恋の風味
週末の朝。
窓の外は、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
空は見ているだけで気分が重くなるような、陰鬱な色をしている。
一面を覆う真っ黒な雲の端には、わずかに乳白色が残っていた。
まるで、墨で染められた空に浮かぶ綿の塊のようだった。
唯一ありがたいことがあるとすれば、これほど不吉な天気なら、部屋に籠もってゲームをして時間を潰していても、罪悪感が少しだけ薄れることだ。
ゲームの楽しさに夢中になっていると、いつの間にか大雨が降り始めていた。
「朝の天気予報を見る限り、一日中雨みたいだな」
俺は独り言のように呟いた。
妹が毎朝、俺をベッドから無理やり引きずり起こしてくれるおかげで、我が家では朝のニュースを見る習慣がある。
ちなみに、今日の俺の星座占いは――なんと最下位だった。
まるでそれに呼応するかのように、激しくなっていく雨音の中、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
振り返る。
妹が行儀よく部屋の入口に立っていた。
裸足のまま、こちらへ歩いてくる。
「お兄ちゃん」
妹は小さな声で言った。
「今日はケーキ、買いに行かなくていいよ」
「……」
「分かった? お兄ちゃん」
妹の表情は、何かをお願いするようなものだった。
俺にも、雨の日に外へ出るのが決して良い選択ではないことくらい分かっている。
「分かったよ。ちょうどケーキ屋もそろそろ開店する時間だけどな」
俺は苦笑する。
「次から食べたいなら、普通に言えばいい。俺に遠回しなアピールなんてしなくていいから、ちゃんとお願いしてくれ」
そう言いながら、俺は近くにあった灰色のコートを手に取り、肩に羽織る。
そして、家に一本しかないピンク色の傘を手に取った。
「ちょっと! 待って、お兄ちゃん!!」
妹が大声で叫ぶ。
危うく声が裏返りそうになり、
「ゴホッ……ゴホッ……」
と咳き込んだ。
「じゃあ、ちょっと待ってるよ」
俺は振り返り、少しだけ笑った。
…………………………
妹は、俺以上に重度の引きこもりだ。
ただし、俺が自分から引きこもっているのに対して、妹の場合はそうせざるを得ない事情がある。
小学生の頃は、俺を部屋から引っ張り出して遊びに連れていくような、元気いっぱいの子だった。
けれど、中学生になった頃。
彼女はなぜか重い病気を患ってしまった。
命に関わるほどではない。
それでも、普通の生活を送るうえでは大きな支障が出てしまうものだった。
咳を繰り返す妹の姿を見ていると、胸が痛くなる。
本人の意思を確認したうえで、俺は必死になって両親を説得し、しばらくの間、妹を休学させることにした。
そして俺自身が、妹の中学校へ出向き、担任の先生にも事情を説明した。
両親は遠方にいて、妹の面倒を見る時間もない。
だから、俺がその役目を引き受けた。
そして毎週日曜日は、妹が一番楽しみにしている番組が放送される日だ。
そう考えれば。
妹がテレビ番組を楽しんでいる隣で、大好きなブルーベリーケーキを食べさせてあげるくらい。
兄として、最低限やるべきことなんじゃないだろうか。
雨粒でぼやけた視界の向こうに、少しずつ店の看板が見えてきた。
そういえば、この店では時々、かなり変わった味のパンを売っている。
以前、店の隅に売れ残っている「トマト味のパン」を何個か見つけたことがあった。
好奇心からいくつか買ってみたものの――
実際に食べてみると、俺にはまったく受け入れられない味だった。
けれど、一緒に食べていた黎思妙は、そのパンを気に入っていた。
仕方なく、俺も楽しそうな顔を作って彼女に付き合った。
その結果。
俺が一生懸命この店を勧めたせいで、黎思妙もこの店を知るようになった。
付き合っていた頃の俺は、いったい何個のトマト味パンを食べたことだろう。
今思い出しても、少し身震いする。
唯一の救いだったのは――
トマト味のパンを食べて嬉しそうに笑う黎思妙の顔を見られたことだ。
それを考えれば、悪くないクリア報酬だったのかもしれない。
