第7章 大老の遺言
【夜明けの光】
ふっと、息が吸えるようになった。
胸を押し潰していた重い雪の冷たさも、暗闇の奥で響いていた勝鬨や叫び声も、潮が引き潮となって去っていくように薄れていく。
「……進さん? 進さん、大丈夫?」
聞き慣れた柔らかい声に促され、進はゆっくりと瞼を開いた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた自宅の天井だった。
カーテンの隙間から、朝の穏やかな光が室内へ差し込んでいる。
傍らでは、妻の美智子が心配そうに自分を覗き込んでいた。
その手には、いつも進のために淹れてくれる濃いお茶の入った湯呑みが握られている。
「……美智子……」
「よかった……すごくうなされていたのよ。額に汗をたくさんかいて……」
美智子は胸をなでおろし、安堵の笑みを浮かべた。
その温かい手に触れた瞬間、進は自分が幕末の江戸から、2026年の「現実」へと戻ってきたことを深く実感した。
適応障害と診断され、教壇に立つ気力を失い、休職を余儀なくされていた日々。
自分は何のために生きてきたのか、教え子たちに教え込んできた歴史の知識など何の意味があったのかと、自暴自棄な闇の中に沈んでいた。
だが、胸の奥底で、あの言葉がずっと鳴り響いていた。
『わかってくれる者は、百年後の日本におればそれでよい』
『咲く花も 散るもみじ葉も 散り果てて 跡なき庭に 立つぞうれしき』
孤立無援の闇の中で、世間の罵詈雑言を一身に浴びながらも、国家の未来のために己の命と悪名を投げ打った井伊直弼の姿。
(そうだ……大老様は知っていたのだ)
進の心の中に、途方もない感情が込み上げてきた。
直弼は、自分が歴史に殺されることを知っていた。
己の施策が否定され、裏切られ、虚しい結果に終わるかもしれないことすら予感していた。
それでも、逃げなかった。誰に理解されずとも、「今、自分が果たさねばならぬ職責」から目を背けなかった。
夢の中で出会った世阿弥も、天智天皇も、そして井伊直弼も——皆、時代の巨大な波に翻弄され、傷つき、理想と現実の狭間で血を吐くような思いを抱えていた。
歴史とは、成功者の華やかな英傑伝などではない。
倒れてもなお、己の信じる道に命をくべ続けた人間たちの「覚悟」の連綿たる積み重ねだったのだ。
(それに比べて、自分はどうだった……?)
進は自問した。
予備校の講師として、思い通りにいかない現実に打ちのめされ、傷つくことを恐れて殻に閉じこもっていた。
自分の教えが届かない焦りや、組織での無力さに絶望し、ただ「被害者」として逃げ出していたのではないか。
「……進さん? お茶、飲む?」
美智子が差し出してくれた湯呑みを受け取る。
指先から伝わる熱が、凍りついていた進の心核をじんわりと溶かしていく。
「ありがとう、美智子。……すごく長くて、不思議な夢を見ていたよ」
「夢……?」
「ああ。飛鳥の都から、幕末の雪の中まで……ずっと旅をしていたんだ」
進は湯呑みを一口啜り、深く息を吐き出した。
胸のつかえが、嘘のように消えていた。
直弼が命を賭して守ろうとしたのは、百年後の未来——まさに今、自分が生きているこの現代だった。
ならば、その未来を生きる自分が、いつまでも下を向いて立ち止まっているわけにはいかない。
誰かに評価されるためでも、完璧な成果を出すためでもない。
たとえまた壁にぶち当たり、理解されない孤独を味わったとしても、自分自身が信じる「誠」を尽くして生きること。
それが、夢で出逢った者たちへ送る、唯一の返答なのだと悟った。
「美智子。僕……もう一度、教壇に立とうと思う」
美智子は一瞬驚いたように目を見開き、それから静かに、心からの笑顔を浮かべた。
「ええ。進さんなら、絶対に大丈夫よ」
窓の外を見上げると、雲の切れ間から強い太陽の光が差し込んでいた。
歴史という壮大な大河の端っこで、自分もまた、己の足で歩み始める。
進の瞳には、かつてない静かで強い覚悟の光が宿っていた。




