第4話 北通りの名札
処刑台の下にあった白い溝は、北通りにも続いていた。
そこは罪人を裁く場所ではありません。
魚屋が声を張り、靴屋が看板を掲げ、子どもが粉袋を引きずって歩く、ただの暮らしの通りです。
けれど、その足元にも、白壁の傷は伸びていました。
林檎が転がってきた。
一つではない。
割れた籠からこぼれ、赤い実が北通りの石畳を転がっている。
その奥で、粉袋が破れていた。
白い粉が風に舞う。
霧と混じり、通りの端を汚している。
魚屋の水桶は、店先で横倒しになっていた。
こぼれた水が石畳に広がり、その浅い水の中で小魚が跳ねている。
靴修理屋の前には、片方だけの靴が残っていた。
針は刺さったまま。
糸は途中で切れている。
誰かが逃げた跡だった。
「下がれ!」
アスターが叫んだ。
通りの真ん中で、石畳が割れている。
割れ目の下に、白い線が見えた。
中央広場で見たものと同じだった。
白い石。
細い溝。
灰色の水。
そこから、糸のような霧が立ちのぼっている。
だが、ここには処刑台がない。
罪人を立たせる場所ではない。
人がパンを買い、靴を直し、魚の値段で言い合う場所だ。
その下から、白い溝が出ていた。
「走るな! 名を言え!」
アスターは剣を抜き、通りに声を張った。
「隣の者に復唱させろ! 言えない者を見つけたら離すな!」
「私は、ハンナ・リース! 北通りの魚屋!」
「ハンナ・リース! 北通りの魚屋!」
「俺は、ガルド・ベック! 靴修理!」
「ガルド・ベック! 靴修理!」
声が返る。
だが、すべてではない。
井戸のそばで、粉まみれの少年が立ち尽くしていた。
前掛けを握り、口だけを開けている。
「僕は……」
隣の老婆が肩を揺すった。
「早く言いな」
「僕は、ここの……」
少年は足元を見た。
「ここって、どこ」
老婆の顔から血の気が引く。
アスターが駆け寄った。
「誰か、この子を知っているか!」
「レムだ!」
魚屋のハンナが叫んだ。
「レム・サージ! 粉屋の子だよ! 毎朝、粉袋を引きずって怒られてる!」
少年の唇が震えた。
「レム……」
「復唱!」
「レム・サージ!」
「粉屋の子!」
「粉袋を引きずる子!」
「昨日、魚を一匹落とした!」
「それは言うなよ!」
少年が泣きながら叫んだ。
周りの大人たちが、ほんの少しだけ笑った。
その笑いに、少年の目が戻る。
足元に絡んでいた霧が、石畳の隙間へ退いた。
アスターは少年の肩を叩いた。
「レム、粉屋へ戻るな。ハンナのそばにいろ」
「うん」
「記録官は」
「後ろです!」
ニコルが答えた。
中央広場から連れてきた若い記録官が、紙束を抱えて走ってくる。
息を切らし、筆を耳に挟んでいた。
「名不詳が出たら、顔、服、持ち物、場所、聞いたことを全部書け」
「はい」
「通りの名も書け」
記録官が顔を上げた。
「通りの名、ですか」
そのとき、通りの入口に掛かった木札から、白い粉のようなものが落ちた。
木札には、こう彫られていたはずだった。
北通り。
だが、今は違う。
――通り
「北」が抜けていた。
誰かが言った。
「ここ、何通りだ」
誰も、すぐに答えなかった。
魚の匂い。
粉袋。
靴屋の看板。
井戸の縁。
そこに暮らしの跡はある。
なのに、通りの名だけが舌から逃げた。
アスターは木札を見上げた。
背中が冷える。
「書け」
低く言った。
「北通り。王都北門へ続く市場通り。魚屋、粉屋、靴修理、井戸あり」
記録官が慌てて書く。
「声に出せ!」
アスターが叫んだ。
「北通り!」
「北通り!」
「王都北門へ続く市場通り!」
「魚屋、粉屋、靴修理、井戸あり!」
声が重なる。
抜けた「北」は、木札には戻らない。
それでも、人々の口の中には戻った。
レオンは木札を見ていた。
つまらなそうな顔だった。
「遅い」
「何がだ」
「通りの名が抜けた。次は店だ」
