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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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8/14

第8話 聖女の言葉

白壁の前に、民が集められました。


北門で起きたことは「混乱」と呼ばれ、

王宮は白壁への信を取り戻そうとします。


そこに立つのは、聖女ミレイア。


けれど彼女の言葉は、王宮が望んだものとは少し違っていました。


白壁の前には、朝から人が集められていた。


自分で来た者ばかりではない。


王宮の使いに促され、通りから出てきた商人。

子どもの手を引いて立つ母親。

昨夜から北門の噂をしていた老人たち。

何が起きるのか分からないまま、人の流れについてきた者。


広場に面した白壁は、夜のうちに洗われていた。


表面には水の跡が残っている。

乾ききっていない場所だけが、薄く灰色に見えた。


その前に、白い布をかけた台が置かれている。


祈り役たちが、台の上に巻物と小さな鈴を並べていた。


王宮の記録官もいる。


昨日、報告書に赤い線を引いた者とは別の顔だった。

だが、紙を見る目は似ていた。


アスターは広場の端に立っていた。


今日は北門の指揮ではない。


白壁の前で行われる祈りの警備。


そう命じられた。


命じられただけで、何を守るのかは言われていない。


民を守るのか。

白壁を守るのか。

王宮の言葉を守るのか。


アスターには分からなかった。


ただ、北門の記録だけは、まだカイルの手にある。


そのことだけは分かっている。


広場の民は、白壁を見ていた。


いや、見ようとしていた。


正面から見つめる者もいれば、目を伏せる者もいる。

子どもを抱く母親は、壁を見ないように子の顔を自分の胸へ押しつけていた。

老人の一人は、祈るように手を合わせかけ、途中でやめた。


北門の朝と同じだった。


白壁はまだ白い。

民もまだ祈ろうとしている。


だが、昨日までと同じではない。


王宮役人が台の横に立った。


声を張る。


「北門での混乱により、民の間に不安が広がっています」


混乱。


アスターはその言葉を聞いた。


まただ、と思った。


白壁に浮いた名。

名を失いかけた民。

互いに呼び返した声。


それらは、また別の言葉に置き換えられている。


王宮役人は続けた。


「本日、聖女ミレイア様が白壁の前に立たれます。白壁は民を見捨てていない。そのことを、皆に示すためです」


民の間に、小さなどよめきが起きた。


聖女。


その名が出るだけで、広場の空気が変わった。


不安を抱えていた者たちが、顔を上げる。

泣いていた子どもが、母親の袖を引く。

商人が帽子を取り、老人が背筋を伸ばす。


アスターは黙って見ていた。


白壁への信が揺らいでも、聖女への信はまだ残っている。


だから王宮は、彼女をここに立たせる。


白い衣の列が、王宮の門から出てきた。


祈り役。

侍女。

護衛。


その中央に、聖女ミレイアがいた。


年は、アスターと大きく変わらないように見えた。


白い衣。

薄い布のヴェール。

首元にかかる銀の鎖。


民が想像する聖女そのものだった。


だが、近づくにつれ、アスターには別のものも見えた。


白い衣の袖口が、指先で何度も握られている。

歩幅が広場に入る直前で、わずかに小さくなった。

白壁の正面に立つ前、一度だけ足が止まった。


侍女が小さく囁く。


ミレイアは頷き、また歩き出した。


彼女は白壁の前に立った。


だが、壁には触れなかった。


手を伸ばせば届く距離にいる。


それでも、指先は衣の前で組まれたままだった。


王宮役人が巻物を開く。


「聖女様より、民へお言葉を賜ります」


ミレイアは広場を見た。


その目は、まっすぐ民へ向けられている。


白壁ではない。


民へ。


「皆さん」


静かな声だった。


だが、不思議と広場の端まで届いた。


