第2章 知られざる時平の前半生
【漆黒の夜の独白】
昌泰4年(901年)1月中旬。
凍てつくような京都の夜。
左大臣邸の奥まった一室で、時平は脇息に深く身を預け、手にした盃を固く握りしめていた。燈篭の灯火が、彼の若く端正な顔立ちに歪んだ影を落としている。
「伊崎……。皆は私の人生をどう見ていると思う?」
時平は自嘲気味に呟き、進の方を見ずに続けた。
「『藤原北家の嫡男として生まれ、何一つ不自由なく歩んできた一等賞の男』……そう見えているのだろうな。だがな、私の前半生は……最初から最後まで、あやつ(菅原道真)という巨大な壁に阻まれ、思い通りになど行ったためしがないのだ」
時平の瞳に、静かな怒りと悲壮な色が宿る。進は息を呑み、彼の言葉に耳を傾けた。
【名門の重圧と、父・基経の影】
「私は関白・基経の長男として生まれた。16歳で光孝天皇の御前で元服し、19歳で公卿(参議)となった。誰もが私のスピード昇進を羨み、おもねった。だが、それは私個人の力ではない。父・基経という絶大な権力者の影があったからに過ぎん」
時平は深く息を吐き出した。
「父は強大すぎた。宇多天皇が即位された折の『阿衡の紛議』を覚えているか。詔勅の言葉遣い一つを理由に政務をボイコットし、天皇をも屈服させた……あの冷酷なまでの権力誇示。私は父の背中を見ながら、藤原の家を背負う恐怖を骨の髄まで叩き込まれたのだ」
しかし、時平が21歳の時、父・基経が突如として死去する。
「父が死んだ瞬間、世界が一変した。宇多天皇は摂政も関白も置かず、『親政』を行いたいと宣言された。つまり、我が藤原氏を政権の中枢から追い払おうとされたのだ。そして……その牽制の刃として抜擢されたのが、あの菅原道真だった」
【道真という異物の台頭と、忍耐の日々】
宇多天皇の圧倒的な愛を受け、学問の家柄に過ぎなかった菅原道真が爆発的なスピードで台頭してくる。
「私は27歳で左大臣となった。だが、同時に右大臣となったのは道真だ。……伊崎、私は最初から奴を憎んでいたわけではないのだぞ」
時平の手が、微かに震えた。
「奴の学識、実務能力、そして清廉な人柄……認めていたさ。だからこそ、私は若き左大臣として奴の意見に耳を傾け、礼を尽くし、ともに政を立て直そうと譲歩してきた。名門貴族の道楽息子ではないと証明したかったのだ。……だが、甘かった」
時平は盃を叩きつけるように置いた。
「宇多上皇様が醍醐天皇様へ譲位されても、道真への寵愛は深まるばかり。上皇様は私を飛ばし、道真だけに密かに幕後の相談をなさる。公卿たちの不満は限界に達し、朝廷の秩序は崩壊寸前だ。……私がどれほど歩み寄ろうと、奴が存在する限り、藤原の家も、私の矜持も、すべて踏みにじられ続けるのだ!」
【決意という名の歪んだ破滅】
時平は立ち上がり、進の前でゆっくりと歩を運んだ。
「生まれながらの御曹司……。その看板の裏で、私がどれほど葛藤し、どれほど奴の才気に脅かされ、惨めな思いを耐え忍んできたか! 奴のせいで、私の人生は一度たりとも『我がもの』になったことがないのだ!」
時平が進の肩を強く掴んだ。その指先には、爪が食い込むほどの力がこもっていた。
「だからこそ、決めたのだ。もう引き下がらん。我が藤原の存続のため、そして何より……私という政治家が生き残るためにな。手段など選ばぬ。道真を密謀の罪で太宰府へ叩き落とし、二度と京の土を踏ませぬ……!」
そこにあったのは、冷徹な陰謀家の顔ではなかった。
名門の重圧とライバルの圧倒的な才能に打ちのめされ、自尊心をズタズタにされた一人の青年が、自らを保つために選んだ「決死の狂気」であった。
進は時平の悲壮な叫びを浴びながら、歴史が回避不能な惨劇へと向かって加速していくのを、慄然とした思いで感じていた——。




