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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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6/14

第6話 消された言葉


北門で起きた異変は、夜が明けても終わってはいませんでした。


白壁に背を向けた民。

互いの名を呼び返した者たち。

そして、王宮へ届けられる報告書。


白壁を疑うことは、この国では罪に近い。

それでもアスターは、北門で見たことを、なかったことにはできませんでした。


夜明けを告げる鐘は、鳴らなかった。


鳴らせなかったのではない。


門番たちは、切れた鐘綱の下で、ただ互いの顔を見た。


北門は閉じている。

かんぬきも落ちている。


白壁は、まだ白い。


だが、門番の一人が白壁に立てかけていた槍を取りに行こうとして、途中で足を止めた。


手を伸ばしかける。

やめる。


それから、壁から離れた場所に置かれていた予備の棒を取った。


誰も笑わなかった。


門前には、まだ民が残っている。


荷車の横で眠る者。

子どもを抱いたまま座り込む者。

壁を見ないよう、建物の影に顔を向けている者。


老人が白壁へ手を合わせかけた。


いつもの癖だったのだろう。


だが、胸の前で止めた。

指を組み直し、隣に座る娘の肩を抱いた。


朝の冷えた空気の中で、誰かが小さく名を呼んだ。


「ハンナ・リース」


「いるよ」


魚屋の女が答える。


「メイ・ロウ」


「います」


香草店の女が答える。


それだけだった。


ただ名前を呼び、返事をする。


だが、その声が途切れないかぎり、門前にいる者たちは昨日より少しだけ息ができた。


アスターは北門詰所の机に向かっていた。


眠っていない。


椅子の背に外套をかけ、机の上に紙を三つ並べている。


一つ目は、王宮へ出す報告書。


二つ目は、カイルが北門で書いた記録。


三つ目は、アスター自身の控えだった。


カイルの記録には、呼び返した名が並んでいる。


壁の字は写していない。


呼ばれた名。

呼んだ者。

返事をした者。

壁に浮いた名が、そのあとどうなったか。


カイルはその紙束を外套の内側に入れて、両腕で抱えていた。


雨も降っていないのに、紙が濡れるのを恐れているようだった。


紙の一枚には、こうある。


ハンナ・リース。

呼び手、北通りの魚売り三名。

本人、返事あり。

壁に浮いた名、深くならず。


別の行には、メイ・ロウ。


その下には、ロラン・グレイ。


名だけではない。


誰が呼んだか。

誰が返事をしたか。

壁に浮いた名が、深くなったか、薄れたか。


それは名簿ではなかった。


誰かが誰かを呼び、呼ばれた者が「いる」と返した記録だった。


北門で名を踏みとどまらせたのは、白壁ではない。


その場にいた者たちの声だった。


アスターは、その紙だけは報告書と同じ机に置かなかった。


王宮へ出す紙ではない。


北門にいた者たちの紙だった。


「隊長」


カイルが言った。


「本当に、このまま書くんですか」


アスターは筆を止めない。


「どこをだ」


「ここです」


カイルは提出用の報告書を指した。


そこには、こう書かれている。


北門脇の白壁に異状あり。


アスターはその一行を見た。


昨日、白壁に浮いた自分の名を思い出す。


見てはいない。


だが、そこにあったことは分かる。


見たかった。


確かめたかった。


あの衝動は、まだ喉の奥に残っている。


「見たことを書く」


アスターは言った。


「俺は全部を見ていません」


「お前は読んだ者の声を聞いた。返事も書いた。それでいい」


「でも、王宮は嫌がります」


「だろうな」


カイルは黙った。


詰所の外では、ロランが門番たちを怒鳴っている。


「槍を壁に立てかけるな! 昨日何を聞いていた!」


声はいつも通り大きい。


だが、ロラン自身も白壁の正面には立っていなかった。


門番たちの側を向き、壁を視界の端に追いやっている。


アスターは報告書の末尾に、自分の名を書いた。


アスター・ヴェイン。


名を書き終える直前、筆先がわずかに重くなった。


名は軽くない。


昨日、それを思い知らされたばかりだった。


扉が叩かれた。


ロランが入ってくる。


顔色が悪い。


「王宮から使いです」


「早いな」


「夜明け前に早馬が出たようです。こちらの報告より先に、噂だけが届いています」


アスターは筆を置いた。


「何と」


