第1章 梅の香と、破滅の焦燥
【異例の出世と、右大臣の影】
ふたたび目を覚ました時、進は寒冷な京都の内裏にいた。
昌泰元年(898年)。
着慣れぬ狩衣を纏った自分の姿。
周囲の会話や政務の記録から、ここが9世紀末、宇多上皇と醍醐天皇の治世であることが理解できた。
進はこの時代、左大臣藤原時平の側近という立場にあった。
藤原氏といえば、他氏排斥によって代々摂政・関白の座を独占し、朝廷の頂点に君臨してきた絶対的な名門である。承和の変、応天門の変——立ちふさがる政敵はことごとく策謀によって失脚させ、自らの血筋を天皇の母方(外戚)とし、権力を揺るぎないものにしてきた。
だが、今の政局は何かが狂っていた。
進の目の前にいる名門藤原氏の若き首領・藤原時平は、薄暗い部屋の中で肘かけに寄りかかり、苦々しい表情で爪を噛んでいた。
「……まただ。今日も帝は、学者の意見ばかりをお求めになる」
時平の吐き捨てるような呟きが、静まり返った屋敷に響く。
その視線の先にあるのは、藤原氏を差し置いて異例の寵愛を受ける男——**菅原道真**の存在だった。
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**【昌泰2年(899年)】「血筋」対「実務」の壁と、時平の苛立ち**
道真は学者出身の参議から右大臣にまで上り詰め、ついに時平と肩を並べる存在となっていた。藤原氏の血を引かない学者が大臣に就任するなど、朝廷の長い歴史において前代未聞の異常事態であった。
「伊崎(進)、貴様も見たであろう。今日の陣定(じんの定め)での道真の顔を」
時平は進を呼びつけると、手元の文書を叩きつけるように卓に置いた。
「律令の解釈、財政の建て直し、蝦夷への対応……何を聞いても、奴は淀みなく答えてみせる。『左大臣殿のご意見は?』と帝に問われ、答えに詰まった私を、奴は冷ややかな目で見ていたのだ! 式部卿として、学者として培った知恵……だと? ふざけるな!」
時平の胸を苛んでいたのは、圧倒的な「劣等感」と「焦燥」だった。
時平自身、藤原北家の嫡流として生まれ、若くして左大臣に上り詰めた才気煥発な人物である。だが、道真が持つ圧倒的な学識と実務能力、そして宇多上皇・醍醐天皇からの深い信憑の前に、己の誇りが日々削り取られていくのを感じていた。
「藤原の家に生まれたというだけで重用されていると思われたくない。私とて、この国を新しく立て直したいのだ。……だが、帝が真に頼りにされているのは、私ではなく奴なのだ!」
時平の言葉には、名門の重圧に押し潰されそうな青年政治家の苦悩が滲んでいた。
どんなに血筋を誇ろうと、帝の心が道真にあるという事実は動かない。従来の「他氏排斥」の手口——謀反の噂を流したり、密かに罪に問うたりする手段も、道真の清廉潔白さと帝の強い庇護の前に、ことごとく通用しなかった。
「退けられんのだ……。これまで我が藤原が退けていた者たちとは訳が違う。隙がない。一点の不祥事すら起こさぬ! 奴がいる限り、私はただの『名家の飾り』で終わってしまう……!」
暗闇の中で、時平の目が怪しくギラついていた。
嫉妬と焦焦、そして権力を奪われることへの恐怖が、時平の心を次第に狂気へと追いやっていた。
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**【昌泰4年(901年)正月】歪んだ覚悟と、破滅へのカウントダウン**
時平のイライラは、昌泰4年に入ると頂点に達した。
宇多上皇がさらに道真を重用し、ついには時平を省いて道真だけに幕後の相談を持ちかけているという噂が流れたからだ。
「……もう、猶予はない」
夜更け、時平は進だけに声を落として語りかけた。その顔からはかつての聡明さは消え失せ、冷酷な陰影だけが差していた。
「正攻法では奴に勝てん。ならば……手段を選ぶ必要などないのだな、伊崎」
「左大臣殿……何をなさるおつもりですか」
進が問い詰めると、時平は嘲笑を浮かべた。
「道真が『醍醐天皇を廃し、己の婿である斉世親王を皇位に就けようとしている』……そう帝に奏上する。帝も若く、上皇様との関係に不安を抱いておられる。この『疑心』さえ植え付ければ、どれほど清廉な男とて一溜まりもあるまい」
(冤罪だ……。あまりにも露骨で、酷い濡れ衣だ)
進の脳裏に、道真の孤独な後姿が浮かんだ。
道真はただ、天皇の期待に応え、衰退する国政を立て直そうと誠実に務めていただけだった。しかし、その「誠実さ」と「圧倒的な能」こそが、藤原時平という人間のプライドを激しく脅かし、恐ろしい毒気を生み出してしまったのだ。
「伊崎、お前は私を卑劣と思うか?」
時平が進の目を見つめて呟いた。その声は微かに震えていた。
「……我が藤原の栄華を守るためだ。ここで道真を潰さねば、藤原の歴史が終わる。私は、悪魔に魂を売ってでも奴を九州の地に叩き落としてやる」
時平の瞳に宿っていたのは、権力を守るための執念と、己の無力さを隠すための底知れぬ恐怖だった。
歴史が刻々と「昌泰の変」へと向かっていくのを、進は時平の傍らで、狂気と焦燥の渦に巻き込まれながら見つめていた——。




