第7章 寝返るか否か
【天智天皇の罠】
吉野へ退くか、それともこの場で討たれるか――。
緊迫した空気が、天智天皇の寝所を支配していた。
病床に横たわる天皇は、枕元に大海人皇子を呼び寄せると、鋭い眼光を向けて言った。
「……大海人よ。私の命も、もはや幾ばくもない。……次の天皇の位、そなたに譲りたい」
天皇の背後に控える側近たちの手が、静かに刀の柄にかかる。
もし大海人皇子が僅かでも喜色の表情を見せ、承諾の言葉を口にすれば――即座に「謀反の野心あり」として殺害する手筈であった。
かつて有間皇子を嵌めたときと全く同じ、冷酷きわまる罠だった。
しかし、大海人皇子はその企みを見抜いていた。
彼は即座に平伏し、涙を流しながらうやうやしく言った。
「滅相もございません。私には天災を払う徳も、国を治める器量もございません。次の位には、どうか大友皇子様がお就きになられますよう……。私は出家し、吉野の山に入って兄上の平癒を祈る所存にございます」
一切の隙を見せず、完璧な謙譲の態度で出家を申し出た大海人皇子。
天皇は出家を許すしかなかった。
吉野へ向かう大海人皇子の背中を見送りながら、天智天皇は血の滲む唇を噛み締め、悔しげに病床へ倒れ込んだ。
【天智天皇崩御】
そして――天智天皇十年(671年)十二月。
幾人もの肉親や同志を血の海に沈め、絶対権力を握り続けた巨星・天智天皇は、激しい苦悶と深い疑心暗鬼の残滓の中で、ついに崩御した。
天皇の崩御とともに、亡き父の遺志を継いだ大友皇子が近江大津宮で挙兵の準備を進めていた。
一方、吉野に隠れていた大海人皇子もまた、「老虎に翼が生えて野に放たれた」がごとく静かに軍勢を集め始めた。
天智天皇が死の間際まで死ぬほど恐れていた悲劇が起きようとしていた。
――実の息子と実の弟が皇位を巡って国を二分する古代最大の内乱、「壬申の乱」の火蓋が切られようとしていた。
【密使が進麻呂のもとに】
大津宮が戦の緊張感に包まれるある夜。
自室で武具の点検をしていた進麻呂のもとへ、影のように忍び寄る一人の男があった。
男は吉野の大海人皇子から遣わされた、密使であった。
密使はそっと一巻の文を差し出すと、低く囁いた。
「伊崎進麻呂殿……。大海人様より、お文にございます」
進麻呂が文を解くと、そこには大海人皇子自らの力強い筆致で、驚くべき誘いが記されていた。
『進麻呂よ。亡き天智天皇の冷酷な粛清の歴史を、お前は誰よりも近くで見届けてきたはずだ。大友皇子に付き従えば、お前もまた近江朝廷の崩壊とともに討ち取られることとなる。……我が陣営に寝返られよ。お前のその緻密な知恵と、声を捨てて影に徹する忠誠を、新しい国の礎としたい』
破格の密約――吉野の大海人陣営への「寝返り」の打診であった。
進麻呂の手が、かすかに震えた。
大津宮にとどまり、亡き天智天皇の遺児・大友皇子とともに討ち死にするか。
それとも密書に応じ、吉野へ走って大海人皇子の臣下となり、新たな時代の勝者となるか。
迂闊に声を出せない進麻呂は、静まり返った部屋の中で文を握りしめ、漆黒の飛鳥の夜空を見上げた。
血で血を洗う陰謀の果てに訪れた乱世で、一人の予備校講師の魂を持つ男は、己の生き様を賭けた究極の選択を迫られていた――。




