第4章 粛清の連鎖
【蘇我宗家の滅亡】
皇極天皇四年六月十二日。
飛鳥板蓋宮の大極殿。
三韓からの使者を迎える「三韓の表」の儀式が執り行われる中、空気は凍りつくような緊張感に満ちていた。
言葉巧みな誘導により、蘇我入鹿は儀式上の不敬を理由に、自慢の名刀を外されていた。
殿上で上表文を読み上げる蘇我石川麻呂。
その手がガタガタと激しく震え、声が上ずる。
異変を察知した入鹿が眉をひそめたその瞬間――重い扉が蹴破られ、長槍を握りしめた中大兄皇子と刺客たちが躍り出た。
「者共、いけッ!」
怒号と悲鳴が錯綜する大極殿。
剣を奪われていた入鹿は抵抗する術もなく、刺客たちの刃と中大兄皇子の長槍に貫かれた。
皇極天皇の御前に血飛沫が飛び散り、かつて天下を誇った蘇我入鹿は、無残な絶命を遂げた。
翌日、父の蘇我蝦夷は甘樫丘の邸宅に自ら火を放ち、代々伝わる国記や宝物とともに炎の中で自害した。
後に「乙巳の変」と呼ばれるクーデターは、完全なる成功を収めたのだった。
【石川麻呂の悲劇】
しかし――惨劇はこれで終わりではなかった。
クーデターの熱狂が冷めやらぬ中、進麻呂は中大兄皇子と中臣鎌足が不穏な密議を重ねている現場を目撃する。
二人の口から出た次の排除ターゲットの名――それこそが、命がけで協力した功労者・蘇我石川麻呂であった。
(な……なぜだ!? 石川麻呂殿は命を懸けて我らに協力してくれた恩人ではないか……!)
進麻呂は、必死の思いで中大兄皇子の前に進み出た。
『皇子! 石川麻呂殿を疑うなど狂気の沙汰にございます! 彼は共に血を流した同志! これ以上無実の血を流せば、我らの掲げた「大義」はただの虐殺に成り下がります!』
中大兄皇子は進麻呂を冷ややかに見下ろすと、何の感情も宿っていない低い声で吐き捨てた。
「進麻呂……お前は青いな。蘇我の血を引く者が残っている限り、奴らはいつでも『逆賊を討つ』と掲げて反旗を翻すことができる。芽は小さいうちに摘まねばならんのだ」
中大兄皇子と鎌足は、石川麻呂に「謀反の企みあり」と濡れ衣を着せ、軍勢を差し向けた。
絶望した石川麻呂は身の潔白を証明するため、山田寺で妻子とともに首を吊って自害した。
【中大兄皇子の涙の真実】
石川麻呂の死後、彼の屋敷から中大兄皇子へ宛てた誓状や自筆の書物が発見された。
そこには、皇子への揺るぎない忠誠と、国の未来を案じる清廉な想いだけが綴られていた。
石川麻呂の完全な「潔白」が証明された瞬間だった。
「……ああ……! 石川麻呂……! 私を許してくれ……! 私の早合点のせいで、忠臣を失ってしまったぁぁっ!」
宮廷の庭で、中大兄皇子は石川麻呂の遺品を抱きしめ、声を上げて激しく泣きじゃくった。
顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、地を這い回りながら己の不明を恥じ、嘆き悲しむ姿。
群臣たちはその悲痛な姿に打たれ、「皇子もまた犠牲者なのだ」と憐れみの目を向けた。
だが――。
泣き叫ぶ中大兄皇子の影で、そっと水を開けに近づいた進麻呂は、見てしまった。
袖で顔を覆い、激しく肩を揺らして泣き伏す中大兄皇子。
その袖の隙間から見えた彼の目は――一滴の涙も流れておらず、冷酷そのものの光を宿していた。
(……演技……!? 泣いているフリをしているのか……!?)
進麻呂の背筋に、氷を突きつけられたような凄惨な戦慄が走った。
謀反の濡れ衣を着せて敵対勢力を排除し、後から「誤解だった」と泣いてみせることで、世間の批判をかわし、自らの手は汚さずに権力を固める。
すべては計算し尽くされた高度な政治パフォーマンスだったのだ。
群臣たちが去り、二人きりになった静寂の中で、中大兄皇子は先ほどまでの号泣が嘘のように立ち上がると、着物の汚れを素っ気なく払った。
そして、顔を蒼白にして震える進麻呂の耳元へ顔を寄せ、静かに囁いた。
「……覚えておけ、進麻呂。『倒さなければ、倒される』……それがこの世の唯一の掟だ」
かつて蘇我氏の暴政に怯えていた純粋な青年皇子の面影は、そこには影も形もなかった。
血塗られた陰謀の連鎖の中で、権力の鬼へと変貌していく中大兄皇子。
進麻呂は、自分が作り出す手助けをしてしまった新たなモンスターの冷たい脅威に、ただ息を殺して立ちすくむことしかできなかった――。




