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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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9/14

第9話 読まない傷

聖女ミレイアは、白壁の前で「見たこと」をそのまま言葉にしました。


その言葉は、王宮にとって都合のよいものではありませんでした。

そして今度は、彼女自身が幽閉塔へ向かうことになります。


塔の壁に刻まれた「リ」。

それを口にしないレオン。

読まないことを選ぶミレイア。


第9話では、二人が初めて向かい合います。


聖女ミレイアの衣の裾には、泥がついていた。


白壁の前で膝をついたときのものだった。


侍女が布で拭おうとする。


ミレイアは一度、その手を止めた。


「あとでいいです」


「ですが、聖女様」


「あとで」


強い声ではなかった。


それでも侍女は手を引いた。


白い衣の裾に、灰色の汚れが残る。


アスターは少し離れた場所で、それを見ていた。


白いものに汚れがついたまま歩く聖女。


王宮の廊下では、それだけで目立った。


広場での祈りは終わった。


トマ・ベルは娘に支えられ、南通りの者たちと広場を出ていった。


だが、王宮の者たちの顔は晴れていない。


白壁の前で人が戻った。


民は泣き、名を呼び合い、聖女に頭を下げた。


それでも、王宮が欲しかった形ではなかった。


白壁が民を救った。


そう見せるはずだった。


だが、ミレイアはそれを否定した。


今この方を留めたのは、娘の声です。


南通りの方々の声です。


その言葉は、広場に残った。


記録官がどれほど整えても、見た者の耳には残っている。


だから、王宮はすぐに動いた。


ミレイアは広場から戻ると、そのまま小さな控えの間へ通された。


アスターも警備として扉の内側に立たされた。


部屋には、祈り役と王宮役人がいた。


机の上には、さきほど書かれたばかりの記録が置かれている。


インクはまだ乾ききっていない。


王宮役人が口を開いた。


「聖女様。先ほどの広場でのお言葉について、確認させていただきます」


ミレイアは頷いた。


「はい」


「白壁の前で名を失いかけた民が戻った。それ自体は、喜ばしいことです」


「はい」


「ですが、その場で白壁の働きを否定するようなお言葉は、民の不安を大きくします」


ミレイアはすぐには答えなかった。


袖口を指で握っている。


広場に出る前と同じ癖だった。


「否定したのではありません」


「では、何をなさったのです」


「見たことを、違う形にしませんでした」


アスターは、ミレイアを見た。


昨日、自分が言えなかったことを、彼女は言った。


王宮役人の表情は崩れない。


「見たことをそのまま口にすれば、民は耐えられません」


祈り役が静かに続けた。


「白壁が疑われれば、祈る場所を失う者が出ます。聖女様なら、その重さはお分かりのはずです」


「分かっています」


ミレイアは言った。


「だからこそ、壁へ押し出してはいけないと思いました」


部屋が静まった。


祈り役の眉がわずかに動く。


その言葉は、王宮が嫌う言葉だった。


けれど、広場で起きたことを見ていれば、否定はできない。


老人は白壁を見て遠のいた。

娘を見て戻った。


それだけは、その場にいた者なら見ている。


王宮役人は机の上の記録へ視線を落とした。


「言葉を整える必要があります」


まただ。


アスターは思った。


消すのではない。

整える。


王宮では、いつもそう言う。


王宮役人は別の紙を出した。


「もう一つ、確認があります。聖女様は、黒き王子を名で呼ばれた」


ミレイアの指が止まった。


ほんの一瞬だった。


「……それが、何か」


「民には黒き王子として知られています。王宮の中でも、あの者の名をむやみに口にする者は多くありません」


「王子なら、名があるはずです」


「もちろんあります」


王宮役人の声は丁寧だった。


「ですが、あなたが自然にその名を口にされたことが問題なのです」


ミレイアは何も言わない。


祈り役が問う。


「聖女様。黒き王子と、以前に面識がありましたか」


「ありません」


答えは早かった。


早すぎるほどだった。


アスターはそれを聞いた。


ミレイア自身も気づいたのか、わずかに唇を結ぶ。


「記録で名を見たことがあります。王家の血筋ですから」


王宮役人は頷いた。


信じたのか、信じなかったのかは分からない。


「では、もう一度確かめます」


「何をですか」


