表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/13

第5話 北門の白壁

処刑台の下、北通りの井戸、そして北門へ。


白い溝を追ってたどり着いた先には、王国を守るはずの白壁がありました。

けれど、そこに集まった人々は、もう白壁をただ信じることができません。


外へ逃げたい者。

門を開けるなと叫ぶ者。

白壁にすがろうとする者。


北門の前で、白壁は初めて「守り」ではない顔を見せ始めます。



北門の鐘は、三度目で音が割れた。


一度目は、低く響いた。


二度目は、石壁にぶつかって返ってきた。


三度目で、鐘の縁が欠けた。


かすれた音が、北通りの上を走る。


鐘楼の上では、若い門番がまだ鐘綱を握っていた。

鳴らすたびに、割れた音が街へ落ちる。


アスターが北門に着いたとき、門前の広場は人で埋まっていた。


荷車。

粉袋。

鳥籠。

毛布を抱えた老人。

剣を持たない商人。

戸板を引きずる男。


外へ出せと叫ぶ者がいる。

開けるなと怒鳴る者がいる。

荷物を抱えたまま、どちらへ逃げればいいのか分からず立ち尽くす者もいた。


白壁の内側にいれば守られる。


そう信じてきた者たちが、今はその白壁の前で押し合っている。


門の脇には、馬止めの柵と、修理用の戸板が積まれていた。

予備の槍も、門番詰所の壁にまとめて立てかけられている。


黒い鉄の門。


その先に外がある。


白壁の外。

名喰いの霧がある場所。


「開けろ!」


誰かが叫んだ。


「この中にいたら食われる!」


「馬鹿、外は霧だぞ!」


「白壁が割れたんだろう!」


「開けたら霧が入る!」


「じゃあ、どこへ行けっていうんだ!」


門番たちは、北門の大扉の前で槍を横にしていた。


門の両側には、白い壁が続いている。


遠くから見れば、白壁はただ白かった。


だが、近くで見ると違った。


白い石は、何度も塗り直されている。


古い白の上に、新しい白。

その下に、さらに別の白。


特に濡れている場所があった。


北門の脇。

門番の勤務名簿を掲げる板が据えられているあたり。


人が手を置き、額をつけ、祈る高さだった。


そこだけ、白が乾いていない。


石の継ぎ目から、灰色の水が細くにじんでいる。


アスターは息を止めた。


中央広場の溝。

北通りの井戸。


そのどちらとも違う。


ここでは、白壁全体ではなく、壁に触れる高さだけが濡れている。


「下がれ!」


アスターが叫んだ。


民衆が振り向く。


その中に、レオンを見つけた者がいた。


ざわめきが広がる。


「黒き王子だ」


「またあいつが」


「こいつを門の外へ出せ!」


「殺せば止まるんじゃないのか!」


石を握った男がいた。


アスターは、その前に立つ。


「投げるなら俺に投げろ」


男の手が止まった。


レオンは笑った。


「人気者だな、騎士」


「黙っていろ」


「俺に石を投げる前に、白壁の前で何が起きているか見ろ。向こうの方がよほど食い意地が悪い」


アスターは白壁の方へ目を戻した。


民の何人かが、門脇の濡れた石に手を当てていた。


白い壁に額を寄せ、名を守ってくれと口の中で繰り返している。


「壁から離れろ!」


アスターが叫ぶ。


祈っていた女が顔を上げた。


「白壁から離れろですって?」


「ここにいれば守られるんだろう!」


「王都は白壁の内側だから助かるんだ!」


「離れろ」


レオンが言った。


声は大きくない。


だが、近くにいた者たちには届いた。


「白いものにすがれば清い気分になるのか。安いな」


女の顔が怒りに染まる。


「あなたに何が分かるの!」


「分かるさ」


レオンは、女の手元を見た。


「近すぎる」


ロランはその者たちを引き離そうとして、さっきから片手を壁についていた。

濡れていない場所を選んでいたつもりだった。


だが、人波が押された。


ロランの手が滑る。


手のひらが、門脇の低い濡れた石に重なった。


「ロラン!」


門番の一人が叫んだ。


男は自分の手を見た。


手のひらが白く濡れている。


「俺は……」


声が途切れた。


「俺は、誰だ」


女が悲鳴を上げた。


アスターが駆け寄る。