その言葉の直後、靴修理屋の戸口で悲鳴が上がった。
「看板が!」
ガルドが戸口にしがみついていた。
店の上に吊るされた看板には、古い字で店名が彫られている。
ガルド靴修理。
そのはずだった。
だが、最初の二文字が薄くなっていた。
――ド靴修理
「俺の店だ!」
ガルドは看板に飛びついた。
「親父の代からの店だぞ!」
アスターが駆け寄る。
「離れろ!」
「嫌だ! これを外したら、本当に消える!」
ガルドは看板の紐を握りしめた。
その指先に、白い霧が絡みつく。
「名を言え!」
「ガルド・ベック! 北通りの靴修理! 親父は――」
そこで、声が止まった。
「親父は……」
ガルドの顔が歪む。
「親父の名が、出ない」
レオンが近づいた。
「看板を外せ」
ガルドが振り向き、目を血走らせた。
「近づくな、黒き王子!」
「なら、そのまま店ごと抜かれろ」
アスターがレオンを睨んだ。
「言い方を選べ」
「選んでいる間に終わる」
レオンは看板を指した。
「紐を切れ。壁から離せ」
「なぜだ」
「看板が溝に引かれている。戸口の名守りもだ」
アスターは扉の横を見た。
小さな木札が下がっている。
名守り。
家の名、店の名、そこに暮らす者の名を刻み、戸口へ掛ける札だ。
忘れないためのものだった。
その名守りの紐が、ぴんと張っている。
風もないのに、溝の方へ引かれていた。
守っているはずの札が、名を下へ渡す紐になっている。
アスターには、そう見えた。
「外せ」
レオンが言った。
「全部だ。戸口の名守りも、店の看板も、紐ごと切れ」
住民たちがざわめいた。
「名守りを外すだって?」
「家の名を守るものだぞ」
「黒き王子に渡すな!」
「触るな!」
香草売りの女が、戸口の小さな名守りを両手で覆った。
指先が白くなるほど握っている。
「これは姉の名だ」
女は震える声で言った。
「店を始めたのは姉だ。私の名より先に、姉の名がここにある。外せるか」
名守りの紐が、ぎち、と鳴った。
溝の方へ引かれている。
女は離さない。
爪が割れ、木札に血がついた。
アスターは一歩近づいた。
「読む」
女が顔を上げる。
「外す前に、読む」
アスターは通りへ向き直った。
「聞け!」
ざわめきが止まる。
「名守りは外す。ただし、外す前に読む。家の名、店の名、住む者の名、刻まれた者の名。全部声に出せ。記録官が書く。隣の者が復唱する」
レオンが鼻で笑った。
「面倒だな」
「黙れ」
「だが、悪くない」
アスターはガルドを見た。
「読め」
ガルドは看板にしがみついたまま、薄れかけた文字を見る。
「ガルド靴修理。店主、ガルド・ベック」
「復唱!」
「ガルド靴修理!」
「店主、ガルド・ベック!」
「先代は」
アスターが問う。
ガルドは唇を噛んだ。
「先代は……」
霧が、看板の文字を舐める。
――靴修理
ガルドの名まで消えた。
「誰か、先代を知っている者!」
ハンナが叫んだ。
「エドだよ!」
ガルドが顔を上げる。
「エド」
「エド・ベック! 無口で、左手の指が二本曲がってた! 靴底を噛んで硬さを確かめる変な親父だった!」
周囲の者が続く。
「エド・ベック!」
「左手の指が曲がってた!」
「靴底を噛む親父!」
「酒は弱い!」
ガルドの目に涙が浮かんだ。
「エド・ベック」
彼は看板から手を離した。
「俺の親父、エド・ベック」
アスターは剣を振るい、看板の紐を切った。
看板が落ちる。
ニコルが受け止めた。
「地面に置くな!」
レオンが鋭く言った。
「布で包め。文字を上にしろ」
アスターが命じる。
「布を。看板を包め。記録官、書け。ガルド靴修理。店主ガルド・ベック。先代エド・ベック」
記録官の筆が走る。
「名守りも外すぞ」
ガルドは黙って頷いた。
戸口の名守りを外すと、紐がひとりでに溝の方へ跳ねた。
見えない手に引きちぎられたようだった。
