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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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10/14

第10話 白い手順

王宮の言葉は、ただの記録では終わりませんでした。


「白壁の前へ移すこと」

「名を確認すること」


整えられた言葉は、やがて現場の手順になります。


第10話では、その白い手順が、実際に人を危うくしていきます。



朝の詰所に、新しい紙が貼られていた。


王宮の印が押されている。


白い紙。

黒い文字。

端だけが、まだ湿って少し波打っていた。


門番たちは、その前で黙っている。


誰も声に出して読まない。


だが、全員が読んでいた。


アスターは詰所に入るなり、その紙を見た。


北門ではない。


王都すべての門と広場に出された通達だった。


北門での混乱を受け、名を失いかけた者を確認した場合、速やかに白壁前へ移し、祈り役または聖女の前で名の確認を受けさせること。


アスターは最後まで読んだ。


紙の中に、「壁を見せるな」とは書かれていない。

「本人へ名を向けろ」とも書かれていない。

「知っている者が呼べ」とも書かれていない。


ただ、白壁前へ移せ。


そう書いてある。


第6話で恐れたことが、もう紙になっていた。


アスターは紙に手を伸ばしかけた。


剥がすためではない。


端を確かめるためだった。


紙はしっかり貼られていた。

まだ乾いていない糊が、壁に厚く残っている。


王宮は急いで貼らせたのだ。


「隊長」


カイルの声がした。


アスターは振り返る。


カイルは息を切らしていた。


外套の内側を片手で押さえている。


そこに、北門の記録がある。


「王宮の使いが来ました」


「記録を求めたか」


「はい。北門で呼び返した名を、全市の確認に使うと言っていました。祈り役が照合すると」


「渡したか」


カイルは首を振った。


「持っていません、と言いました」


「嘘をついたのか」


「はい」


カイルの顔は青い。


だが、目は逃げていなかった。


「持っていました。でも、渡すためには持っていませんでした」


アスターは少しだけ息を吐いた。


「よくやった」


カイルの肩が落ちる。


叱られると思っていたのだろう。


アスターは通達をもう一度見た。


白壁前へ移し、名の確認を受けさせること。


その文字は、乾いていくほど黒く見えた。


「カイル」


「はい」


「記録を一つにまとめるな」


カイルは一瞬、意味が分からない顔をした。


「紙を分けろ。北門に置く分、お前が持つ分、ロランに預ける分。全部同じ場所にあると、一度で奪われる」


「でも、写しを増やせば」


「危ない」


アスターは言った。


「写しでも、白壁の前へ持っていかれれば同じだ」


カイルは唇を噛んだ。


昨日、王宮で聞いた言葉を覚えている顔だった。


「分けます」


「名だけで写すな」


「え?」


「名だけを並べれば、ただの名簿になる。誰が呼んだか、誰に返事をしたかも一緒に残せ」


カイルは頷いた。


「はい」


そのとき、詰所の外で声が上がった。


走る足音。


門番の一人が扉を開ける。


「アスター殿! 東広場で、名が落ちかけている者が出たそうです!」


カイルの顔が強ばる。


アスターはすぐに歩き出した。


「白壁は」


「近いです」


「連れて行かれたか」


門番は答えに詰まった。


それだけで分かった。


アスターは走った。


東広場は、白壁に近い。


普段なら、香辛料売りや布屋が並ぶ明るい場所だ。


今は、人垣ができていた。


その向こうから、兵の声が聞こえる。


「通達どおりだ! 白壁前へ!」


「名前を確認するだけだ、どけ!」


アスターは人垣を割って入った。


二人の兵が、一人の青年を両脇から支えている。


いや、支えているのではない。


引いている。


青年は足に力が入らない様子で、白壁の方へ向けられていた。


年は二十を少し過ぎたくらい。

革の前掛けをつけている。

指先に木屑がついていた。


職人だ。


白壁の表面には、薄い字が浮かびかけている。


セ。