「北門で不安な思いをした方もいるでしょう。眠れなかった方もいるでしょう。名を呼び合った方も、呼ばれた方もいると聞いています」


王宮役人の顔が、わずかに動いた。


巻物にはない言葉だったのだろう。


アスターもそれに気づいた。


ミレイアは続ける。


「恐れたことを、恥じないでください。大切な人の名を呼んだことを、恥じないでください」


民の中で、誰かが息を呑んだ。


北門から来た者かもしれない。


ミレイアはそこで一度、言葉を切った。


祈り役がそっと近づく。


「聖女様」


低い声だった。


止めるほどではない。

だが、先を選ばせる声だった。


ミレイアは頷いた。


「白壁は、この国を守ってきました」


その言葉に、広場の何人かが胸を撫で下ろした。


王宮役人も表情を戻す。


ミレイアは白壁を見上げた。


ほんの一瞬だけ。


そして、すぐに民へ視線を戻した。


「けれど、白壁の前で倒れた人を、壁へ押し出してはいけません」


広場が静まった。


今度は、祈り役の顔がはっきりと強ばった。


王宮役人が巻物を握る。


アスターは息を止めた。


ミレイアの声は震えていない。


「名を失いかけた人がいたなら、まず、その人のそばにいてください。顔を見てください。知っている名を、知っている人が呼んでください」


広場の端で、女の泣く声が上がった。


「聖女様!」


人垣が揺れる。


一人の若い女が、老人の腕を抱えて前へ出ようとしていた。


老人は足元がふらついている。

顔は青く、唇が乾いていた。


王宮の兵が止めようとする。


だが女は止まらなかった。


「父が、自分の名を言えないんです。朝から、何度聞いても」


広場がざわめいた。


名が、落ちかけている。


誰もその言葉を口にはしない。


だが、皆が同じものを思い浮かべた。


老人は白壁を見ていた。


いや、見てしまっていた。


濡れたような白い壁の表面に、薄い字が浮かびかける。


ト。


そこまでだった。


だが、老人の肩が大きく震えた。


娘が叫ぶ。


「お父さん!」


老人の目は壁から離れない。


自分の名を、そこに探している。


アスターは体が先に動いていた。


「壁を見るな!」


広場の視線が一斉に向く。


アスターは老人と白壁の間に立った。


老人の肩を掴み、壁から顔をそらせる。


王宮兵が動きかける。


「アスター殿!」


「止めるな!」


アスターは怒鳴った。


それから、娘を見た。


「名は」


女は涙で顔を歪めている。


「え」


「父親の名だ」


「トマ」


女は震える声で言った。


「トマ・ベル。南通りの灯火屋です。私の父です。朝になると、いつも店の火を入れて、ランプの芯を直して、私が寝坊すると戸を叩くんです」


「もう一度」


アスターは言った。


「本人を見て、名を呼べ」


女は老人の手を握った。


「トマ・ベル。お父さん、トマ・ベル。南通りの灯火屋。私の父さん。私はエマ。エマ・ベル」


老人の唇が動く。


だが、声にならない。


白壁に浮きかけていた「ト」が、わずかに濃くなる。


まずい。


アスターは周囲を見た。


「南通りの者はいないか!」


人垣の中から、男が一人、手を上げた。


「知ってる。灯火屋のトマだ。うちの店のランプを直してくれた」


「名を呼べ」


男は戸惑った。


白壁の前で、聖女の前で、自分が声を出してよいのか迷っている。


アスターは言った。


「壁ではなく、本人を見ろ。名を呼べ」


男は老人を見た。


「トマ・ベル! 聞こえるか! 去年、うちの看板灯を直しただろ!」


別の女が声を上げる。


「トマさん! うちの子が割ったランプを、怒らずに直してくれた!」


「トマじい!」


子どもの声も混じった。


「飴くれた!」


広場に、少しずつ声が増えていく。


トマ・ベル。


灯火屋のトマ。


南通りのトマ。


エマの父親。


呼び方はばらばらだった。


だが、どれも壁へ向かっていなかった。


老人へ向かっていた。


ミレイアが台から降りた。


侍女が止めようとする。


ミレイアは首を振った。