「誰か、この男の名を知っているか!」


「ロランだ!」


門番の一人が叫んだ。


「ロラン・グレイ! 北門の門番長!」


アスターは男の肩を掴む。


「ロラン・グレイ!」


男の目が揺れる。


「北門の門番長。夜番のくせに朝の鐘まで鳴らす。部下の槍の手入れにうるさい。言え、ロラン!」


男の唇が震えた。


「ロラン……グレイ」


「復唱!」


「ロラン・グレイ!」


「北門の門番長!」


「槍の手入れにうるさい!」


「鐘の鳴らし方が下手!」


「今それを言ったのは誰だ!」


ロランが怒鳴った。


声が戻る。


民の間に、小さな笑いが漏れた。


その笑いと同時に、男の手から白い濡れが引いていく。


レオンは白壁を見たまま言った。


「長く触れた者から抜かれる。祈るなら口だけにしろ。手も額もいらない」


「拝ませるな」


アスターが言う。


「なら、やめさせろ」


「お前が煽るな」


「煽らなくても燃えている」


北門の脇には、古い掲示板があった。


白壁そのものではない。

門番詰所の柱に据えられた木枠だ。


そこには、門を守る者の名が書かれている。


門番長。

夜番。

鐘番。

馬止め係。

荷改め係。


名前がずらりと並んでいたはずだった。


今は、壁に近い側の行から、白く抜けている。


若い門番が板を見た。


「俺の名が……」


アスターが止めるより早く、門番は一歩近づいた。


板の空白へ手を伸ばす。


「触るな!」


アスターが叫ぶ。


だが、門番の手は止まらなかった。


そのとき、レオンが足元の小石を蹴った。


石は門番の手首に当たった。


「痛っ!」


「手があるうちに感謝しろ」


レオンが言った。


門番は怒りで振り向きかけた。


だが、すぐに自分の指先を見て青ざめる。


爪の先が、白く濡れていた。


アスターは門番たちに命じた。


「掲示板の勤務名簿を写せ。これは壁の字じゃない。門番側の記録だ。外すのはそのあとだ」


門番の一人が板へ手を伸ばしかける。


「素手で触るな。槍の柄を使え。釘は起こすだけでいい。まずは紙に写せ」


「はい!」


レオンが言った。


「壁側の字から抜けている。急げ」


門番たちが凍りつく。


「この板も、食われているのか」


「見れば分かるだろう」


アスターはロランを見た。


「お前の名で命じろ」


ロランは唇を噛んだ。


「北門門番長、ロラン・グレイの名で命じる。掲示板の勤務名簿を写せ。壁には触れるな」


門番たちが動いた。


紙が広げられる。

槍の柄で板が押さえられる。

白く抜けかけた字を、急いで写していく。


民衆はまだ白壁から離れない。


恐れているくせに、近づこうとする。


「離れたら霧に食われる!」


「壁のそばにいれば助かる!」


「白壁は守ってくれるものだろう!」


アスターは門前の石段に上がった。


剣は抜かない。


抜けば、民は白壁ではなく自分を見てしまう。


今必要なのは、脅すことではなかった。


「聞け!」


声が広場を打つ。


「民は壁を見るな。触れるな。額をつけるな。自分の名が壁に見えても、確かめに行くな」


「自分の名が?」


誰かが震えた声で言った。


次の瞬間、門脇の濡れた石に文字が浮かんだ。


薄い字だった。


白の上に、さらに白い線で書かれている。


場所は高い壁全体ではない。


人が手を置く高さ。

掲示板の横。

さっきロランの手が重なった濡れた石だ。


そこに、湿った文字が浮いた。


――ハンナ・リース


北通りから追ってきた魚屋の女が、息を呑んだ。


「私の名だ」


アスターが振り向く。


「見るな!」


だが、ハンナの足が一歩、壁へ出た。


「私の名が、壁に」


ハンナは自分の胸に手を当てた。


「私は……」


その先が出なかった。


濡れた石の文字が、少し濃くなる。


ハンナの唇が震えた。


「あれ、私の……」


「ハンナ・リース!」


アスターが叫んだ。


北通りの者たちが続いた。


「ハンナ・リース!」


「ハンナ魚店!」


「魚は高いが腐らせない!」


「うるさい!」


ハンナは怒鳴り、胸を押さえた。


その声で、濡れた石の文字が滲む。


消えたわけではない。


だが、濃くなるのは止まった。


アスターは歯を食いしばる。