そこまでだった。


青年はそれを見ていた。


自分の名の先を、壁に探すように。


「止まれ!」


アスターの声に、兵たちが振り返る。


「アスター殿。王宮の通達が出ています」


兵の一人が言った。


顔は必死だった。


悪意はない。


むしろ、決められた通りにしようとしている者の顔だった。


「白壁前へ移し、名の確認を受けさせること、と」


「壁を見せるな」


アスターは青年の前に回った。


自分の体で白壁を遮る。


青年の目が、アスターの鎧にぶつかる。


それだけで、肩の震えが少し変わった。


「名は」


アスターが聞いた。


兵は紙を見た。


「セオ・ラン。東広場の木箱職人。登録ではそうなっています」


「登録では、ではなく、知っている者はいないのか」


人垣が揺れる。


誰もすぐには出ない。


皆、白壁と通達を見ている。


王宮の紙が出たばかりだ。


それに逆らうのが怖いのだ。


アスターは周囲を見た。


「この男を知っている者はいないか!」


返事はない。


白壁の「セ」が、わずかに濃くなった。


青年の唇が動く。


「俺は……」


声が続かない。


兵が焦って言う。


「やはり白壁前で確認を」


「黙れ」


アスターは低く言った。


兵が息を呑む。


アスターは青年に向き直った。


「セオ・ラン」


名前だけを呼んだ。


青年の目が少し動く。


だが、弱い。


アスターは彼を知らない。


名簿の名だけでは、足りない。


そのとき、人垣の後ろから小さな声がした。


「木箱屋の兄ちゃん」


子どもの声だった。


人垣の隙間から、花籠を抱えた少女が覗いている。


ミナだった。


西門の花売り。


以前、アスターが名を呼び戻した少女。


彼女は怯えた顔をしていた。


だが、逃げなかった。


「知っているのか」


アスターが聞く。


ミナは頷いた。


「市場の箱、直してくれる人。花を入れる箱も、雨の日に直してくれた」


「名は」


「セオ」


ミナは青年を見た。


白壁ではなく、青年を。


「セオ・ラン。木箱屋のセオ。わたしの花箱、釘を打ち直してくれた」


青年の目が揺れた。


人垣の中から、女が声を上げる。


「セオ! うちの干し魚の箱も直してくれたろ!」


別の男が続く。


「セオ・ラン! お前、代金をあとでいいって言ったくせに、取りに来てないぞ!」


少しだけ笑いが起きた。


震えた笑いだった。


それでも、白壁ではなく青年へ向いた声だった。


アスターは兵に言った。


「腕を離せ」


「しかし」


「本人を見ろ。引くな。支えろ」


兵は戸惑いながら、青年の腕を引くのをやめた。


代わりに、倒れないように肩を支える。


青年の膝が震える。


ミナが一歩前に出た。


「セオ。見て。こっち」


青年の目が白壁から外れる。


ミナを見る。


「……花」


かすれた声だった。


ミナは涙をこらえた顔で、花籠を持ち上げた。


「そう。花。箱、また直して」


青年は長く息を吐いた。


白壁に浮かんでいた「セ」が、濡れた粉のように薄れていく。


完全に消えたかどうかは分からない。


だが、青年は自分の足で立っていた。


広場に、小さなざわめきが広がった。


安堵ではない。


見てしまった者たちのざわめきだ。


兵の一人が通達の紙を握っていた。


「ですが、紙には」


「紙には足りないことが書かれている」


アスターは言った。


「足りないまま従えば、人が落ちる」


兵は何も言えなかった。


彼も、今のを見たのだ。


青年を白壁へ向けたとき、遠のいた。

人が名を呼んだとき、戻った。


それは、もう説明ではなかった。


その場に残ったものだった。


「アスター殿!」


別の兵が駆けてくる。


王宮の使いだった。


息を切らしている。


「王宮より命令です。通達に反する誘導を止め、名を失いかけた者は白壁前へ」


「今ここで、それをして悪化した」


アスターは遮った。


使いは一瞬怯んだ。


だが、すぐに顔を戻す。


「判断は王宮でなされます」


「現場で落ちる者の判断は、誰がする」


使いは答えなかった。


答える言葉を持っていないのだろう。


命令を運ぶ者は、命令の中身までは持っていない。


アスターはセオを見る。


ミナや市場の者たちが、青年を囲んでいた。


