第3章 恨みの全てを背負う覚悟
【暗雲の日々】
安政六年(1859年)の暮れから翌安政七年(1860年)へ——。
江戸の町に漂う殺気は、いよいよ隠しようもないほどに濃くなっていた。
安政の大獄による厳罰化と幕政の独裁は、反幕勢力の怒りを極限まで増幅させていた。
特に過激化した水戸藩の脱藩浪士たちは、「大老・井伊直弼こそが国を滅ぼす諸悪の根源」と定め、江戸市中に潜伏しながら密かに刺客の刃を研いでいた。
(このままでは、大老様が殺される……! なんとかして味方を増やさねば……!)
危機感を募らせた進は、幕府内部の穏健派や他藩の留守居役を精力的に訪ね歩いた。
「今、大老様を失えば幕府の権威は地に落ち、国は無政府状態に陥ります! 尊攘派の暴走を抑えるため、どうか井伊様をお支えください!」
しかし、進の命がけの画策も空しく、返ってくるのは冷ややかな拒絶ばかりだった。
「伊崎殿、今の井伊様に与すれば、我らまで脱藩浪士の標的とされる」
「火中の栗を拾う者など、この江戸城には一人もおらんよ」
誰もが「赤鬼」と仇名される直弼と距離を置き、自らの保身に走っていた。
幕府の重臣たちすら、迫り来る惨劇の予感から目を背けていた。
進は孤立無援の絶望に打ちひしがれながらも、直弼の屋敷の警備を強化しようと走り回った。
【暗殺者の影】
安政七年正月。江戸城への登城の道中、すでに直弼の元には幾通もの「暗殺の警告状」や不穏な密告が寄せられていた。
「大老様! 水戸の脱藩浪士らが江戸に入り、登城の途上を狙っているとの報がございます! 警護の供回りを増やすか、しばらく登城をお控えください!」
進が切迫した声で訴えても、直弼は眉一つ動かさなかった。
「進、動じるな。大老たる者が刺客の噂に怯えて供回りを増やせば、幕府の威信は地に落ちる。余は今まで通り、井伊家の定法通りの警護で登城する」
直弼は一切の特別扱いを拒み、普段通りの公務と生活を平然と崩さなかった。
死を恐れていないのではない。
己の恐怖以上に、「幕府の威信」と「国家の責任」を重く見ているからこその平常心であった。
二月のある夜。
登城を終えた直弼は、静かな自室で和歌を詠んでいた。
三十二歳まで「埋木舎」で世に出ることもなく、不遇の青年時代を過ごしていた頃の直弼の歌は、どこか寂げで世を儚む色彩が強かった。
しかし、目の前で筆を走らせる直弼の横顔には、かつてない気迫と静かな充足感が漂っていた。
「……進、これを聞いてくれるか」
直弼は一紙の短冊を掲げ、朗々と詠み上げた。
『咲く花も 散るもみじ葉も 散り果てて 跡なき庭に 立つぞうれしき』
「咲く花のような栄華も、散る紅葉のような哀れも、すべてが散り失せたその後に……ただ一人、覚悟を持って庭に立つ。それが今の余の心境よ」
直弼は穏やかに微笑んだ。
「埋木舎で終わるはずだったこの命。思いがけず国難の舵取りを任され、悪名を背負いながらも、なすべき仕事をなし得た。……悔いはない。余の人生は、実に満ち足りておる」
そこにあったのは、迫り来る死期を悟りつつも、国家の運命を一人で背負いきった男の、澄み切った覚悟だった。
進は溢れ出る涙を堪えきれず、畳に額を擦り付けた。
明日は登城して頂きたくない。
しかし、大老は聞き入れなかった。
大老には、全てが分かっていた。
もし、うまく明日生きながらえたとしても、いずれどこかで討たれるであろうことを。
「大老様……私は、何としてもあなた様をお守りいたします……! 明日の三月三日、上元(桃の節句)の登城……どうか、どうかお気をつけください……!」
進の言葉に、大老は黙って微笑んだのみだった。
(この方を死なせてはならない。絶対に死なせてはならないのだ)
進は、そう心に誓っていた。
外では、明日の惨劇を予感させるように、季節外れの猛吹雪が江戸の町を白く染め始めていた——。