見せてはいけない。


本人が、自分の名はあそこにあると思った瞬間、名は口から離れる。


なら、周りが先に呼ぶしかない。


レオンが低く言う。


「安物の餌に釣られるな、魚屋」


ハンナの眉が跳ねた。


「誰が魚だ!」


「戻ったな」


ハンナははっとして足を止める。


「白灰は!」


ニコルが叫んだ。


マルクが、小さな袋を差し出す。


中央広場から持ってきたものだった。

処刑台の下の裂け目を押さえた灰だ。


アスターはすぐに頷いた。


「少しだけだ。濡れた石へ撒け」


マルクが白灰をつまみ、門脇の濡れた石へ振った。


灰は白いまま積もらなかった。


石に触れた瞬間、灰色に濡れた。

ひびへ入り込むこともなく、薄く広がって、すぐに流れる。


濡れた石の白い線は、消えない。


むしろ、灰に縁をなぞられて、浮いた字の跡だけが見えやすくなった。


「下げろ」


レオンが言った。


「何がだ」


「灰だ。撒くな」


アスターはレオンを睨む。


「中央広場では効いた」


「そこには裂け目があった」


レオンは、濡れた石を見ている。


「ここは穴じゃない。灰で塞ぐ口がない」


「なら、これは何だ」


「見れば分かる。穴じゃない。壁の表に出ている」


アスターは息を呑んだ。


中央広場の裂け目なら、白灰で押さえられた。


だが、ここは違う。


白灰は蓋にならない。

濡れた石の上で、名の跡をかえって目立たせるだけだった。


「灰を下げろ」


アスターは命じた。


「撒くな。袋ごと離せ」


マルクが青い顔で頷く。


「はい」


レオンが言う。


「塞げない。なら、本人に見せるな。触らせるな」


アスターは白壁を見ないようにして、民衆へ向き直った。


「全員、白壁に背を向けろ!」


民衆がざわめいた。


「白壁に背を向けるだと?」


「罰が当たる!」


「不敬だ!」


「不敬で済むなら安い」


レオンが言った。


「罰と名落ち、好きな方を選べ」


アスターはレオンを睨んだが、否定はしなかった。


「白壁に背を向けろ!」


アスターはもう一度叫んだ。


「自分の名を見るな。見るのは決めた者だけだ。壁に誰かの名が出たら、本人ではなく周りが読む。本人は壁を見るな」


「そんなことできるか!」


「できなければ落ちる!」


広場が静まった。


アスターは門番たちへ命じる。


「ロラン、民を二列にしろ。壁に背を向けさせる。顔を見合わせろ」


「はい!」


「仕切りを作る。白壁から五歩離せ。荷車を横にしろ。戸板を立てろ。予備の槍を支柱にして縄を張れ。門番の槍は残せ」


ロランが頷く。


「荷車、こちらへ! 戸板を持て! 予備槍を使え! 持ち場の槍は離すな!」


門前にあった荷車が横にされる。

戸板が運ばれる。

予備の槍が支柱になり、縄が張られていく。


白壁全体を覆うものではなかった。


そんなことはできない。


仕切りは、民を壁へ近づけないためのものだった。

同時に、門脇の低い濡れた石だけを、民の目から切るためのものでもあった。


白壁と仕切りの間には、人が三人立てるほどの細い通路を残した。


そこに、セスとダンが入る。


カイルは仕切りのこちら側に膝をつき、紙を広げた。


「民は見るな。見る役だけが、一瞬見る」


アスターが言った。


「濡れた石に白い筋が出た時だけだ。名が浮いたら短く読む。読んだらすぐ目を外せ。長く見るな」


「はい!」


「カイル、壁の字を写すな」


アスターが言った。


「読む役が口にした名を書く。本人が返事をしたら、その返事も書け」


カイルが顔を上げる。


「壁の記録ではなく、こちら側の記録にするんですね」


「そうだ。呼ばれた名だけを書け」


「はい」


「カイルが確認しなければならない時は、セスかダンが紙を押さえろ。三人のうち誰かの名が出たら、本人は目を閉じて下がれ。残った者が読む」


セスが唾を飲んだ。


「いつまで、ですか」


アスターは白壁を見なかった。


「民が二十歩下がるまでだ。仕切りができて、誰も自分の名を確かめに走らなくなったら交代にする。次は年配の門番を二人入れろ」


レオンが低く言った。


「それでも消えはしない」


「分かっている」


アスターは答えた。


「今は、名を壁に奪わせないだけだ」


ロランが声を張った。