誰かが水を渡している。


誰かが前掛けについた木屑を払っている。


その手つきは、白壁へ祈る手ではなかった。


そこにいる人を確かめる手だった。


王宮の使いは言った。


「この件も、報告されます」


「報告しろ」


アスターは答えた。


「ただし、セオ・ランの名と、呼んだ者の名も書け」


使いは黙った。


アスターは分かっていた。


書かれないだろう。


書かれても、別の言葉になる。


白壁前にて名を確認。


民の呼びかけにより一時沈静。


聖女の祈りを待たず回復の兆し。


そんな形になる。


だが、見た者はいた。


市場の者たち。

兵。

ミナ。


王宮がどんな紙を書いても、今日の東広場には声が残る。


詰所へ戻る道で、カイルが追いついてきた。


「隊長、東広場の件、もう王宮へ走っています」


「だろうな」


「通達に逆らったことになります」


「そうだな」


「処分されるかもしれません」


アスターは歩く速度を落とさなかった。


「処分で済むなら、まだ軽い」


カイルは言葉に詰まった。


アスターは言いすぎたと思ったが、訂正しなかった。


軽くない。


分かっている。


だが、今日のセオを白壁の前へ引いていたら、処分どころでは済まなかった。


人が一人、消えていたかもしれない。


詰所に戻ると、ロランが待っていた。


腕を組み、壁に背を預けている。


白壁ではない。


普通の石壁だ。


「やったな」


第一声がそれだった。


アスターは外套を脱ぐ。


「何をだ」


「王宮の紙に逆らった」


「人を壁へ向けさせなかっただけだ」


「それを逆らったと言うんだよ」


ロランは息を吐いた。


「北門の記録を、三つに分けた。俺の分は預かった」


カイルが驚いてロランを見る。


「早いですね」


「お前が顔に全部出して走っていたからな。狙われると思った」


ロランは懐から細く畳んだ紙を出しかけ、すぐに戻した。


「ここでは見せない」


アスターは頷いた。


「正解だ」


ロランは詰所の壁に貼られた通達を見る。


「これを出した奴は、現場を見ていない」


「見ていないわけではない」


アスターは言った。


「見たものと違う言葉を選んだ」


ロランは眉をひそめる。


「同じことだろ」


「少し違う」


「面倒だな、お前は」


ロランはそう言ったが、目は笑っていなかった。


カイルが小さく言う。


「でも、今日の東広場は、皆が見ました」


「見たものは残る」


アスターは言った。


「だから、王宮は言葉を急ぐ」


詰所の外で、王宮の鐘が鳴った。


昼を告げる鐘だった。


切れていない。


整った音だった。


だがアスターには、どこか急かすように聞こえた。


その日の夕方、東広場の件について王宮から文が届いた。


封は白い蝋で閉じられている。


アスターはそれを開いた。


中には、短い命令が書かれていた。


アスター・ヴェイン。

本日より、名を失いかけた者への対応に関し、単独判断を禁ず。

以後、王宮の通達に従い、白壁前確認を優先すること。

また、北門以降に作成した私的記録を提出せよ。


カイルが息を呑んだ。


ロランが低く唸る。


「来たか」


アスターは文を最後まで見た。


私的記録。


控えのことだ。


王宮に出していない、自分の紙。


北門で消された言葉。

幽閉塔の「リ」。

トマ・ベル。

セオ・ラン。

ミレイアが読まなかった傷。


全部、そこにある。


「出すんですか」


カイルが聞いた。


アスターは答えなかった。


机の引き出しを開ける。


控えはそこにある。


あるはずだった。


紙束を取り出す。


その瞬間、指が止まった。


紙の端が、揃っている。


自分は昨夜、急いで閉じた。

端は揃えていなかった。


一枚目を開く。


文字はある。


消されていない。


だが、途中の一行に、薄い跡があった。


誰かが紙を重ね、その上から別の紙に写した跡。


筆ではない。


硬い先でなぞったような、かすかなへこみ。


アスターは息を止めた。


ロランが近づく。


「どうした」


アスターは紙を傾ける。


灯りの角度を変えると、へこみが見えた。


白壁前。

灯火屋トマ・ベル。

娘エマ・ベル。


その行だけではない。


幽閉塔。

壁の傷「リ」。


そして。