彼女は老人の前で膝をついた。


白い衣の裾が、濡れた石畳に触れる。


「トマ・ベル」


ミレイアは言った。


その声は祈りの声ではなかった。


目の前の一人へ向けた声だった。


「あなたの娘が、あなたを呼んでいます」


老人の目が揺れた。


白壁ではなく、娘を見る。


「……エマ」


かすれた声だった。


それでも、確かに声だった。


娘が泣き崩れる。


白壁に浮きかけていた「ト」は、それ以上濃くならなかった。


水の跡のように、少しずつ薄れていく。


老人はそこに立っていた。


娘の手を握り返していた。


広場に、長い息が広がった。


誰かが膝をつく。


誰かが泣く。


誰かが、隣に立つ者の名を小さく呼ぶ。


王宮役人が前へ出た。


「聖女様の祈りにより、白壁の前で名が戻りました」


その言葉に、アスターの体が強ばる。


違う。


今のは違う。


白壁が戻したのではない。


だが、王宮役人の声は広場に響いてしまった。


記録官の筆も動き始めている。


ミレイアが立ち上がった。


「いいえ」


静かな声だった。


しかし、王宮役人の言葉よりもはっきり届いた。


「今この方を留めたのは、娘の声です。南通りの方々の声です」


王宮役人が顔をこわばらせる。


「聖女様」


ミレイアは広場を見た。


「白壁へ祈るなら、まず隣にいる人の名を忘れないでください。倒れた人を壁へ押し出さないでください。知っている人が、その人へ名を向けてください」


祈り役が近づく。


顔は青ざめていた。


「聖女様。言葉をお選びください」


ミレイアは祈り役を見た。


「選びました」


それだけだった。


怒りではない。


反抗でもない。


だが、引く気のない声だった。


広場の民は、まだ何が起きたのか分かっていない。


ただ、見た。


老人を壁へ向けたとき、老人は遠のいた。

娘が名を呼んだとき、老人は戻った。

聖女は、それを白壁の手柄にしなかった。


見たものは、言葉より残る。


だからこそ、王宮はすぐに言葉を整えようとする。


王宮役人は記録官に近づき、小声で何かを告げた。


アスターには聞こえない。


だが、記録官の筆が一度止まり、別の行へ移るのは見えた。


広場で起きたことが、もう別の形に変えられ始めている。


祈りは長く続かなかった。


ミレイアは決められた文を最後まで読まなかった。


白壁に手を触れることもなかった。


ただ、民へ向かって頭を下げた。


それだけで、広場は終わりに向かっていった。


王宮兵が人を散らし始める。


エマは父を支え、南通りの者たちに囲まれて広場を出ていく。


老人は何度も自分の胸元を押さえていた。


自分の名を確かめるように。


アスターはその背を見送った。


完全に戻ったわけではない。


それは分かる。


だが、まだ消えていない。


それだけで、今は十分だった。


「アスター・ヴェイン」


背後から声がした。


振り向くと、ミレイアが立っていた。


侍女は少し離れた場所にいる。

祈り役と王宮役人は、記録官の机の前で何かを話していた。


ミレイアはアスターを見ていた。


近くで見ると、彼女の顔には疲れが濃かった。


それでも目は逸らさない。


「北門でも、同じことが起きたのですね」


アスターは一瞬、答えを選んだ。


ここで何を言えば、どう記録されるのか。


昨日から、そればかり考えている。


「はい」


短く答えた。


「白壁ではなく、人が名を呼び返しました」


ミレイアの指が、袖口を握った。


「記録は」


「王宮には渡していません」


彼女は少しだけ目を伏せた。


責めるのかと思った。


違った。


「よかった」


小さな声だった。


アスターは聞き返さなかった。


聞き返せば、彼女はもう一度言わなければならない。


それは危ない気がした。


ミレイアは白壁を見た。


触れはしない。


「私は、ずっと白壁の前で祈ってきました」


その声は、広場へ向けた声とは違っていた。


小さい。


誰かに聞かせるためではない声。


「けれど今日、初めて分かったことがあります」


