声が、雷鳴となって秀吉の脳腔を揺さぶる。
信長の三男・信孝を自害へ追い込み、次男・信雄を改易・追放し、織田家の天下を文字通り横取りした己の過去——。
どれほど「太閤」として君臨し、天下人として敬われようとも、死の淵に立った今、胸の奥底に燻っていた「主家を乗っ取った」という原罪の刃が、秀吉の胸を容赦なく刺し貫いた。
「あ……ああ……!」
何も言い返せない秀吉に対し、信長は嫌がる秀吉の細い足を掴むと、凄まじい力で闇の底——地獄の口へと引きずり込もうとした。
『来い、藤吉郎! 貴様が創った血の泥沼へ、わしと共に落ちよ!!』
【狂乱の目覚めと、惨状】
「うわああああああああっ!! 上様! 上様、お許しを……! お許しくだされぇぇっ!!」
金切り声のような悲鳴とともに、秀吉は目を覚ました。
いや、それは「目覚め」と呼べるものではなかった。
あまりの恐怖に正気を失った秀吉は、蒲団から数メートルも這い出し、畳の上に這いつくばったまま、全身を汗と涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして震えていたのだった。
「太閤様!」
「いかにされました!!」
異変を察知した正室・北政所や、側近の近侍たちが慌ただしく部屋へ雪崩れ込んできた。
そこで彼らが目にしたのは、日ノ本を平定した偉大なる天下人が、誰もいない闇に向かって髪を振り乱し、必死に命乞いをして這い回る惨惨たる姿であった。
「ねね……ねねか……! 上様が……上様がわしを地獄へ引きずり降ろそうとなされるのだ……! 助けてくれ……! 秀頼を……秀頼を遺してわしは死ねんのだ……!」
秀吉はすがりつくように北政所の着物の裾を掴み、おいおいと声を上げて泣きじゃくった。
北政所は絶句し、ただ悲しげに秀吉の背中を擦るしかなかった。
側に控える側近たちも、あまりの惨状に言葉を失い、ただ深く俯くばかりであった。
【親友への吐露と、孤立の果て】
後日、少し落ち着きを取り戻した秀吉は、かつて青春時代をともに駆け抜けた生涯の親友・前田利家を部屋に呼び寄せた。
豪華な調度に囲まれながら、痩せ衰えた秀吉は、ぽつり、ぽつりと利家に語り始めた。
「又左(利家)……。わしはな、恐ろしい夢を見たのだ……。上様が……上様が枕元に立たれてな……」
秀吉は自らの犯してきた罪悪感と、信長の幻影に怯える恐怖を、もはや一人で抱えきれなくなっていた。
秀頼という幼き後継者を遺して逝かねばならない焦り。
秀次を殺し、朝鮮で多くの兵を死なせたことへの暗い報い。
そして何より、農民から引き上げてくれた恩義ある織田家を蔑ろにし、天下を奪い取ったという死ぬまで消えぬ罪の意識——。
利家は静かに秀吉の告白を聞いていたが、その顔には深い哀愁が漂っていた。
どんなに武功を重ね、位階を極め、金銀財宝を城に積み上げようとも、人は自らの犯した「業」から逃れることはできない。
天下人・豊臣秀吉の最期は、威厳に満ちた英雄の姿ではなく、過去の亡霊と己の罪に怯え続ける、悲しくも孤独な一人の老人の姿であった。
進は、震える手で茶を啜る秀吉の横顔を見つめながら、歴史の表舞台に輝く「栄華」の裏に隠された、暗く重い人間の業の深さを痛感していた——。