「北門門番長、ロラン・グレイの名で命じる! 壁を見るな! 手をつなげ! 隣の名を呼べ!」


仕切りの民側には、魚屋の濡れ布や粉袋が結ばれていく。


白壁を覆うには足りない。


だが、民衆の目から、門脇の濡れた石は見えなくなった。


ハンナが布を差し出す。


魚屋の濡れ布だった。


ロランが一瞬、顔をしかめる。


「魚臭いぞ」


ハンナが睨んだ。


「壁が嫌がるなら、ちょうどいいだろ」


そう言って、布を荷車の隙間に結ぶ。


レオンはそれを見て、わずかに口の端を上げただけだった。


魚屋の濡れ布。

粉屋の袋。

靴屋の革布。

門番の外套。


それらは白壁に掛けられたのではない。


荷車と戸板の隙間に結ばれた。

民の目から、濡れた白い石を隠すために。


民衆はまだ不安げだった。


それでも、壁に自分の名が浮くのを見た者から、布を差し出し始めた。


「これは亡き夫の外套だ。汚すなよ」


「名前を読んでから使います」


アスターが言う。


「夫の名は」


「バルド・ネイス。酒に弱くて、歌が下手で、私より先に寝る男だった」


「復唱!」


「バルド・ネイス!」


「歌が下手!」


「酒に弱い!」


「妻より先に寝る!」


女は泣きながら笑った。


「そう。そういう人だった」


外套が仕切りの隙間に結ばれる。


仕切りの壁側で、セスが息を呑んだ。


「名が出ます」


アスターは振り向かない。


「読め」


「メイ・ロウ!」


カイルが紙に書く。


ハンナがすぐに叫んだ。


「メイ・ロウ! サーラ香草店の店主!」


「香草を入れすぎる!」


メイが泣きながら答える。


「はい。メイ・ロウです」


白壁の名は、民には見えない。


それでも、声だけが返っていく。


「次!」


ダンが声を上げる。


「ロラン・グレイ!」


ロランは振り向かなかった。


「北門の門番長!」


門番たちが声を重ねる。


「鐘の鳴らし方が下手!」


「下手じゃない!」


ロランが怒鳴った。


その声で、仕切りの向こうの白い線は浅くなった。


消えはしない。


だが、それ以上深くもならない。


名が飛び交う。


白壁に背を向けたまま、人々は互いの顔を見た。


自分の名ではなく、相手の名を。


呼ばれた者は、返事をする。


「いる!」


「ここにいる!」


「まだいる!」


その声が重なっていく。


アスターは、ようやく一つ息をついた。


そのとき、門扉が鳴った。


どん。


内側からではない。


外側からだった。


人の拳ではない。

木槌でもない。


水を含んだ何かを、門の向こうから強く押しつけたような、鈍く湿った音だった。


民衆が息を呑む。


「何だ、今の音」


「外からだ」


「誰かいるのか?」


「人の音じゃないぞ」


誰も、正体を言えなかった。


黒い鉄の扉は閉じている。

かんぬきも落ちている。


霧が中へ入ってきたわけではない。


ただ、門の合わせ目が白く濡れていた。


その濡れた筋が、内側の石を伝って、門脇の白い壁へ伸びていく。


仕切りの向こうで、セスが息を呑む。


「名が出ます!」


「読め!」


セスが声を詰まらせた。


「ア……」


アスターの胸が冷えた。


次の文字を、ダンが読む。


「アス……」


レオンが振り向いた。


「騎士」


声が硬い。


アスターは壁を見ようとした。


レオンがその前に立つ。


「見るな」


「何が出た」


「見るなと言った」


「答えろ」


セスが青ざめた顔で言った。


「アスター・ヴェイン」


周囲の者たちが息を呑んだ。


アスターはまだ見ていない。


だが、空気で分かった。


自分の名が出ている。


「俺の名か」


誰も答えない。


レオンだけが言った。


「安い餌だ」


「お前の口から聞きたくない」


「なら、見るか」


アスターは歯を食いしばった。


見たい。


自分の名がそこにあるなら、確かめたい。


消える前に。


取られる前に。


その衝動が、足元からせり上がってくる。


白壁の方へ、一歩出そうになる。


「アスター・ヴェイン!」


マルクの声が響いた。


アスターの足が止まる。


「王国騎士団第一隊長!」


ニコルが続く。


「部下の名を忘れない人!」