住民たちが悲鳴を上げる。
アスターは香草売りの女の前に立った。
「次だ」
女は名守りを抱いたまま、首を振った。
「姉の名を読め」
アスターが言う。
女の唇が震えた。
「サーラ香草店。店主、メイ・ロウ。先代、サーラ・ロウ」
「復唱!」
「サーラ香草店!」
「店主、メイ・ロウ!」
「先代、サーラ・ロウ!」
女は涙をこぼしながら言った。
「姉は、雨の日でも店を開けた。香草を湿らせるなって怒るくせに、自分はずぶ濡れで帰ってきた。笑うと、右だけえくぼが出た」
記録官の筆が止まりかけた。
アスターが言う。
「書け」
「はい」
「雨の日も店を開けた。右だけえくぼ。書け」
女は名守りから手を離した。
アスターが紐を切る。
今度は、名守りが落ちる前に霧が伸びた。
白い指のように、木札へ絡む。
「ニコル!」
ニコルが飛び込み、布で名守りを受けた。
霧が布の端を舐める。
布に包まれた木札から、かすかに音がした。
誰かが小さく笑ったような音だった。
メイが口を押さえる。
「姉の声だ」
レオンが低く言った。
「違う」
メイが睨む。
「違わない。今、姉が」
「真似ているだけだ」
レオンの声は冷たかった。
「近づくな。返事をするな。呼ばれても、井戸を見るな」
井戸。
その言葉で、アスターは振り向いた。
北通りの中央に、古い井戸がある。
石の縁には、名守りがいくつも結ばれていた。
家族の名。
店の名。
死んだ者の名。
帰ってこない者の名。
忘れないために結ばれた札だった。
その全部が、同じ方へ引かれている。
下へ。
井戸の中へ。
「全戸、名守りを外す!」
アスターは叫んだ。
「だが、先に読む! 読めない者は隣に聞け! 記録官は班を分けろ!」
「はい!」
「ニコル、粉屋から始めろ。ベンは魚屋。マルクは靴修理の看板を守れ」
「はい!」
「ハンナ、魚屋の名を言え!」
ハンナは胸を張った。
「ハンナ魚店! 店主ハンナ・リース! 夫はなし! 魚は高いが腐らせない!」
誰かが叫んだ。
「高いぞ!」
「うるさい、名を呼べ!」
一瞬だけ、通りに笑いが起きた。
その笑いの下で、白い溝は静かに霧を吐いている。
アスターは笑わなかった。
レオンも笑わなかった。
粉屋、魚屋、靴修理。
名を読まれた店から、戸口の名守りが外されていく。
外した名守りは布に包み、文字を上にして並べた。
記録官が書く。
隣人が復唱する。
兵が運ぶ。
その間にも、井戸の縁の名守りは下へ引かれていた。
ぎち。
ぎち。
古い紐が鳴る。
「全部外せば止まるのか」
アスターが低く聞いた。
「止まらない」
レオンが答えた。
「軽くなるだけだ」
「なら、裂け目はどこだ」
レオンは井戸を見た。
そして、黙った。
それが、アスターには一番嫌だった。
さっきまで、どんな問いにも嫌味で返した男が、何も言わない。
井戸の縁に結ばれた名守りの一つが、ぷつりと切れた。
小さな木札が落ちる。
水音はしなかった。
木札は、井戸の底へ落ちたのではない。
吸い込まれた。
次の瞬間、ガルドが呻いた。
「ガルド……?」
アスターが振り向く。
ガルドは自分の胸を掴んでいた。
「今、俺の名を……誰が」
井戸の底から声がした。
「……ガルド」
ガルドの顔が歪む。
「やめろ」
「見るな!」
レオンが叫んだ。
その声は、初めて乱れていた。
ガルドは動きを止める。
井戸の底から、また声がした。
「……ガルド」
同じ声。
同じ響き。
だが、二度目は少し違った。
人の声を似せただけの、湿った音だった。
アスターの背中に、冷たい汗が流れた。
落ちた札に刻まれていた名を、井戸が呼んでいる。
いや、呼んでいるのではない。
まねている。
レオンは井戸へ近づいた。
足元の霧が、黒い裾に絡む。
触れる寸前で退く。
井戸の縁に手を置こうとして、レオンは止めた。
指先が、わずかに震えていた。