「北門で民に白壁へ背を向けさせた。黒き王子が現場にいた。白灰が使われた。そこまでは」


ロランは言いにくそうに続けた。


「それと、黒き王子を連れてこいと」


詰所の隅に、レオンが座っていた。


椅子ではない。

壁から離した木箱の上だ。


首枷は戻されていない。


代わりに、手枷だけが戻されていた。


あの首枷を嵌めれば、レオンはまともに答えられない。

王宮は、責めるだけでなく、聞き出すつもりでもいるらしい。


レオンは手枷の鎖を指先で鳴らした。


「朝から呼び出しか。白い連中は寝起きが悪そうだな」


「立て」


アスターが言う。


「命令か」


「命令だ」


「なら聞かない、と言いたいところだが」


レオンはゆっくり立ち上がった。


「王宮が俺を呼ぶ理由くらいは分かる」


ロランが眉をひそめる。


「何だ」


「罪の置き場が欲しいんだろう」


レオンは笑った。


「便利な黒が、ちょうどここにいる」


王宮へ向かう道は、表通りではなかった。


北門の脇道を抜け、倉庫裏を通り、白い石塀に沿って進む。


それでも、噂は先に走っていた。


戸口に立つ者たちは、通り過ぎる騎士たちを見て、すぐに目を伏せる。


ただ、耳だけは向けている。


「白壁に背を向けたんだって」


「騎士団が命じたらしい」


「罰が当たるぞ」


「でも北門の人たちは消えなかった」


「黒き王子がいたんだろう」


「やっぱり、あいつが」


噂は、石畳の隙間を水のように走っていた。


アスターは何も言わない。


レオンも黙っている。


ただ、王宮の通用門が見えたとき、レオンがぽつりと言った。


「いい朝だ」


「どこがだ」


「白いものが、全部塗り直したてに見える」


アスターは答えなかった。


王宮の中は、北門とは違う白さだった。


磨かれた床。

白い柱。

白い布。


その隅に、古い蝋の跡が残っている。

柱の根元だけは、靴の泥で薄く灰色になっていた。


白く見せるために、何度も拭かれた場所。


そう思うと、アスターは息苦しくなった。


通された部屋には、王宮の者たちが並んでいた。


年配の祈り役。

王宮の記録官。

騎士団の副長。

王の文書を扱う役人。


王はいない。


代わりに、机の中央には王印の入った封蝋が置かれていた。


白い封蝋ではない。


古い象牙色だった。


指で触れられた縁だけが、少し黒ずんでいる。


それだけで、この部屋の言葉は王の近くに届く。


アスターは報告書を差し出した。


カイルは扉の脇に立たされた。


入室は許されたが、机には近づけなかった。


北門の記録を、外套の内側に抱えている。


レオンはアスターの少し後ろに立っていた。


手枷の鎖が、かすかに鳴る。


最初に口を開いたのは、祈り役だった。


顔は厳しいが、悪意の色は薄い。


ただ、ひどく疲れて見えた。


「北門で、民に白壁へ背を向けさせたそうですね」


アスターは答えた。


「はい」


部屋の空気がわずかに動く。


祈り役は目を伏せた。


「それがどういう意味を持つか、分かっていますか」


「分かっています」


「いいえ」


祈り役は静かに首を振った。


「白壁が疑われれば、明日から民はどこに祈ればよいのです」


誰も笑わなかった。


アスターは答えを探した。


正しい言葉はすぐに出てこない。


「北門では、白壁にすがった者が名を失いかけました」


「名を失いかけた、とあなたは書く」


祈り役は報告書に目を落とした。


記録官が横から手を伸ばし、紙を引き寄せた。


細い指だった。


爪の際が白くなっている。


記録官は一度、筆を止めた。


それから祈り役の顔を見る。


祈り役は何も言わない。


記録官は目を伏せ、赤い線を引いた。


北門脇の白壁に異状あり。


その一行の上に。


アスターの顎が固くなる。


記録官は線の横に、小さく書き込んだ。


北門前の混乱。


「混乱だけではありません」


「混乱はありましたね」


王宮役人が言った。


声は丁寧だった。


丁寧すぎて、冷たい。


「民が押し合い、鐘綱が切れ、黒き王子が現場にいた」


「黒き王子は原因ではありません」


「原因とは言っていません。民の動揺を大きくした要素として、報告に残すだけです」


レオンが小さく笑った。


「うまいな」


誰も相手にしない。


アスターは報告書を見た。


自分の書いた言葉が、少しずつ別の形に変えられていく。


白壁に異状あり。

北門前の混乱。


白壁に名が浮いた。

名に似たものを一部確認。


白灰が効かなかった。

白灰の使用に効果確認できず。


民に白壁へ背を向けさせた。

避難誘導のため、一時的に方向を変えた。


赤い線が増えていく。


紙の上で、言葉が薄くなる。


