第1章 亡き主君の亡霊
【伏見城・深夜の呻き】
これまでの悪夢で歴史の凄惨な業を克明に辿ってきた進は、目覚めるたびに削られていた精神が、どこか腹の据わった静けさを取り戻しつつあるのを感じていた。
(どんな歴史の闇であれ、人は業を背負って生き、そして消えていく……)
そう自覚したことで妙な耐性ができたのか、どこか心を落ち着かせて目を閉じたはずだった。
……だが、夜の闇は容赦なく、彼を次の「時代の断崖」へと引きずり込んだ。
目を開けると、そこは濃密な香の煙が立ち込める、絢爛豪華きわまりない大広間であった。
金箔の屏風がともしびを浴びて妖しく光り、畳の縁には眩いばかりの刺繍が施されている。
完成したばかりの伏見城——日ノ本の頂点に立つ太閤・豊臣秀吉の居城であった。
文禄4年(1595年)夏。
進はこの夜、秀吉の側近小姓として、夜間の伽を務める立場となっていた。
「……誰か……誰かおらんか……! 燈籠の火を増やせ! 暗がりを消せ!!」
静寂を切り裂いたのは、しわがれ、怯えきった老人の叫び声だった。
豪華な蒲団の上で身を小さく丸め、激しく肩を揺らしている男。
かつて農民から天下人にまで昇り詰め、日ノ本全土を平定した偉大な太閤・豊臣秀吉の、それが晩年の姿であった。
【覇王の幻影と、太閤の狂乱】
「太閤様、いかがされましたか」
進がすっと近づき、静かに声をかけると、秀吉は落ち窪んだ目を血走らせ、進の衣の袖をガタガタと震える手で掴んできた。
その手は驚くほど小さく、まるで干からびた木の枝のようだった。
「伊崎……! また出たのだ……またあの男が……上様(織田信長)が……!」
秀吉の額からは油汗が噴き出し、視線は誰もいない暗い部屋の隅を彷徨っていた。
「上様がな、夜な夜な枕元に立たれるのだ……。あの本能寺の夜と同じ、炎の匂いを纏ってな……。黒き甲冑を身にまとい、冷たい目でわしを見下ろしながら、毎日毎日……同じことを問い詰めてくるのだ……!」
秀吉は歯をカチカチと鳴らしながら、信長の幻影が発する声を模すように、低く掠れた声で呟いた。
『——筑前(秀吉)、貴様はわしの死を利用して天下を掠め取った。それはよい。だが、わしの遺児たち(信孝・信雄)をどうした? わしの幼き孫(三法師)をどう扱った? そして……この国をどこへ導こうというのだ?』
「ち、違う! わしは上様のご無念を晴らすため、山崎で光秀を討ち取ったのです! 天下を平定し、上様の成し得なかった泰平を築いたのです!」
秀吉は誰もいない闇に向かって、振り絞るような声で弁明した。しかし、幻影の追及は止まらない。
『——泰平だと? 朝鮮へ無謀な兵を送り、何万の兵を死なせ、関白(秀次)を一族もろとも処刑して都を血で染めたのが、貴様の築いた泰平か? 貴様は天下の器ではなかった。ただの「狂った猿」に過ぎん……!』
「違う……! わしは……わしは秀頼のために! 豊臣の家を永遠のものにするために……!!」
秀吉は頭を抱え込み、床に何度も擦り付けた。
【老いゆく英雄の孤立と焦燥】
進は、目の前で打ち震える天下人の姿に息を呑んだ。
かつて「人たらし」と呼ばれ、陽気な笑顔と卓越した知謀で人々を惹きつけた天才・秀吉。
だが、老いとともに後継者・秀頼が生まれたことで、彼の心は「豊臣の血統をいかに残すか」という執着と疑心暗鬼に塗りつぶされてしまっていた。
かつての主君・織田信長は、旧時代を力で破壊し尽くした「絶対の絶対者」であった。
秀吉はその信長の遺産をそのまま引き継ぎ、天下をまとめたに過ぎないという深い自卑とコンプレックスが、晩年になって死の恐怖とともに狂気となって溢れ出していたのだ。
「伊崎……わしは怖ろしいのだ」
秀吉は進の顔を覗き込んだ。
その瞳には、かつて日ノ本を動かした英気の面影はなく、ただ死と破滅を恐れる一人の哀しい老人の色しかなかった。
「わしが死ねば……上様のように、わしもまた誰かに裏切られ、秀頼は殺されるのではないか……。徳川が、家康が……わしの天下を奪うのではないか……!」
金箔の壁に囲まれた豪華絢爛たる伏見城の中で、太閤秀吉は、目に見えぬ信長の幻影と、自らが生み出した業の深さに怯え続けていた。
進は静かにその傍らに控えながら、栄華の極みに達した男が辿る、悲しき破滅の始まりを見つめていた——。