「黒き王子が、あなたの名に反応した件です」


ミレイアの顔がわずかに強ばった。


アスターは扉の前で息を止める。


やはり、王宮はそこを見逃していなかった。


王宮役人は続けた。


「北門では、白壁の外から『リ』と聞こえた。黒き王子はその音を口にするなと言った。そして昨日、あなたの名にも反応した」


「私の名と、その『リ』は関係ありません」


ミレイアは言った。


今度も早かった。


王宮役人は穏やかに返す。


「関係があるとは言っておりません」


ミレイアは黙った。


言葉を選び損ねたことに気づいた顔だった。


祈り役が目を伏せる。


「聖女様。あの者は白壁について何かを知っている可能性があります」


「だから、私に何をしろと」


「塔へ」


王宮役人が言った。


「黒き王子の尋問に、同席していただきます」


アスターは思わず王宮役人を見た。


ミレイアも同じだった。


「私が、ですか」


「あなたの名に反応した。あなたがいれば、口を開くかもしれません」


祈り役が付け加える。


「欠けた名かもしれないものを、白壁の前へ戻すべきかどうかも、見極めなければなりません」


ミレイアの表情が変わった。


さきほどまでの戸惑いが、少しだけ硬くなる。


「そのために、私に『リ』を読ませるのですか」


王宮役人は答えない。


答えないことが、答えに近かった。


ミレイアは静かに言った。


「名かもしれないものを、試しに口にすることはできません」


祈り役が目を上げた。


「聖女様」


「欠けた名なら、なおさらです」


その声は低かった。


広場で民へ向けた声とは違う。


けれど、同じ強さがあった。


王宮役人は少しだけ目を細めた。


「では、同席だけで構いません。黒き王子の反応を見ます」


ミレイアは答えなかった。


拒めないことを、彼女も分かっている。


アスターも分かっていた。


これは命令だ。


ただ、祈りの言葉で包まれているだけだ。


幽閉塔へ向かう道で、ミレイアはほとんど喋らなかった。


侍女と祈り役が付き添う。


王宮役人もいる。


アスターは護衛として、半歩後ろを歩いた。


白い廊下を抜けるにつれ、空気が冷えていく。


王宮の白は磨かれている。


塔の白は塗り込められている。


その違いは、今日のミレイアにも見えたらしい。


塔の入口で、彼女は足を止めた。


扉に刻まれた番号を見る。


名前はない。


「ここでは、名を使わないのですね」


ミレイアが言った。


塔番は答えない。


王宮役人が代わりに言う。


「管理のためです」


ミレイアは番号を見たまま、少しだけ頷いた。


「管理しやすいでしょうね」


王宮役人の顔がこわばる。


皮肉に聞こえたのだろう。


だが、ミレイアの声に棘はなかった。


ただ、見たことを言っただけだった。


レオンは奥の部屋にいた。


昨日と同じ椅子。

同じ手枷。

同じ短い鎖。


ただ、首枷はない。


ミレイアが部屋に入った瞬間、レオンの視線が上がった。


笑うかと思った。


軽口を叩くかと思った。


だが、レオンはしばらく黙っていた。


沈黙のあと、ようやく口を開く。


「聖女様まで来るとはな」


ミレイアはまっすぐ立っていた。


白い衣の裾には、まだ広場の泥が残っている。


「尋問に同席するよう命じられました」


「素直だな」


「命令ですから」


「騎士みたいなことを言う」


レオンの視線がアスターへ移る。


「お前の影響か」


「俺は何もしていない」


「そうか。なら悪くない影響だ」


アスターは答えなかった。


王宮役人が机につく。


記録官も入ってきた。


昨日とは違う記録官だったが、筆の音は同じだった。


紙が置かれる。


また、残すための紙か。

それとも、消すための紙か。


アスターはそれを見た。


王宮役人が言った。


「黒き王子。昨日の続きです。北門で聞こえた『リ』について、答えなさい」


レオンはミレイアを見たまま、言う。


「聖女様の前なら、俺が素直に喋ると?」


「あなたは、聖女様の名に反応した」


「綺麗な名前だったからかもしれない」


「ふざけないでいただきたい」


「ふざけているように見えるなら、お前の目が平和なんだろう」


王宮役人の顔が険しくなる。


祈り役が静かに言った。


「レオン・アーヴェルト」


その名が部屋に落ちた。


レオンの顔は変わらない。


だが、ミレイアの睫毛がかすかに震えた。


アスターはそれを見た。


「あなたは何を知っているのです」


祈り役は続ける。


「白壁の外から聞こえた『リ』。塔の壁に刻まれた同じ傷。そして聖女様の名への反応。すべて偶然だと言うのですか」


レオンは答えない。