昨夜、北門で起きたことを思い出した。


名が浮かび、呼ばれなければ濃くなる。


ここでは逆だった。


見たことが、書かれなければ薄くなる。


「すべて消すつもりですか」


アスターが聞いた。


祈り役は顔を上げる。


「消しているのではありません。整えているのです」


「整えれば、起きたことは変わるのですか」


「民に見せる言葉と、王宮に納める言葉は違います」


アスターは黙った。


王宮役人が報告書を指で押さえる。


「あなたは現場でよく動いた。そこは認めましょう。ですが、白壁への信を揺るがす語は残せません」


騎士団副長が低く言った。


「アスター」


久しぶりに、上官の口から名を呼ばれた。


責める声ではない。


だが、庇う声でもない。


「見たことを、見たままに書くな。お前一人の紙ではない」


アスターは副長を見た。


副長の目は、わずかに机の下を向いていた。


そこには、副長の握った拳がある。


アスターは理解した。


この人は止めたいのではない。

これ以上踏み込ませたくないのだ。


生き残らせるために。


それでも、アスターは頷けなかった。


自分の名は、報告書の末尾に残っている。


だが、その上に並ぶ言葉は、もう自分のものではなくなりかけていた。


「白壁が何かは、俺にも分かりません」


アスターは言った。


「ですが、北門で起きたことを、混乱だけで片づけることはできません」


祈り役は目を閉じた。


「では、こうしましょう」


その声は、怒りよりも疲れに近かった。


「呼び返した名の記録を、こちらへ預けなさい」


カイルの肩が跳ねた。


アスターは振り向かなかった。


「何のために」


「祈り役が預かります」


祈り役は静かに言った。


「北門で名を失いかけた者たちの名を、白壁の前で読み上げます。祈りの中で名が戻ったと示せば、民も落ち着くでしょう」


「白壁が戻したことにするのですか」


アスターの声は、自分でも思ったより低かった。


祈り役の眉がわずかに動く。


「白壁は民を見捨てていない。そう示すのです」


部屋の空気が、重くなった。


祈り役は悪意で言っているのではない。


本気でそう信じている。


白壁が疑われれば、民は祈る場所を失う。

民が祈る場所を失えば、王都は割れる。


だから北門の出来事を、白壁の前に戻さなければならない。


アスターは、カイルの抱える紙束を見た。


そこにあるのは、壁の字ではない。


誰が誰を呼んだか。

誰が返事をしたか。

そのあと、壁に浮いた名がどうなったか。


北門で名を踏みとどまらせたのは、白壁ではなかった。


壁を見せなかったこと。

白壁から引き離したこと。

周りが名を呼び返したこと。


それを白壁の前で読み上げれば、次は逆になる。


名を失いかけた者を、白壁の前へ連れて行く。

名を読み上げる。

白壁に戻してもらう。


助けるつもりで、危ない場所へ戻すことになる。


王宮役人がカイルを見た。


「原本でなくとも構いません。写しを取ればよい。王宮には写しを出しなさい」


アスターは首を振った。


「写しでも同じです」


「何が同じなのです」


「名が白壁の前へ戻されます」


王宮役人の眉が動いた。


「言い過ぎです」


「いいえ」


アスターは言った。


「その紙にあるのは、白壁を見せず、人の声で呼び返した記録です」


王宮役人の声が硬くなる。


「アスター・ヴェイン。北門の記録を提出しなさい」


また、名を呼ばれた。


昨日は白壁に出た名だった。


今は人の口から出た名だ。


命じるための名。

縛るための名。


それでも、自分の名だった。


カイルは動かなかった。


唇だけが震える。


アスターを見る。


その一瞬、レオンが低く言った。


「渡すな」


誰もすぐには反応しなかった。


あまりに短い声だった。


だが、アスターには聞こえた。


レオンの言葉で決めたわけではない。


ただ、その一言で、腹が決まった。


アスターはカイルの前に立った。


「提出しません」


部屋が静まり返る。


祈り役が問う。


「理由を」


「次に同じことが起きたとき、民を白壁の前へ戻す手順にされたくありません」


アスターは言った。


「北門で助かった者たちは、白壁に名を戻してもらったのではありません。互いに呼び返したんです」


それ以上は言わなかった。


カイルが紙束を握りしめた。


白くなるほど強く。


騎士団副長が息を吐いた。


祈り役は、しばらくアスターを見ていた。


その顔には怒りもある。


だが、恐れもあった。


「白壁が疑われれば、王都は割れます」


「もう割れています」


アスターは答えた。