アスターはそれを見逃さなかった。
「何だ、ここは」
レオンは答えない。
井戸の水面は見えなかった。
暗い底だけがある。
そこから、湿った声だけが上がってくる。
「ガルド」
ガルドの膝が揺れた。
アスターが叫ぶ。
「ガルド・ベック!」
「ガルド・ベック!」
ハンナが続いた。
「北通りの靴修理!」
「店は遅い!」
古道具屋の老人が叫ぶ。
「だが、靴底は丈夫だ!」
ガルドは肩で息をした。
「俺は……ガルド・ベック」
井戸の声が少しだけ遠のく。
「塞げばいいのか」
アスターが聞いた。
レオンが振り向いた。
「塞ぐな」
「霧が出ている」
「塞げば、この通りの名が落ちる」
アスターはレオンを睨む。
「分かるように言え」
「分かりたくないくせに」
「言え」
井戸の縁で、また紐が鳴った。
ぎち。
次の名守りが切れかけている。
レオンは短く息を吐いた。
「ここは穴じゃない」
誰も動かなかった。
井戸の底から、低い水音がした。
まるで、喉を鳴らしたようだった。
レオンは言った。
「口だ」
その一言のあと、北通りから音が消えた。
小魚が浅い水の中で跳ねる音だけがした。
ぴちり。
ぴちり。
「口なら、何を食っている」
アスターが聞いた。
レオンは答えなかった。
代わりに、井戸の縁に結ばれた名守りを指した。
その一枚が、また下へ引かれる。
古い札だった。
黒ずんだ木に、細い字が刻まれている。
――メイ・ロウ
香草売りの女が息を呑んだ。
「私の名です」
紐が切れる。
木札が井戸へ落ちた。
また、水音はしなかった。
メイがふらつく。
「私……」
「メイ・ロウ!」
アスターが即座に叫んだ。
「復唱!」
「メイ・ロウ!」
「サーラ香草店の店主!」
「右だけえくぼの姉を覚えてる人!」
「香草を入れすぎる!」
メイは胸を押さえ、息を吸った。
「メイ・ロウ」
声が戻った。
だが、井戸の底からも同じ名が返ってきた。
「……メイ」
今度は、メイではなく、レムがふらりと井戸へ歩き出した。
「レム!」
ハンナが腕を掴む。
少年は夢を見ているような顔をしていた。
「呼んでる」
「誰も呼んでいない!」
「でも、井戸の中で」
レオンが近づき、少年の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「井戸を見るな。今の痛みだけ見ていろ」
少年は額を押さえ、泣きそうな顔でレオンを睨んだ。
「ひどい」
「礼はいらない」
アスターはレオンを見た。
「井戸は、落ちた名をまねるのか」
「声をまねる」
レオンは井戸から目を離さない。
「札に残った声だ」
「それを聞いた者が引かれる」
「だから見るなと言った」
「先に言え」
「今、言った」
アスターは殴りたいと思った。
だが、次の紐が鳴る。
ぎち。
ぎち。
井戸の縁にある名守りは、多すぎる。
一枚ずつ読んでいたら、間に合わない。
「全部切るか」
アスターが言った。
「読まずに切れば、何人か落ちる」
レオンは短く答えた。
「読んでいたら、間に合わない」
「なら、選べ」
アスターの手が止まった。
レオンは、ようやくアスターを見た。
「全部は拾えない。お前が好きな名前も、嫌いな名前も、同じ速さで落ちる」
「黙れ」
「黙れば落ちる」
また紐が鳴った。
井戸の縁で、三枚の名守りが同時に揺れている。
アスターは息を吸った。
「名守りを全部外す!」
住民が悲鳴を上げた。
「読まずにですか!」
「違う!」
アスターは剣を掲げた。
「持ち主が読むな! 隣が読む! 自分の家の札を見るな! 隣の家の名を読め!」
人々が顔を上げる。
「自分の名は、自分だけでは弱い! 隣に読ませろ!」
一瞬、誰も動かなかった。
最初に動いたのは、ハンナだった。
彼女は香草売りの名守りを掴み、声を張る。
「サーラ香草店! 店主メイ・ロウ! 先代サーラ・ロウ!」
