第6章 藤原時平の最期
【病床の焦燥と、壊れゆく自負】
延喜9年(909年)3月。
清涼殿の落雷からほどなくして、時平は突如として重い病に倒れた。
数え年でわずか39歳。
政治家としてまさに脂が乗り切った時期であった。
病床にあっても、時平の枕元には『延喜式』の編纂草案や、不法な荘園を徹底的に取り締まる「荘園整理令」の記録が山積みされていた。
時平はただの権力欲に憑かれた男ではない。
律令体制を立て直し、この国を新しく生まれ変わらせようと誰よりも精力的に務める、きわめて優秀な政治家であった。
「……まだだ。私は倒れるわけにはいかん……」
荒い息を吐きながら、時平は病床で書類に手を伸ばそうとしては、力なく崩れ落ちた。
時平の心を苛んでいたのは、死への恐怖だけではない。
己のなしてきた功績が、すべて「怨霊への恐怖」という陰惨な噂によって塗りつ潰されていく焦燥であった。
藤原菅根が雷に打たれて世を去り、関与した者が次々と怪死を遂げていく。
都の誰もが「菅公の祟りだ」「次は左大臣殿だ」と怯えの混じった視線で自分を見ていることを、時平は痛いほど感じ取っていた。
(私は……私はただ、藤原の家を守り、この国の秩序を正そうとしただけだ! 道真ひとりを排除したことが、なぜこれほどの罪になるのだ……!)
【天神の降臨と、絶対の天理】
延喜9年(909年)4月4日未明。
死の影が部屋を覆い尽くしたその夜、屋敷を包んでいた護摩の煙がふっと消え去り、静寂が訪れた。
時平の病床の傍らに、いつの間にか一人の男が立っていた。
装束の袖からはほのかな梅の香が漂い、その姿はどこまでも清らかで、後光のような神聖な光を纏っていた。
配所で失意のうちに没したはずの男——天神(菅原道真)であった。
「……道真か……」
時平は落ち窪んだ目を刮き開き、喘ぎながら天神を睨みつけた。
「ついに……私を殺しに来たか……! だが、言わせて放っておけ! 私は間違っていない! 貴様はたしかに優れた学者だった! だが、貴様の存在そのものが藤原を脅かし、朝廷の調和を乱していたのだ! 朝廷の頂点に立つ者は、血統と格式を背負う我ら藤原でなければならなかったのだ……!」
死の間際にあっても、時平は己の正当性を叫び続けた。
政治家としての誇り、御曹司としての自尊心が、彼に弁明を強いていた。
「私が流罪にしなければ……貴様が私を追い落としていたはずだ! 権力闘争とはそういうものだ! なぜ私だけが……なぜ私だけが『悪』として呪われねばならんのだ!!」
叫び終え、激しく咳き込む時平を見つめ、天神はただ静かに、怒りも憎しみもない深い眼差しを向けた。
その声は、時平の胸の奥底へ穏やかに響き渡った。
『時平殿。私はお前を恨んでなどいない。祟ってもいないのだ』
「……何だと……?」
『お前を殺すのは、私の怨念ではない。お前自身が引き寄せた「因果律」という名の絶対の天理なのだ』
天神の言葉には、人の世の理を超越した冷徹な真理が宿っていた。
『人はだれしも、己の撒いた種を自ら刈り取らねばならぬ。お前は藤原の栄華を守るためと称し、己の焦燥と恐怖に負けて「無実の罪」を捏造し、虚構の言霊で帝を惑わし、一族を解体した。その「偽り」と「不義」の報いが、天地の理を乱し、お前自身の精神と肉体を内側から蝕んだのだ』
「因果……律……」
『力でねじ伏せた誠心は、やがて天の理となってお前のもとへ還ってくる。お前が恐れていたのは私ではない。己の犯した罪の重さそのものなのだ、時平殿』
天神の静かな告解を聞くうちに、時平の顔からあらゆる弁明の色が消え去った。
自分は道真という個人に負けたのではない。
自ら選んだ「濡れ衣」という卑劣な手段、その歪んだ業の深さに負けたのだと、死の直前にして初めて悟ったのである。
「あ……ああ……」
時平の目から、一筋の血の涙が零れ落ちた。
誇り高き御曹司の自負も、優秀な政治家としての功名心も、すべては絶対の天理の前に破れ去っていた。
【黎明の決着と、夢の終わり】
延喜9年4月4日、藤原時平は39歳の若さで息を引き取った。
時平の死後、彼の直系の血統は振るわず、後に時平とともに道真を追い落とした右大臣・源光も鷹狩りの最中に沼に落ちて怪死を遂げた。
時平の妹・穏子が産んだ皇太子たちも相次いで夭折し、都の人々は天神の威光にただ平伏するばかりであった。
政権を継いだのは、時平の弟・藤原忠平であった。
忠平は兄のような強硬策を捨て、道真の無実を称えて天満宮を建立し、その霊を鎮めることで温和な摂関政治の基礎を築いていくことになる。
時平は優れた改革者でありながら、歴史に「天神に敗れた哀しき権力者」としてその名を残すこととなった。
不意に、激しい梅の香が鼻腔をくすぐり、進は目を開けた。
そこはもう、寒冷な平安京の清涼殿ではなかった。
自分の部屋の天井が広がっている。
「……因果律、か」
進はベッドの上で体を起こし、深く息を吐いた。
名門の期待を背負い、圧倒的な才能を持つ道真に脅かされ、焦燥の果てに狂気へと走った藤原時平。
そして、無実の罪に倒れながらも天の理となって永遠の存在となった菅原道真。
二人の青年の壮絶な確執と破滅の物語が、進の胸に重く、深い余韻を残していた——。




