第6章 弟の影
【皇子の即位】
血で塗られた歳月が流れた。
乙巳の変から二十余年。
中大兄皇子は長らく「皇太子」の地位にとどまり続け、母である皇極・斉明天皇や叔父の孝徳天皇を矢面に立たせて実権を握ってきた。
何度も即位の機会はあった。だが、敢えて即位しなかったのは冷徹な計算があったからだ。
(即位すれば、あらゆる不満や謀反の標的となる。だが皇太子のまま実権を握れば、政敵を排除しつつ、自らは陰からすべてを支配できる……)
すべてのライバルを血の海に沈め、反対勢力を完全に根絶やしにした後、668年――男は満を持して天智天皇として即位した。
天皇となった彼は、権力の集中と国家基盤の確立に狂奔した。
日本初の本格的な法令集とされる近江令の制定、水時計(漏刻)を用いた日本初の「暦」の運用、そして全国規模の戸籍である「庚午年籍」の作成――。
かつて豪族たちが私有していた土地と人民をすべて天皇のものとする公地公民制が整い、もはや天智天皇の絶対権力に逆らう者など、この国には一人として存在しないかに見えた。
【大海人皇子の影】
だが――全能の権力者となった天智天皇の胸中を、激しい疑心暗鬼が蝕んでいた。
「……進麻呂。あやつは、今何をしている」
近江大津宮の奥深くに建つ暗い部屋で、天智天皇が病んだ眼光を光らせて問うた。
進麻呂は木片に静かに文字を刻んだ。
『大海人皇子様にございますか。本日も政務を速やかに執り行われ、群臣たちからの信頼も一際あつくございます』
その文字を見た瞬間、天智天皇の顔が苦々しく歪んだ。
「……それだ。その『信頼』こそが、私を殺すのだ」
天智天皇の最大の懸念――それは跡継ぎ問題であった。
天智天皇は自らの愛息である大友皇子に皇位を譲り、天智の血筋による絶対王政を確立することを切望していた。
しかし、最大の障害として立ちはだかるのが、実の弟であり、壬申の乱で歴史に名を刻むことになる巨星・大海人皇子であった。
大海人皇子は軍事・政治の双方において圧倒的な手腕を持ち、大海人派の豪族たちからの人望も極めて高かった。
大海人皇子本人は、病床に伏しがちとなった兄・天智天皇に対し、どこまでも恭順の態度を示し、目立った野心など一切見せていなかった。
だが、幾人もの同志や従兄弟を謀略で抹殺してきた天智天皇だからこそ、弟のその「無欲な笑顔」が恐ろしかった。
【疑念】
「嘘だ……。あいつのあの目は、爪を隠している猛獣の目だ。私が死ねば、即座に大友を殺して位を奪う気に決まっている……!」
深夜、激しい咳き込みとともに、天智天皇は血のついた手ぬぐいを握りしめながら呟いた。
病魔に侵され、日に日に衰えていく肉体。死の恐怖と比例するように、弟への疑念は狂気へと変わっていく。
「進麻呂……有間のときと同じだ。大海人に罠を仕掛けろ。奴が本音を漏らした瞬間を捉え、謀反の罪で処刑する……!」
かつて有間皇子を嵌めたときと同じ冷酷な命令。
声を失った進麻呂は、青ざめた顔で天智天皇を見つめた。
自らの手を血で染め続け、ついに実の弟すら殺そうとする哀しい権力者の姿。
(……倒さなければ、倒される。皇子は今もなお、その地獄の中に縛られ続けているのだ……)
進麻呂はゆっくりと首を横に振った。
『陛下、大海人様は兄上であるあなた様を心より敬っておられます。これ以上、血を流してはなりませぬ』
「黙れッ!」
天皇は激昂し、傍らにあった硯を進麻呂に向かって投げつけた。硯は壁に当たって砕け散り、黒い墨が血のように壁を伝い落ちる。
「私の苦悩が、お前ごときに分かってまるか! 倒さなければ倒される……! 奪わなければ奪われるのだ! 大友を守るためなら、私は弟の首だって撥ねてやる……!」
血を吐くような叫びが、静まり返った宮殿に虚しく響き渡った。
絶対的な権力を手に入れ、国の頂点に立った男。
しかしその内面は、かつて蘇我入鹿の脅威に怯えていた夜と何一つ変わっていなかった。
深すぎる孤独と疑心暗鬼の暗雲が、死期の近づく天智天皇と、飛鳥の国の未来を黒く覆い尽くそうとしていた――。




