恋愛ポンコツ
「それ以外に何があるの? 私と小田くんはすごく仲良しなんだから」
彼女はあまりにも興奮していたせいか、声が裏返りそうになっていた。
扉の前に立っていたのは、少し癖のある黒髪をした、爽やかな雰囲気の青年だった。
先ほどの先輩の発言を聞いた彼は、穏やかな笑みを浮かべる。
田文中。
陳先輩のクラス担任であり――隠された恋人でもある人物だ。
田先生は美味しそうなおかずを一つずつ陳先輩の弁当箱へ入れていく。
俺は少し距離を取り、二人だけの時間を邪魔しないようにした。
その横から、
「んぐっ……んぐっ……」
という音が聞こえてくる。
先輩は驚くほどの勢いで、田先生が持ってきた料理を消費していた。
一方の田先生は、そんな彼女を微笑ましそうに眺めている。
しばらくすると、彼女の頬は食べ物でぷくりと膨らんだ。
田先生は自分が一度口をつけた水筒を差し出したが、先輩は手で押し返して断った。
「お、とい……しゃせつ……(お、トイレ行ってくる)」
口いっぱいに食べ物を含んでいるせいで何を言っているのか分からない。
けれど、その表情だけで言いたいことは十分伝わった。
「行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」
俺は最後の唐揚げを口に放り込みながら、陳墨妍がまるで放たれた矢のように屋上の扉へ駆け込んでいく姿を見送った。
しばらく静寂が流れた後。
田先生が突然口を開いた。
「君……黎さんと別れたのか?」
同じ質問。
なんというか、やっぱり恋人同士だから似るものなのだろうか。
俺は頷いた。
そして、先輩に答えた時と同じ言葉を返す。
「そうですか……それは残念だね。君たち、すごく仲が良かったのに」
「相手を好きじゃなくなったなら、別れるのは普通のことじゃないですか」
いくつか言葉を交わした後、俺も先輩の後を追うように歩き出した。
「……ペタッ」
「……ペタッ」
「……ガチャ」
扉を開ける。
片足をすでに踏み入れたところで、ふと思い直した。
そして振り返る。
「先輩のこと、ちゃんと大切にしてください。あの人……あなたのこと、本当に好きですから」
そう言い残して、俺は屋上を出た。
背後から、すぐに声が返ってくる。
「安心して。何があっても、僕は彼女を見捨てないよ」
その声は誠実で、言葉には迷いがなかった。
【それなら……よかった】
俺は心の中で呟いた。
気づけば、いつの間にか中庭まで歩いてきていた。
周囲を見渡す。
目に入ったのは、落ち着いた茶色をした、どこか古風な雰囲気の木製ベンチだった。
近づいて触れてみる。
指先には、まだ昼間の熱が残っていた。
大きく息を吐き、腰を下ろす。
刺すような太陽の光に、思わず目を細める。
こんな暑さなら、冷たい飲み物を一気に飲み干したくなる。
ポケットを探る。
残っている金額は、一本買える程度だった。
「……っ」
自動販売機の近くから、小さな物音が聞こえた。
そちらへ目を向けた瞬間――
呼吸が止まった。
輝く金色の髪。
特徴的なアホ毛。
そして、聞き慣れすぎた甘い声。
黎思妙。
俺の元彼女だった。
彼女は自動販売機の前にしゃがみ込み、しばらく考え込んでいた。
そして突然、自動販売機を軽く叩く。
……え?
まさか、機械を慰めているのか?
しばらく眺めていると、俺にもようやく分かった。
黎思妙はお嬢様だ。
普段、自動販売機の飲み物なんて買うことはない。
以前の彼女はプライドが高く、生活レベルが低い俺との差に劣等感を抱いていた。
けれど。
一度、俺が買ってきた桃味の飲み物を飲んでから。
誰もいない時だけ、俺に寄りかかりながら、
「買ってきて」
と何度もお願いしてくるようになった。
(……いや、それって余計にダメになってないか?)
きっと彼女は、その姿を誰かに見られることを嫌がっている。
つまり。
今の彼女は――
自動販売機の使い方が分からない。
でも、人に頼るのは嫌。
なのに、桃味の炭酸飲料は飲みたい。
そんな矛盾に苦しんでいるのだ。
【こいつ……一体どれだけ大バカなんだよ。でも、こういう女の子が好きな人もいるんだろうな】
考えている間に、俺の足は勝手に動いていた。
自動販売機へ近づき、彼女を横へ押しのける。
黎思妙の赤い瞳が揺れる。
驚いたのだろう。
その後、少しずつ頬が赤くなり、どこか落ち着かない様子になる。
唇を噛みながら、何を考えているのか分からない表情をしていた。
……そういえば、好きなのは桃味だったな。
金を入れる。
商品を選択する。
「ガタン」
音を立てて、ピンク色の缶が落ちてきた。
しゃがんで拾い上げる。
手のひらに伝わる冷たさ。
それだけで、なぜか少し安心した。
……なのに。
俺の顔には暗い影が落ちていた。
大きくため息を吐く。
肺まで全部吐き出してしまいそうなほど。
「ほら。桃味。……あげる」
彼女の返事を待つことなく、俺は襟を引っ張りながら歩き出した。
「え……? あ、ありが……とう」
背を向けた俺には、黎思妙の表情は見えない。
そして、彼女の声はあまりにも小さかった。
静かで穏やかな昼下がり。
その声は、ほとんど聞き取れなかった。
思わず振り返る。
すると、顔を真っ赤にした黎思妙と目が合った。
一瞬だけ視線が重なる。
そして、俺はすぐに目を逸らした。
【くそっ……! コーラを買うつもりだったのに、なんで無意識で桃味を選んでるんだよ!!!】
【全部、後ろにいるこいつの大バカウイルスが感染ったせいだ。やっぱり、これからは少し距離を置こう】
「あと!」
振り返らず、歩きながら言う。
「謝るなら、トマト味だけはやめてくれ。俺は普通の味のほうが好きだから」
「プシュッ」
炭酸の缶が開く音。
けれど、
「ゴクゴク」
という飲む音は聞こえなかった。
【トマト味。……本当に嫌いなんだよ】
数歩進めば、もう彼女の表情は見えない。
声も聞こえない。
それでも。
少し自分勝手だけど――
彼女がちゃんと聞いてくれていたらいいと思った。
だって……
俺は本当に、トマト味が大嫌いだから。
――――――――――――
部活棟の窓の外では、真っ黒な雨雲がゆっくりと流れていた。
やがて、小さな雨粒が落ち始める。
雨は窓を叩き、蒸し暑い夏の熱気を少しずつ奪っていった。
そして、どこか不思議な美しさを作り出していた。
自由に揺れるオレンジ色の椅子に寝転びながら、俺は誰もいない部室を眺めていた。
暇つぶしに、手元のサイコロを弄ぶ。
考えるのは、今日の夕食。
……駄目だ。
何も思いつかない。
活動時間まで、あと十分ほど。
「一日って、本当にあっという間だな」
そう感じていた時だった。
「ガンッ」
突然、部室の扉が勢いよく開いた。
驚いて手からサイコロが落ちる。
床の上を何度か転がった後、ようやく止まった。
顔を上げる。
そこにいたのは――
銀白色の髪をした少女。
肩にはサッカーボールのキーホルダーが付いたバッグ。
制服の袖口の装飾を見る限り、一年生だろう。
つまり。




