第8章 天武朝の闇
【進麻呂の裏切り】
吉野からの密書を前に、進麻呂の心は静かに固まった。
彼は夜陰に紛れて大津宮を抜け出し、吉野の大海人陣営へと走る決意をした。
だが、それは己の命を惜しんでの保身では決してなかった。
(大友皇子様……)
幼少期からその姿を見てきた大友皇子は、誠実で聡明、そして誰に対しても慈悲深い青年だった。
父・天智天皇の冷酷さとは似ても似つかぬ「良い人」であった。
しかし、諸豪族が群雄割拠し、東アジアの情勢も緊迫するこの乱世において、その優しさは弱さに他ならなかった。
人を疑えず、冷徹になりきれない大友皇子では、この国を束ね上げることは到底不可能である。
(日本の未来のためには……非情を呑み込み、強大なリーダーシップを発揮できる大海人様が天下を治めるべきだ)
国家の存続という大義のために、進麻呂はあえて裏切り者の汚名を着る道を選んだのだった。
【壬申の乱】
672年、壬申の乱が開戦した。
大海人皇子は東国へ素早く逃れて軍勢を整えると、破竹の勢いで近江朝廷軍を圧倒していった。
進麻呂は自ら刃を振るうのではなく、食糧の調達や前線への情報伝達といった「後方支援」に徹した。
綿密な計画と正確な文書のやり取りで補給線を支え、吉野軍の連戦連勝に大いに貢献した。
激戦の末、瀬田川の戦いで近江軍は壊滅。
大友皇子は山中で自害し、古代史上最大の内乱は大海人皇子の圧勝で幕を閉じた。
吉野の陣営で勝利の歓声が上がる中、進麻呂は破れて散った大友皇子の優しかった笑顔を思い出し、一人静かに胸を痛めていた。
だが、これで血生臭い闘争もようやく終わるのだと、心のどこかで安堵してもいた。
【恐るべし大海人皇子】
しかし――乱が収束して間もないある夜。
飛鳥浄御原宮の奥深くで、進麻呂は新しき絶対者・大海人皇子(後の天武天皇)に呼び出された。
高座に座す大海人皇子の瞳には、かつて吉野で死を偽っていた頃の穏やかさは微塵もなく、天下を掌握した覇王の鋭い光が宿っていた。
「進麻呂。戦は終わった。……だが、真の戦いはこれからだ」
大海人皇子は低い声で告げた。
「私は甥である大友を討ち、力を以てこの位を奪い取った。このままでは、後世の者どもは私を『野心に狂った謀反人』と呼ぶだろう。武力で手に入れた権力は、また別の武力によって脅かされる」
大海人皇子は、進麻呂の目の前に一枚の白紙の巻物を差し出した。
「我が天武の血脈が永遠にこの国を統べるため、私の即位の正当性を徹底的に固めるのだ。我が一族が神の時代からこの国を治めるべく選ばれた存在であるという『歴史』を編纂する。……進麻呂、お前のその正確な筆と知識で、我が統治の正当性を証明する史書作りを手伝え」
息をのむ進麻呂に、大海人皇子は冷酷な笑みを浮かべた。
「勝者が歴史を作るのだ。……頼んだぞ、進麻呂」
それは、後に『日本書紀』や『古事記』へと繋がる、巨大な国家歴史編纂事業の始まりであった。
刀による戦いが終わった直後に突きつけられた、今度は「言葉と歴史の改ざん」という新たな暗闘命令。進麻呂の背中に、冷たい汗が伝い落ちていった――。




