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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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7/14

第7話 口にできない名

北門の報告書から、いくつもの言葉が消されました。


けれど、消えなかったものもあります。

白壁の外から聞こえた「リ」。

それに反応したレオン。

そして、人の名を呼ばない黒き王子の沈黙。


第7話では、アスターが幽閉塔で、レオンの抱えるものに少しだけ触れます。



幽閉塔には、人の名を書いた札がなかった。


扉には番号だけが刻まれている。

鍵にも番号がある。

食事を運ぶ籠にも、部屋の番号だけが吊られている。


誰かが誰かを呼ぶ声も少ない。


「三番の扉を開けろ」


「黒の囚人を出せ」


「鍵持ち、前へ」


名ではなく、役目で呼ぶ。


ここでは、それが当たり前のようだった。


アスターは塔の入口で剣を預けさせられた。


預けた剣の柄に、自分の手の跡が残る。


北門の指揮から外されたその日のうちに、レオンの尋問への立ち会いを命じられた。


罰ではない。


王宮役人はそう言った。


ただし、断ることもできなかった。


北門で、白壁の外から聞こえた「リ」。


それを聞いた者として、アスターも同席せよ。


そういう名目だった。


カイルはいない。


北門の記録は、カイルに預けたままだ。


アスターはそのことだけを、何度も確かめてから塔へ来た。


塔の内側は冷えていた。


白く塗られた壁は、王宮の白とは違う。


明るく見せるための白ではない。

汚れを隠すために、何度も塗り重ねられた白だった。


古い傷の上を塗った跡。

石と石の継ぎ目に残った黒ずみ。

手が触れる高さだけ、少し灰色になった壁。


白いのに、清くはない。


アスターはそう思った。


奥の部屋で、レオンが椅子に座っていた。


手枷はそのままだ。


首枷はない。


その代わり、椅子の脚に短い鎖がつながれている。


レオンはその鎖をつま先で軽く鳴らした。


「遅かったな、騎士」


「時間通りだ」


「塔の中では、時間も少し遅れる」


「減らず口は動くんだな」


「首枷がないからな」


レオンは笑った。


だが、その目は笑っていない。


部屋には、王宮役人と祈り役、それから記録官がいた。


昨日と同じ顔ぶれだ。


ただ、騎士団副長はいない。


机の上には白い布が敷かれている。


その上に、朱の入った報告書の写しが置かれていた。


アスターの書いた言葉は、ほとんど別の言葉になっている。


北門前の混乱。


名に似たものを一部確認。


避難誘導のため、一時的に方向を変えた。


そこには、北門の夜がない。


声もない。


互いの名を呼び返した民もいない。


王宮役人が口を開いた。


「黒き王子。北門で、壁の外から声が聞こえたと報告があります」


レオンは椅子にもたれた。


「声だったか?」


「『リ』と聞こえたそうです」


「なら、そう書けばいい」


記録官の筆が動く。


レオンの言葉が、紙の上に並べられていく。


王宮役人は続けた。


「その『リ』に、あなたは反応した」


「寒かっただけかもしれない」


「そのあと、アスター・ヴェインに『口にするな』と言った」


アスターの名が出た。


レオンは少しだけ目を細めた。


だが、アスターを見ない。


王宮役人はアスターへ視線を向けた。


「あなたが聞いたものを、ここで言いなさい」


アスターは黙った。


廊下の冷えが、背中から上がってくる。


あの夜、北門の白壁の外から聞こえたもの。


声とは言えない。

名前とも言えない。


だが、ただの風ではなかった。


アスターは慎重に口を開いた。


「……リ」


短い音だった。


それだけで、レオンの指が止まった。


手枷の鎖を弄んでいた指先が、ぴたりと動かなくなる。


王宮役人はそれを見逃さなかった。


「覚えがあるのですね」


レオンは笑わない。


「耳がいいな」


「誰の名です」


「名とは言っていない」


「では、何です」


「聞こえただけの音だ」


記録官の筆が止まる。


祈り役が初めて口を開いた。


「欠けた名ならば、白壁の前に戻す必要があります」


その言葉に、レオンの顔から色が消えた。


怒りではない。


恐れにも見えない。


ただ、何かを奥へ押し込める顔だった。


「戻す?」


レオンが低く言った。


「白壁に?」


祈り役は頷く。


「名は、正しい場所へ戻されなければなりません」


レオンが小さく息を吐いた。


笑いかけたのかもしれない。


だが、笑いにはならなかった。


「正しい場所、ね」


アスターはレオンを見た。


昨日、祈り役が北門の記録を求めたとき。

レオンは同じ顔をした。


笑みが消え、息だけが薄くなる顔。


危険を知っている者の顔だった。


