第2章 虚しい説得の時間
【追い詰められる大老】
安政六年(1859年)の冬、幕府を取り巻く状況は混迷を極めていた。
京の朝廷や水戸藩を中心とする攘夷派の勢いは増すばかりであり、世論は「夷狄(外国人)を追い払え」「条約を撤回せよ」という熱狂に包まれていた。
だが、その熱狂の裏にある絶望的な現実を理解している者は、幕府のほんの一握りの上層部しかいなかった。
直弼の執務室の机には、長崎のオランダ商館から定期的に提出される「オランダ風説書」や「別段風説書」が密かに積まれていた。
そこには、清国がアヘン戦争で英吉利に惨敗し、広大な領土と権益を毟り取られた悲惨な実態が克明に記されていた。
蒸気船の機動力、近代砲の絶大な破壊力——世界最強の軍事力を誇る列強に対し、竹槍や数打物の刀、旧式の鉄砲しか持たない日本が戦を挑めば、国そのものが灰燼に帰すのは火を見るより明らかだった。
「列強の軍事力を舐め切っておる……。話して解る相手ではないのだ」
直弼は深く溜息をつき、頭を抱えた。
水戸藩の士や朝廷の公卿たちは「日本の神国としての気概を見せれば夷狄など恐るるに足らず」と本気で信じ込んでいた。
情報が遮断された泰平の世にあって、国際情勢の厳しさを説明したところで「恐怖に慄く腰抜けの言い訳」と切り捨てられるだけだった。
「大老様……私が、もう一度彼らを説得してまいります」
【無力な説得】
進は立ち上がった。
現代の歴史知識を持つ進には、ここで開国を選ばねば日本が植民地化される未来がはっきりと見えていた。直弼一人が悪者となり、暗殺される運命をどうにかして変えたかった。
進は水戸藩の重臣や、朝廷とつながる公家衆との極秘の会談を取り付け、奔走した。
「どうかお聞きください! 清国が敗れたのは、決して士気が低かったからではありません。敵の鉄砲は我が方の十倍の距離を穿ち、黒船の砲火は一瞬で城郭を吹き飛ばします! 今、戦を開けばこの日本が第二の清国となるのです!」
進はオランダ風説書から引き写した図面や、列強の兵器の威力を示す資料を広げ、声を枯らして訴えた。
必死だった。
教壇で受講生に歴史を教える時以上の熱量で、言葉を尽くした。
しかし——相手の反応は冷淡そのものだった。
「たわけたことを! 蘭人の吹き込む欺瞞に惑わされおって!」
「幕府の腰抜けめ、異人の威を借りて我らを脅す気か!」
「大老の走狗が! 皇国の威光を汚す者は天誅を免れぬぞ!」
いくら論理とデータを示しても、根深い思想と感情の壁を打ち破ることはできなかった。
進の言葉は、まるで豆腐に釘を打つように虚空へ消えていった。
数日後。進が血の滲むような思いで作った説得のための意見書や、国際情勢を解りやすくまとめた解説書は、水戸藩の使者によって破り捨てられ、そのまま送り返されてきた。
「……全て、水の泡か」
自室に戻った進は、床に散らばった破片を前に膝をついた。
いくら正しい未来を知っていても、当事者たちの意識を変えることはできない。
自分の無力さに、胸が潰れるような絶望感が押し寄せた。
【大老の囁き】
そこへ、静かに直弼が歩み寄ってきた。
直弼は床の破片を拾い上げると、咎めることもなく、静かに進の肩を叩いた。
「進、苦労をかけたな。……お前の誠は十分に伝わっておる」
「申訳ございません、大老様……。私の力が足りず、誰一人としてご理解いただくことができませんでした……!」
悔しさに声を震わせる進に対し、直弼はどこか月清らかな笑みを浮かべていた。
「よいのだ。最初から分かっていたこと。理で解らぬ者に理を説いても届かぬ。だからこそ、誰かがその謗りを全て引き受け、強引にでも舵を切らねばならんのだ」
直弼は文机に向かうと、静かに筆を走らせた。
自分の命の期限が刻一刻と近づいていることを、自覚しているかのような静寂が部屋を包んでいた。
「わかってくれる者は、百年後の日の本におればそれでよい」
孤立無援の闇の中で、直弼の横顔だけが、静かに、そしてあまりにも切なく輝いていた——。




