第5章 権力闘争の闇
【消えていく政敵】
蘇我入鹿の討伐、そして古人大兄皇子の迅速な粛清。
権力の階段を上り詰める中大兄皇子の手は、留まることを知らず血に染まり続けていった。
進麻呂はそのすべての陰謀に影として従わされ、権力の冷酷な刃が次々とライバルたちを薙ぎ払っていく様を目撃することとなる。
【用済みの密告者――蘇我日向の配流】
石川麻呂を冤罪で死に追いやった直後、中大兄皇子が次に向けた視線は、石川麻呂の異母弟であり「密告者」として動いた蘇我日向であった。
「皇子、日向殿が石川麻呂殿の謀反を密告した功績により、さらなる恩賞を求めております」
進麻呂が木片に文字を書いて提示すると、中大兄皇子は冷笑を浮かべた。
「兄を売って権力を得ようとするような不忠の輩など、いつ我が背中を刺すか分かったものではない。石川麻呂の死が『冤罪』であったという名分を立て、日向を筑紫大宰(九州)へ飛ばせ。二度と都の土を踏ませるな」
用が済めば、密告者すらも「冤罪の発覚」を理由に容赦なく左遷する。
自らの手を汚すことなく、密告者一人に罪をかぶせて遠ざける完璧な蜥蜴の尾切り。
進麻呂は日向が筑紫へ引き立てられていく後姿を見送りながら、中大兄皇子の底知れぬ計算高さに身の毛がよだつ思いがした。
【不穏の芽を摘む軍事威圧――難波宮の孤立】
改革の主導権を巡り、中大兄皇子と真っ向から対立した孝徳天皇。
皇子が都を飛鳥へ戻したことで、孝徳天皇は難波宮に取り残され、失意のうちに崩御した。
だが、天皇派であった保守派豪族たちの底流には、中大兄皇子への激しい不満と憤怒が渦巻いていた。
挙兵の兆候を感じ取った中大兄皇子は、すぐさま阿倍比羅夫ら軍事力を握る将軍たちを派遣。
圧倒的な軍事力を背景に難波周辺を封鎖し、不穏な動きを見せる豪族たちを徹底的に監視・威圧した。
「立つ前に潰す。疑わしきは、刀を抜く隙すら与えるな」
進麻呂は軍勢の配置図を作成し、反対勢力の連絡網を断ち切る暗躍を命じられた。
戦になる前に力で屈服させ、謀反の芽を事前に摘み取る。飛鳥の都は、静かなる軍事的恐怖によって完全に支配されていった。
【美しき貴公子の罠――有間皇子の変】
そして――最も陰惨で悲劇的な粛清劇が訪れる。
孝徳天皇の遺児であり、中大兄皇子にとっては従兄弟にあたる有間皇子。
斉明天皇(中大兄皇子の母)と皇子の強権政治に対する不満が噴出する中、聡明で人望のあつい有間皇子は、反中大兄派の心の拠り所となっていた。
有間皇子自身は災いを避けるため狂気を装っていたが、中大兄皇子は許さなかった。
「進麻呂、赤兄を呼べ」
中大兄皇子の命を受け、側近の蘇我赤兄が有間皇子に近づいた。
赤兄は言葉巧みに皇子に歩み寄り、「今の執政には不満が多い。貴方様が立ち上がれば、皆が従います」と偽りの情を注いで本音を引き出した。
「……本気で言っておられるのか。ならば、私も……」
有間皇子が心を許し、密謀の言葉を口にしたその瞬間、赤兄は手のひらを返し、中大兄皇子へ「謀反の挙兵」として通報した。
すべては仕組まれた「罠」だった。
捕らえられ、藤代坂へと引き立てられていく有間皇子。
わずか十九歳の美しき皇子は、処刑の直前、道端の松の枝を結びながら歌を詠んだ。
『家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る』
(家にいれば器に盛るご飯を、こんな旅路の中、椎の葉に盛らねばならないとは……)
絞首刑の縄が有間皇子の首にかかるその瞬間まで、進麻呂はその場で見張りを命じられていた。
何も知らずに罠に嵌められ、命を散らしていく若き皇子の無念の瞳。
声の出ない進麻呂の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
(なぜだ……なぜここまでして殺し合わねばならないんだ……!)
処刑を終え、報告に戻った進麻呂に対し、中大兄皇子は庭の池を優雅に泳ぐ錦鯉を眺めながら、振り返りもせずに言った。
「泣いているのか、進麻呂。……有間が生きていれば、いずれこの国は二つに割れて血の海になっていた。一人の死で天下が収まるなら、安いものだ」
中大兄皇子の横顔には、かつて「次は自分が狙われる」と怯えていた純粋な青年の面影は欠片も残っていなかった。
ライバルをすべて排除し、孤独な絶対者として君臨する男の背後に、進麻呂は計り知れない底なしの闇を見たのだった――。