「何ですか」


「壁に向かって祈る声と、人に向かって名を呼ぶ声は、違います」


アスターは何も言わなかった。


ミレイアの言葉は、答えではない。


だが、嘘でもない。


遠くで、王宮役人の声がした。


「聖女様」


ミレイアはそちらへ顔を向ける。


戻らなければならない。


アスターはその背に言った。


「昨日、幽閉塔であなたの名が出たとき、黒き王子が反応しました」


ミレイアの足が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、止まった。


「レオンが、ですか」


聖女は、そう言った。


黒き王子ではなく。


レオン。


アスターは、その呼び方を聞き逃さなかった。


ミレイア自身も気づいたのだろう。


すぐに口を閉じる。


侍女が近づいてくる。


ミレイアは何事もなかったように顔を上げた。


「失礼します」


それだけ言って、歩き出した。


アスターは追わなかった。


追えば、今聞いたものが壊れる気がした。


広場の端で、記録官が紙を乾かしている。


アスターは横を通るふりをして、その紙を見た。


そこには、こう書かれていた。


聖女ミレイア、白壁前にて名を失いかけた民を鎮める。

白壁への信、回復の兆しあり。


娘の声は、書かれていない。


南通りの者たちの声も、書かれていない。


トマ・ベルの名も、エマ・ベルの名もない。


アスターは足を止めた。


「違います」


記録官が顔を上げる。


「何がでしょう」


「今の記録です」


「民へ出す文ではありません。王宮に納める文です」


昨日と同じ言い方だった。


アスターはそれ以上言わなかった。


言えば、また別の言葉に変えられる。


だから見た。


紙の上で、娘の声が消されていくのを。


その夜、アスターは控えを開いた。


王宮で消された言葉の下。

幽閉塔の「リ」の下。


新しく書く。


白壁前。

灯火屋トマ・ベル、名を失いかける。

娘エマ・ベル、名を呼ぶ。

南通りの民、続いて呼ぶ。

聖女ミレイア、壁ではなく本人へ名を向けるよう告げる。


筆先が止まる。


アスターは、今日見たもう一つのことを書くか迷った。


ミレイアは、黒き王子と言わなかった。


レオンと言った。


その名を、自然に口にした。


それが何を意味するのか、まだ分からない。


だから、短く書いた。


聖女、黒き王子を名で呼ぶ。


それ以上は書かなかった。


窓の外には、白壁が見える。


昼の人だかりはもうない。


洗われた白は、夜の中で灰色に沈んでいた。


王宮の記録では、今日も白壁が民を救ったことになるのだろう。


だが、アスターの耳にはまだ残っている。


娘が父の名を呼んだ声。

南通りの者たちが続いた声。

聖女が、その手柄を白壁に渡さなかった声。


言葉は、また整えられる。


それでも、今日の広場には見た者がいた。


聞いた者がいた。


呼んだ者がいた。


アスターは控えを閉じた。


遠くの幽閉塔は、夜の中に黒く沈んでいる。


その塔の中で、レオンは今も人の名を呼ばずにいる。


だが、聖女はその名を口にした。


レオン。


その名だけが、白い王宮の中で、ひどく黒く残っていた。

第8話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、聖女ミレイアが白壁の前に立つ回でした。


王宮は、北門で起きたことを「白壁が民を救った話」として整えようとします。

けれど実際にトマ・ベルを留めたのは、白壁ではなく、娘のエマや南通りの人たちが名を呼んだ声でした。


そしてミレイアは、その手柄を白壁に渡しませんでした。


白壁に祈る声。

人に向かって名を呼ぶ声。

その違いに、ミレイア自身も気づき始めています。


また、彼女が黒き王子を「レオン」と呼んだことも、アスターの中に残りました。


次話では、聖女ミレイアとレオンの間にあるものへ、少しずつ近づいていきます。

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