恋の近さと遠さ
俺は狭くて暗い路地裏に身を潜めながら、トマト味のパンを大量に抱えた柳河川と黎思妙が、少しずつ遠ざかっていく姿を冷めた目で眺めていた。
少し距離があるせいで、二人の表情まではよく見えない。
ただ、付き合っていた頃の経験から、黎思妙の歩き方や歩く速度を見る限り――おそらく、さっき柳河川の誘いを断ったのだろう。
たぶん、彼女は店の中で大量にパンを選んだものの、柳河川が選んだものは食べなかった。
華やかな服が雨の中で眩しいほどの金属光沢を放っている。
その光も、二人の姿が完全に見えなくなると同時に消えていった。
俺はホッと息を吐き、手を上げる。
そこで、妹が一番気に入っている傘が傷んでいることに気づいた。
何本かの繊維がほつれ、雨粒に打たれながら陰鬱そうに項垂れている。
【時間があるときに、もう一本買っておくか……】
俺は店の前まで歩き、傘を畳んだ。
傘から流れ落ちた大量の水が階段へ飛び散り、波紋を広げていく。
どこか懐かしいパンの香りを嗅ぎながら、店内を見回す。
乳白色の壁にはいくつか傷がついていた。
けれど、俺がよく知っていた大きな壁紙の剥がれは、今では人気アイドルグループのポスターで隠されている。
俺の視線に気づいた店主の奥さんが、愛想よく声をかけてきた。
「また来たのね。どう? この子たち知ってる?」
彼女はポスターを指差す。
「最近すごく人気みたいなのよ。うちの息子なんて、真ん中にいる子が特にお気に入りでね。どうしても剥がすなって言うのよ」
確かに、彼女たちは一級品の可愛さを持っている。
けれど、俺はアイドルにはあまり興味がない。
俺にとっては、どこか遠い存在に感じられるからだ。
店主の奥さんが言った真ん中の子だけは、どこかで見たことがあるような気がする。
それ以外は、名前すら聞いたことがない。
【そういえば前に、クラスの流行に乗って、あまりファンのいない女性アイドルを追いかけていたこともあったな】
【でも、流行が終わってからは、節約のために一度も行ってないけど】
「知らないです。でも、妹と一緒にテレビを見ているときに、見たことがあるのかもしれません」
俺は正直に答えた。
「妹……ああ、そういえば。妹さん、最近は元気?」
店主の奥さんは両手をカウンターの前に置いた。
「もう外に出られるようになったって聞いたけど?」
俺は少し笑って答えた。
「誰がなんと言おうと、ここのケーキが美味しいですからね」
店主の奥さんは小さく笑った。
「お世辞じゃなさそうなところが、また嬉しいわね。それで、あなたの彼女は……?」
……そうだよな。
俺と黎思妙は、よく一緒にこの店へパンを買いに来ていた。
さっき彼女が柳先輩と一緒にいたところだけを見れば、まるで俺が浮気されたみたいにも見える。
「ああ、別れました。俺からです」
「そうなの?」
店主の奥さんはケーキを俺に渡すと、それ以上何も言わず、目を閉じて何かを考え始めた。
俺が会計を済ませ、ケーキを手に店の外へ出ようとした、その時だった。
一人の人間が勢いよく店の中へ駆け込んできた。
あまりにも速かったため、避けきれず、俺たちの肩がぶつかった。
「すみません、すみません」
俺より一つか二つ年下くらいの男子が、そう言った。
黒と白の雨合羽を着ていて、手には泥水の跡が残ったサッカーボールを抱えている。
朝早くからサッカーをしていたのだろう。
俺は慌てて答えた。
「大丈夫、大丈夫」
俺の言葉を聞いた少年は雨合羽を脱ぎ、サッカーボールを店の隅に置いた。
露わになったリュックについたサッカーボールのキーホルダーが、壁にぶつかるたびにカチャカチャと音を立てている。
右側のポケットには、一本のペンが入っていた。
【……うちの学校のやつか】
そのペンは、毎年新入生に配られる学校限定のものだった。
部外者が手に入れることは、ほとんどない。
【まあいいか。俺には関係ない】
俺は何も言わず、そのまま店を出た。