雨に濡れた靴で歩きながら、俺は店の前までやって来た。
予想通り、ケーキ屋の店長がちょうどシャッターを開けたところだった。
あいにくの大雨。
もともと客の少ない店ということもあり、店の前には一組のカップルしかいない。
二人は雨風の中、寄り添うように立っていた。
その少女が、ほんの少しこちらへ顔を向ける。
その瞬間。
俺の胸が、ドクンと跳ねた。
「……あいつか」
たとえ、たった十度ほどの横顔だったとしても、俺には分かる。
黎思妙だ。
いや。
そもそも最初から見えていた金色の髪と、そのスタイルだけで、なんとなく察していた。
幸い、俺はすぐにその場を離れた。
黎思妙も、一人でスイーツを選ぶことに夢中になっていた。
ただ――
不幸なことに。
俺は、彼女の恋人である柳河川と目が合ってしまった。
彼の見下すような視線を見て、俺にも分かった。
おそらく、以前どこかで俺と黎思妙が一緒にいるところを見られたのだろう。
彼は知っている。
俺と黎思妙が、かつて付き合っていたことを。
――The other view――
今日は柳先輩とのデートの日。
もともと私は、雨が降るからという理由で延期したかった。
けれど、柳先輩の強い誘いには逆らえなかった。
「雨の日のデートは、他の日にはない特別な楽しみがあるから」
そんな言葉に、私はあっさり心を動かされてしまった。
【雨の中なんだし、せっかくだから適当に歩いてみようか】
私がそう提案すると、当然のように採用された。
湿った空気が漂う中、きちんと選んだ服も少しずつ雨気を吸っていく。
ちなみに、高価な服というわけではない。
私のお小遣いなら、六日か七日分くらいだろう。
そんなふうに歩いているうちに、いつの間にか人通りの少ない路地へ入り込んでいた。
その時。
ふわりと甘い香りが漂ってきた。
同時に、懐かしい記憶まで蘇ってくる。
【えっ?】
思わず顔を上げる。
そこには――
以前、郭錫とよく一緒に訪れていたケーキ屋があった。
店は寂れていて、外観も決して立派とは言えない。
それでも、味だけなら大手チェーンの店よりずっと美味しい。
こういう小さな店を見つけられたことも、郭錫と付き合っていた頃の数少ないメリットだったのかもしれない。
【違う、違う】
【今は柳先輩とのデートなんだから、他の男のことなんて考えちゃダメ】
柳先輩もその店に気づいたらしく、爽やかな笑顔を浮かべた。
「入ってみる?」
「うん。ありがとう」
私はそう答えた。
店主がシャッターを開けるのを待って、店内へ入る。
そして、気になった味を次々と探していった。
「これも美味しそう」
「あ、これ美味しい」
「……これは、あまり甘くないかな」
まるでラブコメの主人公が、最後に誰を選ぶのか迷っているような気分になっていると。
「行くぞ、黎」
柳先輩の声が聞こえた。
まだ何を買うか決めていない私を置いて、先輩はすでに店の外へ出ていた。
その手には――
大量のトマト味パン。
「え?」
私は慌てて後を追う。
「君、これ好きだろ?」
柳先輩は自信満々に言った。
「ほら。俺の彼女なんだから、好きなだけ食べていいよ」
【!!!】
トマト味パン。
それは、私にとって悪夢の一つだった。
郭錫と付き合い始めてしばらくした頃。
彼が、何個かのトマト味パンを買ってきてくれた。
初めて彼からもらったプレゼントだった。
だから。
彼を傷つけたくなかった。
吐き出してしまいたいほど苦手だったけれど、それでも私は美味しそうに食べるふりをした。
そして彼も、本当に嬉しそうに食べていた。
満面の笑みだった。
それから私は、何度もトマト味パンを買った。
彼に合わせて。
何度も笑顔を浮かべた。
幸せだった。
……本当に、幸せだった。
でも、それはもう過去のこと。
私の今の恋人は、トマト味パンが好きな人ではない。
(……まあ、彼はそもそもトマト味自体が好きじゃなかった。パンだけは例外だったけれど)
私は、目の前の大量のパンを見つめる。
「……やっぱり、いいかな」
私はやんわりと断った。
「この味、私にはちょっと無理みたい」




