恋愛の芽胞
許諾と口論を終えた頃には、すでに夕暮れ時になっていた。
空から降り注ぐ斜陽は、雨上がりの水たまりが残る道路に反射し、淡い虹色の輝きを作り出している。
パンの香ばしい匂いと、雨上がり特有の湿った空気が混ざり合い、その香りは次第に濃くなっていった。
俺は一軒の店へ入り、少し金を使って、レモン味のスイーツを一つ買った。
【レモン味……か】
その瞬間。
頭の中に、あの鬱陶しい後輩の声が浮かんだ。
周囲の湿った空気が、まるで薄い膜のように俺を包み込む。
周りの景色も音も、何も感じ取れなくなる。
ただひたすら。
その言葉だけが、頭の中で何度も再生され続けた。
まるで音声再生ボタンを押し続けているかのように。
気づけば。
俺は家の前にある三段の階段まで来ていた。
「……はぁ」
呆れたように首を振り、自分でも聞き取れないほど小さな独り言を漏らす。
その時だった。
――ガチャ。
扉が、勝手に開いた。
そこから出てきたのは。
私服姿で、茶色い髪を結んだ妹だった。
俺を見るなり、目を大きく見開く。
「お兄ちゃん! やっと帰ってきた!」
妹は嬉しそうに声を上げた。
「早く入って、ご飯食べよう!」
質素な家。
外観も内装も、どこにでもある普通の家。
でも。
キッチンから漂う香り。
食卓に綺麗に並べられた料理。
こういう瞬間。
俺はいつも思う。
こんなにも優秀な妹を持てたことを、心から誇らしく感じる。
俺たちは笑いながら、夕食を終えた。
その温かな時間は。
また自然と、黎思妙のことを思い出させた。
あいつ。
今頃はきっと。
柳河川と甘い雰囲気の恋人ディナーでも楽しんでいるのだろう。
その後のことは……
……いや。
これ以上考えるのはやめよう。
だって。
もしまた料理を無駄にしていたらどうするんだ。
もしかして。
また焼肉だったりするのか?
そんなことを考えていると。
皿を洗っていた妹が、複雑そうな表情でこちらを見ていた。
どうやら。
俺が落ち込んでいることに気づいたらしい。
眉を少し寄せ。
心配そうな顔をしている。
「お兄ちゃん」
妹が静かに言った。
「何か嫌なことでもあったの?」
俺は目を細め、少し眉を寄せる。
「……くだらない恋愛の話だよ」
「えっ!? 黎お姉ちゃん?」
その名前を聞いただけで。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「どうしたの? もしかして、もうすぐ別れそうなの?」
妹は少し怒ったように続ける。
「だから今日、お昼のお弁当作ってって言ったんだね」
「……まあ、だいたいそんな感じ」
俺は平静を装って答える。
すると妹は皿を置いた。
そして。
怒ったような声で言った。
「もう! お兄ちゃん、どうして黎お姉ちゃんを悲しませるの!」
「だってあの人、本当にお兄ちゃんのことを大切にしてくれる、すごく良い人じゃん!」
「前にお兄ちゃんが熱を出した時だって、学校が終わった瞬間に家まで来てくれたんだよ?」
「薬も、看病用の食べ物も、全部ちゃんと準備して……あれ、黎お姉ちゃんが一生懸命選んだものだったんだから」
……そうだったのか。
俺は。
数え切れないほどある、黎思妙との思い出の中から。
小さな傷のような記憶を探した。
熱を出した時。
彼女が看病に来てくれた。
本来なら。
恋人同士の温かな時間だったはずなのに。
なぜか。
胸の奥が痛かった。
熱で苦しかったから。
そして。
料理が本当に美味しくなかったから。
……ただ、それだけだった。
少しの間考え込んでいると。
妹はまた皿洗いを始めていた。
俺は何も言わず。
部屋へ戻るために扉を開けた。
こうして一日が終わった。
黎思妙と別れてからの初日は。
妹からの説教で幕を閉じた。
……本当に。
最悪な一日だった。
二つの意味で。
◇◇◇
それから一週間。
机の中に好きなお菓子が増えていたこと。
放課後、陳先輩が俺を探しに来る回数が増えたこと。
そして。
遊び部に、面倒な後輩が一人増えたこと。
それ以外は。
ただいつも通りの日常だった。
いろんな意味で。
「十月十五日」
前日のページの日付を破り取る。
今日、遊び部で使う道具を準備する。