家に帰ると、玄関のドアが半開きになっていた。
妹が、怯えた猫のように玄関先でしゃがみ込んでいる。
心配そうに、そして落ち着かない様子で俺を待っていた。
俺が帰ってきたことに気づくと、妹は真っ先に、
「にゃ……」
とでも言うような「あっ」という声を漏らした。
俺がケーキを差し出す。
すると妹は、一気にこちらへ駆け寄ってきて、俺の腰に抱きついた。
そして、幸せそうに笑った。
「ごめんな。お前の傘、壊しちゃった」
俺は頭を掻きながら、申し訳なさそうに言った。
妹は、
「うん」
「うん」
と何度も頷く。
そして、少しも俺から離れようとしない。
「ん……?!」
突然、妹が大声を上げた。
そして俺から傘とケーキを奪い取ると、背を向けて、傘の隅々までじっくりと確認し始めた。
何も言わない。
「妹……いや、未沫……」
俺が妹の名前を呼ぶと、妹は突然、くすくすと笑い始めた。
「怒ってないよ」
妹は振り返り、口元に笑いを隠しながら言った。
「今日は疲れたでしょ。ちょっと休んできたら?」
そう言って、手に持った傘をきちんと所定の場所へ掛ける。
「ありが……とう」
「うん。お風呂入ってきなよ。安心して。途中で私が入っていったりしないから」
「お前のライトノベル、全部没収したほうがいい気がしてきた」
ここで少し補足しておこう。
俺の妹は、あまりにも可愛かった。
そのため、家からほとんど出られなかった時期に大量のアニメやライトノベルを見たり読んだりしていた。
今では、誰が見ても立派なオタクである。
すると妹は、驚いたような顔でパンを抱えたまま、自分の部屋の前まで息を切らしながら走っていった。
「私の部屋に入らないで……」
妹は俯き、空いているほうの手で頬を掻きながら、小さな声で呟いた。
「絶対に勝手に入らないでね…………」
「ゴホッ……ゴホゴホッ……」
「分かった」
俺はすぐに答えた。
そして薬と水を持ってくる。
「俺、先に風呂入ってくるから。ちゃんと薬飲めよ」
「うん」
妹は両手を一度背中に隠した。
それから、ケーキを持っているほうの手をちょこんと伸ばし、ケーキをテーブルの上へ丁寧に置いた。
「ありがとう、お兄ちゃん。あとで一緒に食べようね……ゴホッ……」
その小さな咳を聞いた瞬間、俺は思わず眉をひそめた。
そして、大声で叫ぶ。
「早く薬飲め!!! ゴホッ……ゴホッ……」
「お兄ちゃん、面白すぎ……ゴホッ……ゴホッ……」
——————————————————
「お兄ちゃん。私たち、ずっと家族だよね」
「お兄ちゃん。別れたんだから、もう黎お姉ちゃんの名前は出さないでね」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
「お兄……」
妹の声が、突然途切れた。
「……何!?」
俺は飛び起きた。
額から冷や汗が流れ落ちる。
部屋の中は真っ暗だった。
遠くに置かれた傘型のナイトライトだけが、淡い青紫色の光を放っている。
その光は凹凸のあるガラスコップを通り抜け、真っ白な壁の上に色鮮やかな一輪の青い薔薇を描いていた。
「……夢か」
真夜中。
口の端が少し乾いている。
俺は服を整え、足音を立てないように水を取りに行こうとした。
「ポタ……」
「ポタ……」
時計を見る。
もう午前一時頃だった。
けれど、妹はまだ眠っていないらしい。
部屋の中から、途切れ途切れに男の声が聞こえてくる。
ただ、ドア越しであることに加えて、耳障りな電磁ノイズまで混ざっているせいで、何を話しているのかまでは聞き取れない。
「ネットの友達と話してるのかな?」
俺は、妹がネット上で誰かと話したり交流したりすることに反対しているわけではない。
一人で家にいる時間が長ければ、寂しさを感じるのは当然だ。
兄だからといって、妹をずっと自分のそばに閉じ込めておくべきでもない。
ただ――
妹の言葉だけは、はっきりと聞こえた。
「私も、あなたのこと好きだよ。ゴホッ……」