記録官の筆が止まっている。


書く言葉がないからではない。


待っているのだ。


誰かが、使える言葉を落とすのを。


王宮役人がミレイアを見た。


「聖女様。昨日、塔の壁に刻まれた傷を確認しています」


塔番がランプを持ち、レオンの部屋へ続く扉を開けた。


ミレイアは一瞬、アスターを見た。


アスターは何も言えなかった。


行くなとも、行けとも言えない。


ミレイアは歩き出した。


レオンも椅子から立たされる。


手枷の鎖が鳴った。


部屋の中は、昨日と同じだった。


寝台。

水差し。

小さな机。

高い窓。


白壁は見えない。


寝台の横の壁だけ、白い塗料が少し剥がれている。


その下に、傷があった。


リ。


リ。


リ。


何度も刻まれた同じ形。


ミレイアはその前で足を止めた。


長くは見なかった。


けれど、目を逸らすのも遅かった。


王宮役人が言う。


「聖女様。この傷を読めますか」


ミレイアは答えない。


「ただの傷ですか」


レオンが先に言った。


「ただの傷だ」


昨日と同じ答えだった。


アスターはレオンを見た。


レオンはミレイアを見ていない。


壁も見ていない。


ただ、床の一点を見ている。


ミレイアが静かに言った。


「私には、読めません」


王宮役人が眉を動かす。


「読めないのですか。それとも、読まないのですか」


「読めません」


ミレイアは言った。


「名としては」


部屋が静かになった。


レオンの指が、わずかに動く。


ミレイアは続ける。


「これはまだ、名ではありません。少なくとも、私が声にしてよいものではありません」


王宮役人が言った。


「欠けた名なら、聖女が祈りの中で補うこともできます」


「補いません」


早い答えだった。


「知らない名を、私が勝手に足すことはできません」


祈り役の顔が苦くなる。


「聖女様。民のためです」


「民の名だからです」


ミレイアは壁の傷から目を離さずに言った。


「だから、試しに読んだりしません」


アスターは息を吐きそうになり、こらえた。


広場でトマ・ベルの名を呼んだときと同じだ。


ミレイアは名を軽く扱わない。


それは、白壁に仕える聖女としては危ういことだった。


王宮にとっても。


レオンにとっても。


レオンが小さく笑った。


「聖女様にしては、まともなことを言う」


「あなたに褒められるために言ったのではありません」


「だろうな」


「あなたは、この傷の続きを知っているのですか」


ミレイアが問う。


部屋の空気が変わった。


王宮役人も、記録官も、祈り役も、同時にレオンを見る。


レオンは答えない。


ミレイアは一歩も近づかない。


壁にも、レオンにも触れない。


ただ、言葉だけを向ける。


「知っているなら、なぜ書かないのですか」


レオンは少しだけ顔を上げた。


「書けば、残る」


「残したくないのですか」


「残したいから書かないものもある」


ミレイアの眉がわずかに寄る。


「分かりません」


「分からないままでいろ」


「それでは、誰も助けられません」


レオンの目が細くなった。


「助ける?」


声が低くなる。


「今日、広場で一人戻したから、そう思ったのか」


アスターが動きかけた。


だが、ミレイアは引かなかった。


「少なくとも、壁へ押し出すよりはよかったはずです」


「一人だ」


レオンは言った。


「次に十人出たらどうする。百人なら。知らない名が並んだら、聖女様は一人ずつ膝をつくのか」


ミレイアの顔が白くなる。


それは責められたからではない。


その問いを、彼女自身も恐れていたからだ。


レオンは続けなかった。


言い過ぎたと気づいたのか。

それとも、そこから先を言えば自分にも刺さるのか。


アスターには分からなかった。


ミレイアはしばらく黙っていた。


それから言った。


「それでも、最初の一人を白壁へ渡す理由にはなりません」


レオンの表情が止まった。


ミレイアは、声を落とす。


「あなたは、白壁に渡したくない名を知っているのですね」


レオンは答えない。


手枷の鎖が、低く鳴った。


答えないことが、また答えに近かった。


王宮役人が口を挟む。


「聖女様。その問いは記録に残します」


ミレイアは王宮役人を見た。


「残すなら、そのまま残してください」


「もちろんです」


嘘ではない声だった。


けれど、アスターはもう知っている。


そのまま残すと言った言葉が、そのまま残るとは限らない。


尋問は長く続かなかった。


レオンは「リ」の続きを言わなかった。


ミレイアも、壁の傷を声にはしなかった。


王宮役人が得たものは少ない。