王宮役人が机を指で叩いた。


「その『リ』が名の一部なら、白壁の前で確かめる必要があります」


「確かめたがる奴ほど、落ちる」


レオンが言った。


部屋が静まった。


今の言葉は、軽口ではなかった。


王宮役人の声が硬くなる。


「何を知っている」


「知りたいなら、白壁に聞け」


「あなたに聞いています」


「なら答えは同じだ」


レオンは顔を上げた。


「その音を、口にするな」


祈り役の眉が動く。


「なぜです」


レオンは黙った。


その沈黙は長かった。


答えを探しているのではない。


答えを捨てている沈黙だった。


王宮役人が後ろを振り向く。


「首枷を」


入口に立っていた塔番が動いた。


黒い革に古い金具のついた首枷が、布に包まれて運ばれてくる。


アスターの胸の奥が冷えた。


あれを嵌めれば、レオンはまともに話せなくなる。


昨日、王宮はそう判断して首枷を戻さなかった。


それでも今は使おうとしている。


聞き出すためではない。


黙らせるために近い。


塔番が近づく。


レオンは逃げなかった。


むしろ、顎を少し上げた。


「嵌めろ」


王宮役人が目を細める。


「強がりですか」


「喋らずに済む」


祈り役が手を上げた。


塔番の足が止まる。


「待ちなさい」


部屋の中で、誰も動かなかった。


祈り役はレオンを見ていた。


その目には怒りがある。


だが、それ以上に、分からないものを見る怖さがあった。


「あなたは、その『リ』を恐れているのですか」


レオンは答えない。


「それとも、守っているのですか」


レオンの指が、手枷の鎖を握った。


金具が小さく鳴る。


それだけだった。


アスターは、レオンの口元を見ていた。


名を言わない。


この男は、人を名で呼ばない。


最初からそうだった。


アスターを騎士と呼ぶ。

カイルを記録役と呼ぶ。

ロランを門番と呼ぶ。


冷たいからではない。


アスターは、そう思い始めていた。


呼ばないのではない。


呼べないのではないか。


「アスター・ヴェイン」


王宮役人が言った。


「あなたは、北門でこの者が何に反応したと思いますか」


アスターは答えなかった。


ここで推測を言えば、また記録にされる。


言葉は、王宮の机の上で別の形に変わる。


昨日、それを見たばかりだった。


「分かりません」


アスターは言った。


王宮役人は不満そうに目を細めた。


「それでも騎士団の報告者ですか」


「分からないことを、分かったとは書けません」


レオンがわずかに笑った。


「いい子だ」


アスターは睨む。


「黙れ」


「今は褒めたんだが」


「余計に黙れ」


祈り役が溜息をついた。


「今日はここまでにしましょう」


王宮役人が不満を示す。


「まだ何も得ていません」


「無理に言わせれば、言葉だけが壊れます」


祈り役はレオンから目を離さない。


「それに、この者は言いません」


「なぜそう思うのです」


「首枷を恐れなかった」


祈り役の声は低かった。


「黙るためなら、壊れることも選ぶ者です」


レオンは何も言わない。


図星なのか、違うのか。


アスターには分からなかった。


尋問は終わった。


終わっただけで、解かれたわけではない。


塔番はレオンを立たせた。


「部屋へ戻します」


王宮役人はアスターを見た。


「あなたも行きなさい。戻されるまで見届けるように」


アスターは頷いた。


レオンは塔番に囲まれて廊下へ出た。


アスターもその後に続く。


「お前も来るのか」


レオンが言った。


「命令だ」


「見張りの間違いだろう」


「どちらでもいい」


「よくない。見張りは退屈だ。命令ならもっと退屈だ」


「黙って歩け」


レオンは少し笑った。


廊下の壁には、白い塗料が厚く重ねられている。


途中、剥がれたところから古い傷が見えた。


爪で削ったような跡。

何かを書こうとして、上から消された跡。


アスターは足を止めかけた。


だが、塔番が先に進む。


レオンは何も言わない。


一番奥の部屋の前で、塔番が鍵を開けた。


扉には番号だけが刻まれている。


名前はない。


中は狭かった。


寝台。

水差し。

小さな机。

高い位置にある窓。


窓には細い鉄格子が入っている。


外の白壁は見えない。


見えないように作ってあるのだと、アスターはすぐに分かった。


レオンは部屋に入るなり、寝台に腰を下ろした。


手枷の鎖が木枠に当たり、乾いた音を立てる。


その拍子に、寝台の横の壁から白い塗料が少し落ちた。


アスターは、そこを見た。


塗料の下に、古い傷があった。


寝台の金具が届く高さに、同じ傷がいくつも刻まれている。


リ。


そう読める傷だった。


リ。


リ。


リ。


何度も、何度も。


途中で削るのをやめたような浅い傷。

途中から上塗りされた傷。

爪ではなく、金具か石で刻んだ傷。


アスターは息を止めた。


レオンが静かに言う。