ベンが叫ぶ。


「怒ると眉間にしわが寄る!」


「嘘をつくな!」


アスターは思わず怒鳴った。


その声で、足元の引きが弱まる。


民衆が一斉に叫んだ。


「アスター・ヴェイン!」


「白き騎士!」


「北通りで井戸を止めた!」


「中央広場で名を読ませた!」


「今、白壁に背を向けさせている!」


声が増える。


アスターは息を吐いた。


自分の名が、自分以外の口から戻ってくる。


奇妙な感覚だった。


軽くはない。


重い。


名は、責任の重さで戻ってくる。


レオンはアスターの前に立ったまま、仕切りの向こうを睨んでいる。


自分では、名を呼ばない。


それでも、退かない。


「呼び続けろ!」


アスターが叫んだ。


「俺だけじゃない! 壁に出た名は全部だ! 本人に見せるな! 周りが読む!」


カイルが筆を握り直す。


「呼び返した名、記録します!」


「書け!」


濡れた石に、次々と名前が浮かぶ。


ハンナ。

ロラン。

メイ。

知らない老人。

荷車の男。

門番の少年。


セスとダンが短く読む。

読んだら目をそらす。

カイルが、呼び返された名を書く。


本人の目を隣が覆う。

別の者が名を呼ぶ。


白い線は、名の形になる。


けれど、呼ばれた者が返事をすると、その輪郭は崩れた。


消えはしない。


それでも、深くはならない。


それは戦いには見えなかった。


剣も火もない。


ただ、人が人の顔を見て、名前を呼び合っているだけだった。


それでも、アスターの手は汗で濡れていた。


ふと、アスターは気づいた。


レオンの名は、浮かばない。


白い石にも。

仕切りの隙間にも。

濡れた文字の中にも。


それが、かえって嫌だった。


門扉がもう一度鳴る。


どん。


仕切りが大きく揺れた。


予備の槍が一本、倒れかける。


魚屋の濡れ布が裂ける。


裂け目から、濡れた白い石が見えた。


そこに、文字ではないものが浮かんでいた。


削られた跡。


一文字になり損ねた傷。


レオンの表情が消えた。


いつもの嫌な笑みもない。


怒りもない。


ただ、白くなった顔で、壁を見ている。


「何が出た」


アスターが聞く。


レオンは答えない。


「おい」


レオンは動かなかった。


アスターは視線を動かしかけた。


「見るな」


レオンが低く言った。


今度は、嫌味ではなかった。


命令でもなかった。


ほとんど、止める声だった。


アスターは動きを止める。


「誰の名だ」


レオンは、ゆっくり息を吐いた。


「名ではない」


「なら何だ」


「傷だ」


カイルが震える手で、紙にその形を写した。


読まずに。


ただ、形だけを。


曲がった線。

削れた縦の跡。

文字になる前に削られたような白い筋。


アスターは、カイルの紙を見た。


中央広場で見た札の欠け。


――ミ


北通りの井戸で見た石の欠け。


――リ


そして今、紙の上に写された形。


読もうとすれば、シに見えなくもない。


それだけでは何も分からない。


だが、レオンは分かっている顔をしていた。


「お前は知っている」


アスターが言った。


「それを知っている顔だ」


レオンは答えなかった。


白壁の向こうから、また鈍い音がした。


どん。


仕切りが揺れる。


カイルが震える声で聞く。


「隊長、この傷も記録しますか」


アスターはレオンを見た。


レオンは壁から目を離さない。


「形だけ写せ」


アスターは言った。


「読むな。名にするな」


カイルは頷く。


「はい」


「今は民を下げる」


アスターは決めた。


「ロラン、門前の民を二十歩下げろ。白壁を見るな。仕切りが裂けた場所は荷車で隠せ」


「はい!」


「カイル、呼び返した名だけを書く。読めない傷は形だけ写せ」


「はい!」


「セス、ダン。交代だ。次の二人を入れろ。足元を見ろ。石に白い筋が出た時だけ読む」


「はい!」


「北通りの者は互いの名を読み続けろ。門番は民を押すな。手を取って下げろ」


命令が飛ぶ。


人々が動く。


まだ恐れている。


まだ泣いている。


それでも、白壁に背を向けて下がり始めた。


一歩。


三歩。


十歩。


二十歩。