だが、何も得なかったわけではない。


聖女は欠けた名を読まなかった。


黒き王子は聖女にだけ、少しだけ表情を変えた。


それは、王宮にとって十分に気味の悪い記録だった。


塔を出る前、ミレイアは一度だけ振り返った。


レオンは部屋の中に戻されていた。


扉は開いている。


塔番が鎖を確かめている。


ミレイアは声をかけなかった。


レオンも見なかった。


ただ、扉が閉まる直前、レオンが言った。


「聖女様」


ミレイアの足が止まる。


「今日の泥は落とすな」


侍女が驚いた顔をする。


王宮役人も眉をひそめる。


ミレイアは振り向かないまま、問う。


「なぜですか」


「白よりましだ」


扉が閉まった。


鍵が回る。


ミレイアはしばらく動かなかった。


それから、何事もなかったように歩き出した。


王宮へ戻る廊下で、ミレイアは小さく言った。


「彼は、私を知っているのですね」


アスターは答えに迷った。


「そう見えました」


「私は、知りません」


その声は、先ほどまでよりも幼く聞こえた。


「知らないはずです」


アスターは何も言わない。


ミレイアは歩きながら、汚れた裾を見た。


「知らないことが、罪になることもあるのですね」


「それは、まだ分かりません」


アスターは言った。


「ただ、知らないまま使われることはあります」


ミレイアが顔を上げた。


アスターは続けなかった。


言い過ぎれば、また記録にされる。


だが、ミレイアには伝わったらしい。


彼女は小さく頷いた。


「なら、知らないままではいたくありません」


その声は小さかった。


しかし、今度は震えていなかった。


王宮へ戻ると、記録官はすぐに紙を整えた。


アスターは離れた場所から、その筆先を見ていた。


そこには、こう書かれていく。


聖女ミレイア、黒き王子への聞き取りに同席。

塔内の傷について、名との関係を確認できず。

黒き王子、回答を拒む。


アスターは目を細めた。


確認できず。


違う。


ミレイアは確認できなかったのではない。


読まなかった。


口にしなかった。


知らない名を勝手に足さなかった。


その違いは、王宮の紙の上では消える。


アスターは何も言わなかった。


言えばまた、整えられる。


その夜、アスターは控えを開いた。


白壁前のトマ・ベル。

幽閉塔の「リ」。

聖女が黒き王子を名で呼んだこと。


その下に、新しく書く。


聖女ミレイア、塔へ。

壁の傷「リ」を、名として読まず。

知らない名を補わないと言う。

黒き王子、傷の続きを語らず。

聖女を「忘れた側」とは言わず。ただし、知っている様子あり。


そこで筆が止まった。


アスターは最後の一行を見た。


「忘れた側」。


それは昨日、レオンが口にしなかった言葉だった。


いや、アスターがまだ聞いていない言葉だ。


勝手に書くべきではない。


アスターはその行を消した。


代わりに、短く書いた。


黒き王子、聖女を知る様子。


それで止めた。


分からないことを、分かったとは書かない。


今日も、それだけは守る。


窓の外には、白壁が見えた。


夜の白壁は、昼よりも静かだった。


だが、アスターにはもう、静かだから安全だとは思えない。


広場で民が見たもの。


塔で聖女が読まなかった傷。


王宮の記録から消えていく違い。


そのすべてが、同じ場所へ向かっている気がした。


レオンは名を呼ばない。


ミレイアは知らない名を読まない。


アスターは、見たことを消さない。


それぞれ違う沈黙が、白壁の下で重なっている。


アスターは控えを閉じた。


そのとき、外から風が入った。


紙の端が揺れる。


小さく書いた「リ」の字だけが、灯りの中で一度、黒く濃く見えた。

第9話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、聖女ミレイアとレオンが幽閉塔で向かい合う回でした。


塔の壁に何度も刻まれていた「リ」。

王宮はそれを、欠けた名として扱おうとします。

けれどミレイアは、知らない名を勝手に補うことを拒みました。


名を呼ばないレオン。

知らない名を読まないミレイア。

そして、分からないことを分かったとは書かないアスター。


三人の立場が、少しずつ見え始めた回でもあります。


また、レオンはミレイアを知っているように見えますが、ミレイア自身は「知らない」と言います。

そのずれが、これから白壁の奥にある過去へつながっていきます。


次話では、王宮の記録と、アスターの控えの違いがさらに大きくなっていきます。

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