聖女、黒き王子を名で呼ぶ。


その行の上にも、薄い跡が残っている。


誰かが読んだ。


読むだけではない。


写した。


カイルの顔が青ざめる。


「いつ」


「今日、東広場へ出ている間だろう」


ロランが扉へ目を向ける。


「詰所に誰が入った」


「門番は全員出ていました。王宮の使いが、一人」


カイルが言った。


「通達の張り替えに来た者が」


アスターは控えを閉じた。


提出せよ。


王宮はもう、中身の一部を知っている。


だから求めてきた。


知らないから欲しいのではない。

知ったうえで、正式に取り上げようとしている。


ロランが言った。


「燃やすか」


カイルがぎょっとする。


「だめです!」


「奪われるよりはましだ」


「消えます!」


二人の声が重なった。


アスターはしばらく黙っていた。


燃やせば、王宮には渡らない。


だが、消える。


渡せば、別の言葉にされる。


隠せば、探される。


どれも正しくない。


アスターは控えを開き、一番新しい白紙を出した。


「写す」


カイルが顔を上げる。


「写しは危険だと」


「名だけの写しは危険だ」


アスターは言った。


「これは、何が起きたかを分けて残す。誰が持つかも分ける」


ロランが頷いた。


「全部を一人が持つな、か」


「そうだ」


アスターは筆を取った。


「王宮に奪われる前に、見た者たちの手に返す」


カイルはすぐに別の紙を出した。


ロランは扉の前に立つ。


外の音を聞く。


アスターは書き始めた。


トマ・ベルを呼んだ者。

エマ・ベル。

南通りの人々。


セオ・ランを呼んだ者。

ミナ。

東広場の市場の者たち。


北門で呼び返した名。


誰が誰を呼んだか。


白壁に向けた名ではない。

人に向けた名。


それを、分けて残す。


机の上の灯りが揺れた。


紙の上に、いくつもの名が並んでいく。


名だけではない。


呼んだ声が、そこに戻ってくる。


夜が深くなるころ、最初の写しができた。


アスターはそれを折り、カイルに渡す。


「これはミナへ。東広場で見た者たちに、内容を確かめてもらえ。間違いがあれば直す」


「はい」


次をロランに渡す。


「これは北門へ。門番たちに覚えさせろ。紙を隠すだけでは足りない」


ロランは口の端を上げた。


「覚えろ、か。門番どもにはきつい仕事だな」


「名を守る仕事だ」


ロランは笑わなかった。


「分かった」


アスターは最後に、自分の控えを見た。


そこには、王宮に写された跡が残っている。


もう安全な紙ではない。


だが、捨てる紙でもない。


アスターは、その表紙に一行を書き足した。


王宮提出用ではない。


それだけ。


短い言葉だった。


だが、必要だった。


外で、また鐘が鳴った。


夜の鐘。


白壁の方角から、風が吹く。


窓がかすかに揺れた。


アスターは灯りを消さなかった。


今夜は、白い紙が怖かった。


何も書かれていない紙ほど、何にでも変えられる。


だから書く。


消される前に。


変えられる前に。


誰かの名が白壁の前へ戻される前に。


アスターは新しい紙を引き寄せた。


そして、一番上にこう書いた。


名を呼んだ者の記録。


今度は、王宮の机ではなく、人の手に残すために。

第10話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、王宮の通達が現場に降りてくる回でした。


これまで王宮は、起きたことを「混乱」や「白壁前での確認」として整えてきました。

けれど、その言葉が紙になり、命令になったとき、現場では本当に人が白壁の前へ連れて行かれそうになります。


セオ・ランを留めたのは、白壁ではありません。

ミナや市場の人たちが、本人を見て名を呼んだ声でした。


そして王宮は、アスターの控えにも手を伸ばし始めます。


記録を奪われれば、また別の言葉に変えられる。

けれど燃やしてしまえば、見たことそのものが消えてしまう。


だからアスターは、記録をひとつの紙に閉じ込めるのではなく、人の手に分けて残すことを選びました。


次話では、この「名を呼んだ者の記録」が、王宮との対立をさらに深めていきます。

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