民は白壁から離れた。


それで名落ちが止まるわけではない。


ただ、自分の名を見て、壁へ手を伸ばすことはできなくなった。


名が浮くたびに、見る役が短く読む。

カイルが書く。

周りが呼ぶ。


「ハンナ・リース!」


「ガルド・ベック!」


「メイ・ロウ!」


呼ばれた者が返事をする。


「いる!」


「ここにいる!」


「まだいる!」


白壁は直っていない。


濡れた石も乾いていない。


だが、民が自分の名を確かめに行く足は止まった。


今は、それだけでよかった。


いや、それしかできなかった。


アスターは最後に、レオンを見る。


「お前も下がれ」


「嫌だ」


「命令だ」


「なら聞かない」


レオンは仕切りの裂け目を見たまま言った。


「ここは見ておく」


「なぜ」


「読もうとする奴を止めるためだ」


「お前なら読まないのか」


レオンは、少しだけ笑った。


いつもの嫌な笑みではなかった。


疲れたような笑みだった。


「読まないようにしているだけだ」


「見ているだろう」


「全部は見ない。白い線の端だけを見る。名の形になったら、目を外す」


「それで平気なのか」


「平気に見えるなら、目が悪い」


レオンの手は、門番詰所に立てかけられていた木柄の鉤棒を握っていた。


木が、みし、と鳴る。


アスターは、それ以上聞けなかった。


白壁の向こうから、今度は叩く音ではなく、こする音がした。


ざり。


ざり。


何かが壁の外側をなぞっている。


霧か。

人か。

それとも、名を失った何かか。


誰も分からない。


仕切りの向こうで、アスターの名がまだ薄く残っていた。


だが、北門の人々が呼び続ける声に押されて、深くはならない。


「アスター・ヴェイン!」


「ロラン・グレイ!」


「ハンナ・リース!」


「メイ・ロウ!」


「ガルド・ベック!」


「カイル・ノード!」


声が重なる。


仕切りの向こうで、濡れた白い線は深くならなかった。


消えはしない。


だが、声が重なるたび、名の輪郭は少しずつ崩れていく。


鐘楼の上で、鐘がもう一度鳴った。


割れた音だった。


その音に混じって、壁の外から声がした。


はっきりとは聞こえない。


だが、今度は叫び声ではなかった。


誰かが、門の向こうで名を呼んでいる。


アスターは顔を上げた。


レオンは息を止めた。


ほんの一瞬、肩から力が抜ける。


すぐに、木柄の鉤棒を握りしめた。


木が、また、みし、と鳴った。


「誰だ」


アスターが聞いた。


レオンは答えない。


白壁の外から、もう一度声がした。


声は名にならなかった。


ただ、削れた一音だけが残った。


「……リ……」


レオンは鉤棒を握ったまま動かない。


アスターは初めて見た。


レオンが、何かに耐えている顔を。


北門は開いていない。


白壁も直っていない。


外にあるものも分からない。


それでも、民は壁から離れた。


今は、誰も自分の名を確かめに壁へ戻ろうとしていない。


それだけが、今の勝ちだった。


アスターは、裂けた仕切りの前に立つレオンの背を見た。


レオンはまだ、白壁の方を見ている。


呼ばれなかった名。

浮かばなかった名。

削れた一音。


そのすべてを、あの背中だけが聞いているように見えた。


北門の白壁は、まだ白い。


だが、その白さはもう、誰の目にも清らかには見えなかった。

第5話まで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は北門と白壁の話でした。

これまで人々を守るものだと信じられてきた白壁が、今度は人の名を映し、本人に見せようとします。


第3話の白灰は、今回は効きませんでした。

第4話の井戸とも違い、北門の異常は「塞ぐ」ものではなく、「見せない」「触れさせない」「周りが名を呼び返す」ことで、かろうじて踏みとどまるものでした。


白壁に背を向け、互いの名を呼ぶ人々。

名が浮かばないレオン。

そして、壁の外から聞こえた削れた一音。


北門の騒動はひとまず収まりましたが、白壁そのものの謎は深まっていきます。

次話も読んでいただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