「見るな」


「これは何だ」


「傷だ」


「誰の名だ」


「名じゃない」


「なら、なぜ何度も刻んだ」


レオンは答えない。


アスターは壁の傷から目を離せなかった。


北門で聞こえた「リ」。

王宮で口にした「リ」。

この塔の壁に、何度も残された「リ」。


偶然ではない。


「その先を、言えないのか」


アスターは言った。


レオンの目が、初めてまっすぐにアスターを向いた。


その目に、怒りはなかった。


ただ、底の見えない疲れがあった。


「お前はよく名を呼ぶな、騎士」


「必要だからだ」


「いつか、覚えきれなくなる」


「答えになっていない」


「答えを聞きたいなら、自分で口にしてみろ」


レオンは壁の傷を見た。


「ただし、名は音だけじゃない」


「どういう意味だ」


「名を口にすれば、入ってくる」


「何が」


「その名を持っていた者の記憶だ」


部屋が静かになった。


レオンは手枷の鎖を握ったまま、続けた。


「自分のものじゃないものが、頭の中に残る。見たことのない部屋。知らない声。誰かを待っていた夜」


そこで言葉を切る。


それ以上は言わなかった。


アスターは黙った。


「だから、名を呼ばないのか」


レオンは答えなかった。


答えないことが、答えに近かった。


アスターは壁の傷を見た。


リ。


そこから先を書かなかった名。


口にできない名。


「その者は生きているのか」


アスターは聞いた。


レオンは答えない。


「死んでいるのか」


やはり答えない。


「忘れたのか」


レオンの手が動いた。


手枷の鎖が鳴る。


「忘れられたら、楽だった」


それだけ言って、レオンは寝台に背を預けた。


アスターは、それ以上聞けなかった。


聞けば、何かを踏み抜く。


そう分かった。


塔番が扉の外から声をかける。


「時間です」


アスターは部屋を出ようとした。


そのとき、廊下の奥が少し騒がしくなった。


足音。

衣擦れ。

誰かが小声で道を開ける。


若い侍女が、祈り役に何かを告げていた。


「明朝、聖女ミレイア様が白壁の前に立たれます」


その名が出た瞬間、レオンの目が壁から離れた。


アスターはそれを見た。


「聖女ミレイア」


アスターは小さく繰り返した。


レオンの手枷が、低く鳴った。


「……その名を、白壁の前に立たせるのか」


声は低かった。


北門で「渡すな」と言ったときよりも、さらに低い。


アスターは息を呑む。


壁に刻まれた「リ」。


壁の外から聞こえた「リ」。


そして、聖女ミレイアという名に反応したレオン。


まだ、何もつながっていない。


だが、同じ部屋の中で、別々だったものが少しだけ近づいた気がした。


アスターは廊下へ出た。


扉が閉まる。


鍵が回る。


番号だけの扉の向こうで、鎖が一度だけ鳴った。


その夜、アスターは控えを開いた。


王宮で消された言葉の下に、新しく書く。


幽閉塔。

黒き王子、人の名を呼ばず。

塔の内壁に同じ傷。


筆先が止まる。


リ。


それを書くかどうか、迷った。


書けば、王宮の記録に取られるかもしれない。

書かなければ、また何かが消えるかもしれない。


アスターは紙を見つめた。


北門で消された言葉。

王宮に渡さなかった記録。

塔の壁に残された「リ」。


名前には届いていない。


それでも、なかったことにはできなかった。


アスターは小さく書いた。


リ。


それ以上は書かなかった。


窓の外には、王宮の白い屋根が見える。


その向こうに、白壁がある。


そしてさらに外には、霧がある。


レオンは何を聞いたのか。


誰の名を、口にできなかったのか。


聖女ミレイアの名に、なぜあんな顔をしたのか。


アスターには、まだ分からない。


ただ一つだけ分かる。


レオンが名を呼ばないのは、人を見ていないからではない。


見すぎているからだ。


そう思った瞬間、アスターは自分の控えを閉じた。


遠くで夜の鐘が鳴った。


今度の鐘は、切れていなかった。


だが、その音は、どこか誰かを呼ぶ声に似ていた。

第7話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、幽閉塔とレオンの話でした。

北門で聞こえた「リ」。

それを口にしたときのレオンの反応。

そして、塔の壁に何度も刻まれていた同じ傷。


レオンはこれまで、人を名前で呼びませんでした。

それは冷たいからなのか。

それとも、呼べない理由があるのか。


今回で少しだけ、その理由の端が見えたかもしれません。


一方で、聖女ミレイアの名も出てきました。

白壁の前に立つ聖女。

その名に反応したレオン。

まだ何も明かされてはいませんが、白壁とレオン、そしてミレイアの間には、何かが残っているようです。


次話では、白壁の前に立つ聖女ミレイアへと話が進みます。

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