第4章 厄払いの無力
【都を追われる道真と、荒涼たる太宰府】
昌泰4年(901年)春。
都を追われる日、道真の手許には馬や牛車の給付すら許されず、監視の目が光る厳しい旅路であった。
住み慣れた紅梅殿の庭に咲き誇る梅を見つめ、
『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて さつき(春)を忘るな』
と詠んだ道真の胸を占めていたのは、ただ底知れぬ失意と、信じていた帝や国への哀しみであった。
山を越え、海を渡り、筑前国・太宰府の配所へと至る長い道のり。
道中、粗末な小屋で夜を明かしながら、道真の脳裏には様々な記憶が駆け巡っていた。
学問に没頭した若き日々の歓び、朝廷の不正や腐敗を正そうと奔走した日々、そして何より、我が子のように慈しみ、その成長と国の未来を願って献身してきた幼い醍醐天皇の面影——。
(私は、どこで道を誤ったのだろうか……)
太宰府の館は、雨漏りがし、壁の落げ落ちた荒涼たる廃屋であった。
衣服も食事も満足に与えられず、実質的な監禁状態の中で、道真は静かに写経を行い、天に向かって自らの清廉を訴え続ける日々を送った。
【天神(天の神)との交信…太宰府の夜】
配所に到着してしばらく経ったある深い夜、激しい雷鳴とともに凄まじい嵐が太宰府を襲った。
天地を揺るがす雷鳴の中、道真は暗い部屋で一人膝を折り、天を見上げて深く瞑想に入っていた。
その時、道真の精神は肉体の苦痛を超越し、はるかなる高み——天の領域(天神)と深く交信し始めていた。
『道真よ……怨むことなかれ。人の世の浮沈など、一瞬の夢に過ぎぬ』
脳裏に響き渡る清廉で荘厳な「天神」の声に、道真は静かに魂を重ね合わせた。
(……怨むなど、とうに捨て申した。ただ、我が誠心が踏みにじられたこと……この国から『正義』と『理』が失われ、謀略のみが横行する世となったことが、無念でならぬのです)
『汝の誠は、天がすべて知っておる。汝が流した涙、背負わされた濡れ衣、そして学問と国を想う心は、決して消え去りはせぬ』
(天神様……私はこれから、どうなるのでしょうか。この孤独と苦しみの中で、ただ朽ち果てていくのでしょうか)
『案ずるな。汝の魂は肉体を離れし後、雷となり、風となりてこの国土を巡るであろう。汝の無念は天の怒りとなり、偽りと誇大に満ちた者どもに裁きを下す。そして百年、数百年の後……汝は「学問の神」「天満大自在天神」として、この国のあらゆる市井の民、学びを志す者たちの希望の光として永遠に祀られるのだ』
(永遠の……光……)
『誇り高くあれ、道真。汝の「誠」は、人間のちっぽけな謀略などに殺されはせぬ』
雷光が部屋を白く染め上げた瞬間、道真の表情から深い失意の影が消え去り、静かで、どこか人知を超えた神聖な「静寂」が宿った。彼はもはや、単なる悲劇の政治家ではなかった。
【京・左大臣邸…時平を襲う恐怖と、終わりなき厄払い】
一方、政敵を太宰府へ追いやったはずの左大臣・時平の胸中は、勝利の歓喜どころか、日増しに強まる不吉な「胸騒ぎ」に支配されていた。
「伊崎……道真から、何か便りは届いておらんのか。奴は……太宰府で何を思っているのだ」
自室に引きこもる時平の顔色は蒼白であり、目の下には濃い隈が刻まれていた。
時平が誰よりも恐れていたのは、道真という男が秘めた「霊的な神秘性」であった。
道真は幼少期から、わずか5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を作ったという天才的な逸話を持ち、世間からは「文道の権化」「神童の生まれ変わり」と称されていた。
その学識と精神性の高さは、生前からどこか浮世離れした「人ならざる者の影」を漂わせせていたのだ。
(あやつは、ただの人間ではない……。もしや、死して怨霊となり、私を、藤原の家を呪い殺すつもりではあるまいか……!)
時平の脳裏を、終わりのない恐怖が苛んでいた。
濡れ衣を着せて強引に排除したという「強い罪悪感」が、道真の神秘性と結びつき、時平の心を内側から削り取っていたのだ。
「陰陽師を呼べ! 密教の僧を招け! 祈祷を絶やすな!」
時平は毎夜のように高僧を邸宅に招き、密教の怨霊調伏の大法を修させ、自らも神仏に必死の願掛けを行った。
邸宅のあちこちに塩が盛られ、お札が貼り巡らされ、怪しげな香の煙が四時立ち込めいていた。
「私は悪くない……! 藤原の家を守るためだったのだ! 奴が凄すぎるのが悪いのだ! なぜ……なぜ排除したというのに、奴の影が私から離れないのだ!!」
夜中に突然飛び起き、誰もいない暗闇に向かって叫ぶ時平。
権力の頂点に立ちながら、その心は目に見えない「天神の威圧」と「自らの罪の重み」によって、狂気と破滅の深淵へと引きずり込まれようとしていた——。