珍しく。
俺は妹という名の目覚まし時計に叩き起こされる前に家を出た。
空には。
まだ消えきっていない残月が、少し灰色がかった淡い青の中に浮かんでいる。
周囲の家々からは朝食の香りが漂う。
鳥の鳴き声は絶えず響き。
学校へ着くまで。
一瞬たりとも完全な静寂はなかった。
いつものように。
教室で俺に声をかける人間は少ない。
しかも。
その中にはただのついで程度の挨拶も含まれている。
でも。
親友と呼べる存在なら。
当然いる。
――韓江。
高校一年から。
俺たちはほとんど毎日隣の席だった。
彼は少し陰気な性格で。
黒縁メガネをかけている。
俺から見た印象を言えば。
少し孤独な奴。
最初は席が隣だっただけだった。
でも。
いつの間にか話すようになった。
話題といえば。
毎日のように現実逃避みたいな話ばかり。
ただ。
一つだけ特別なことがある。
彼には。
自分を心から愛してくれる彼女がいることだ。
韓江は軽く手を振った。
そしてまた机に突っ伏す。
……友達なのに冷たいな。
今日は早起きしたとはいえ。
勉強する気なんて全く起きない。
ぼんやりとしたまま午前中を過ごした。
その時。
「ピロン」
スマホの通知音が鳴る。
チャットアプリを開く。
【学姐:
今日は昼に用事があるから、一人で食べてね……⑉꒦ິ^꒦ິ⑉】
返信する前に。
次のメッセージが届く。
【学姐:
お昼だよ!またね】
……本当に。
何を考えているのか分からない人だ。
すると。
横から韓江が顔を出した。
俺はスマホを渡す。
彼は内容を確認して言った。
「じゃあ今日は、俺たちと一緒に食べる?」
そして。
少し照れたように笑う。
「やめとく。気まずいだろ」
「そっか。でも、お前も小綺のこと知ってるだろ?」
「それでも、もうずっと話してないし。それに……あいつ、お前と二人でいるの好きそうだから」
「できれば、元部員に嫌われたくないんだよ」
少し雑談を交わした後。
俺は先にその場を離れた。
屋上へ向かう。
もう秋なのに。
名前も知らない木々には、まだ花や葉が残っていた。
予想通り。
陳先輩も田先生もいない昼休みの屋上は。
まさに孤独な人間の楽園だった。
昼食を終えるまで。
俺は一言も話さなかった。
そうして。
放課後になった。
振り返ってみれば。
韓江以外とは。
まともに会話すらしていなかった。
でも。
不思議と退屈ではなかった。
誰かがそばにいる日々に慣れていたけれど。
一人で過ごす生活も。
これはこれで、妙な体験だった。
◇◇◇
遊び部へ着く。
ひび割れたソファには。
すでに銀髪の少女が座っていた。
姿勢は妙に正しく。
手には俺が一度も聞いたことのない哲学書。
もし。
彼女のカバンの中に大量の新品漫画が詰まっているところを見なければ。
きっと誰もが騙されるだろう。
彼女を。
知的で優雅な文学少女だと。
俺は挨拶せず。
そのままテレビへ向かった。
カバンからゲーム機を取り出し。
「カチャ、カチャ」
接続作業を始める。
しばらくして。
ふと見ると。
鏡には許諾の顔がはっきり映っていた。
水色の瞳が。
興味深そうにこちらを見ている。
俺は無言で鏡越しに。
拳を額の前へ持っていく。
そして。
自分の行動を笑おうとした瞬間。
「この……!」
鋭い声。
直後。
後頭部に一本の哲学書が飛んできた。
しかも。
内容は「暴力反対」についてだった。
……説得力がない。
しばらくして。
組み立て終わったゲーム機を見た許諾は。
予想以上に興味を示した。
そして。
待ってましたと言わんばかりに勝負を挑んできた。
結果。
こいつは完全なるゲーム音痴だった。
格闘ゲームを一通り遊んだが。
勝ったのはたった二回程度。
(ちなみに彼女が「技禁止!」と怒ったせいである)
その後。
許諾は、
「不公平!」
「絶対不公平!」
と騒ぎながら。
俺の腕を指で何度も突いてきた。
俺が別のゲームを探そうとした、その時。
遊び部の扉が突然開いた。
「「え?」」
俺と許諾の声が重なる。
そこに立っていた人物は――
「学姐? どうしたんですか?」
俺は首を傾げる。
「陳墨妍?」
続いて。
許諾も彼女の名前を口にした。