「北門で、民は白壁に背を向けました」


祈り役は何も言わなかった。


会議は終わらなかった。


だが、結論は少しずつ決まっていった。


提出用の報告書からは、「白壁に異状あり」という語が消される。


「白壁に名が浮いた」は、「名に似たものを一部確認」に改められる。


「白灰が効かなかった」は、「白灰の使用に効果確認できず」とされる。


「民が白壁に背を向けた」は、「避難誘導のため一時的に方向を変えた」と書かれる。


黒き王子が現場にいたことは、残される。


そこだけは、赤い線が引かれなかった。


アスターは、それを止められなかった。


止められなかったことを、覚えていた。


代わりに、カイルの北門記録は渡さなかった。


原本も。


写しも。


呼び返した名。

返事。

呼び手。

壁に浮いた名が薄れた時刻。


それだけは、王宮の机に置かなかった。


アスターへの処分は、その場では下らなかった。


その場で罰を下せば、王宮もまた、北門でただの混乱ではない何かが起きたと認めることになる。


だから罰は保留された。


ただし、北門対応の正式指揮からは外される。


今後は王宮の監督下で、再報告を命じられる。


レオンは幽閉塔へ戻す。


手枷はそのまま。


首枷は戻さない。


白壁の外から聞こえた一音について、別に尋問する。


そう告げられた。


部屋を出ると、廊下の白さが目に刺さった。


カイルはまだ紙束を抱えていた。


「隊長」


「何だ」


「守れたんでしょうか」


アスターはすぐには答えられなかった。


提出用の報告書は削られた。


白壁に異状あり、という言葉は消された。


黒き王子の名は残された。


それでも、カイルの腕の中には、北門の声が残っている。


「全部ではない」


アスターは言った。


「でも、その紙は守った」


カイルは小さく頷いた。


「はい」


背後で、鎖が鳴る。


レオンが歩いてくる。


「そんな顔をするな、騎士」


「していない」


「している」


「うるさい」


レオンは笑わなかった。


アスターは足を止めた。


「昨日の声は誰だ」


レオンの足も止まる。


廊下の空気が冷えた。


「壁の外から聞こえた、あの一音だ」


レオンは答えない。


アスターは、ためらってから口にした。


「……リ」


レオンの目が細くなる。


「呼ぶな」


「名ではないと言っただろう」


「名でなくても、残るものはある」


レオンの手が動いた。


昨日の鉤棒を探すように。


だが、ここにはない。


彼は何も握れず、ただ手枷の鎖を握った。


金具が、低く鳴った。


アスターはそれを見た。


この男は知っている。


だが、まだ言わない。


言えないのか。

言いたくないのか。

それとも、言えば誰かが落ちるのか。


分からない。


その夜、アスターは北門詰所に戻った。


王宮で朱を入れられた写しには、まだ赤い線の跡が残っている。


削られた言葉。

置き換えられた言葉。

残された黒き王子の名。


アスターは自分の控えを開いた。


提出用には残らない。


王宮の記録にも、そのままでは残らない。


それでも、北門で起きたことが消えたわけではない。


アスターは筆を置き、王宮で消された言葉をもう一度書いた。


白壁の異変。


筆先が震えた。


それでも、消さなかった。


その下に、小さく書き足す。


北門の民、白壁に背を向ける。

互いの名を呼び返す。

北門の記録は渡さず。


それだけで筆を止めた。


窓の外には、遠く白壁が見える。


朝よりも暗い白だった。


塗り重ねられた白。


その下に何があるのか、アスターにはまだ分からない。


ただ、白いままには、もう見えなかった。


第6話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、北門の異変そのものではなく、その後に残される「記録」の話でした。

白壁に何が起きたのか。

誰が誰の名を呼び返したのか。

そして、それをどんな言葉で残すのか。


同じ出来事でも、書き方ひとつで意味が変わってしまう。

アスターが守ろうとしたのは、名そのものだけではなく、次に誰かを助けるための記録でもありました。


一方で、王宮もただ悪意だけで動いているわけではありません。

白壁への信頼が崩れれば、王都そのものが揺らぐ。

だからこそ、見たことをそのまま残すことが難しくなっていきます。


消された言葉。

残された記録。

そして、壁の外から聞こえた一音。


次話では、レオンが知っているものに、少しずつ近づいていきます。

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