メイは泣きながら、魚屋の名守りを読んだ。
「ハンナ魚店! 店主ハンナ・リース! 魚は高いが腐らせない!」
「そこまで読まなくていい!」
「読めと言ったでしょう!」
通りに、震えた笑いが走った。
その笑いの中で、名が渡っていく。
粉屋が靴修理屋を読む。
靴修理屋が井戸番を読む。
井戸番が古道具屋を読む。
古道具屋が魚屋を読む。
自分の名ではなく、隣の名を。
記録官は追いつかず、紙を石畳に広げた。
「足で押さえろ!」
アスターが言う。
「風で飛ばすな!」
ニコルが紙を押さえる。
ベンが名守りを切る。
マルクが布で受ける。
それでも、井戸は引く。
一枚、また一枚。
下へ。
「レオン!」
アスターは叫んだ。
「井戸そのものをどうにかしろ!」
レオンはすぐには答えなかった。
井戸の底を見ていた。
唇を開きかけ、閉じる。
それから、ようやく言った。
「できるなら、もうやっている」
アスターは息を呑む。
「できないのか」
「今はな」
「今は?」
レオンの目が細くなる。
「俺をここで殺すなら、できるかもしれない」
周囲の空気が凍った。
アスターは剣を握り直す。
「どういう意味だ」
「冗談だ」
「笑えない」
「笑わせる気はない」
井戸の底から、また声が上がった。
今度は、一つではない。
「……ガルド」
「……メイ」
「……レム」
レムがびくりとする。
ハンナが彼を抱きしめた。
「レム・サージ! 粉屋の子! 魚を落とした子!」
「落としてない!」
「昨日落とした!」
「落とした!」
「落とした!」
通りのあちこちから声が飛ぶ。
少年は泣きながら怒った。
「みんな嫌いだ!」
その声で、井戸からの呼び声が一つ薄れた。
レオンが小さく言った。
「怒りでも残るか」
「何だと」
「何でもない」
アスターは聞き逃さなかったが、問い詰めなかった。
名は、優しい記憶だけでは戻らない。
怒り。
恥。
笑い。
生活の癖。
そういうものまで、人を引き止めている。
アスターは通りを見渡した。
「きれいに言うな!」
住民たちが驚いて彼を見る。
「覚えているまま言え! 怒ったこと、笑ったこと、借りた金、焦がした鍋、安くしなかった魚! 何でもいい! その人だと分かることを言え!」
最初に叫んだのは、古道具屋の老人だった。
「ガルドは修理が遅い!」
ガルドが怒鳴る。
「うるさい、あんたは値切りすぎだ!」
「ハンナの魚は高い!」
「高いんじゃない、いい魚なんだよ!」
「メイの香草は効きすぎる! くしゃみが三日止まらなかった!」
メイが泣きながら笑った。
「使い方が悪いんです!」
名が、荒っぽく飛び交った。
立派な言葉ではない。
祈りでもない。
ただの北通りの声だった。
その声に押されるように、井戸の縁の名守りが震えた。
引く力が、わずかに弱まる。
「今だ!」
アスターが叫ぶ。
「切れ!」
ベンが剣を振るう。
ニコルが布を広げる。
マルクが名守りを受け止める。
三枚。
四枚。
五枚。
井戸に吸われず、布の上に落ちた。
記録官が、膝をついたまま書き続ける。
指が墨で真っ黒になっていた。
「記録官、無理するな!」
「書かないと、忘れます!」
若い記録官は泣きそうな顔で言った。
「私も、忘れそうなんです!」
アスターは一瞬、言葉を失った。
「お前の名は」
「カイル・ノード!」
「復唱!」
「カイル・ノード!」
「記録官!」
「筆を耳に挟む奴!」
「字が汚い!」
「汚くありません!」
カイルは泣きながら怒鳴り、また書いた。
井戸の声が少し遠のいた。
だが、完全には止まらない。
白い溝の中の灰色の水が、井戸へ向かって流れ始めている。
まるで、通り中の名札を引いているようだった。
レオンが井戸の縁を見た。
「縄を」
「何の」
「名守りを井戸から離す。束にして引け」
「切るのではなく?」
「切るだけでは追いつかない。縁ごと外す」
アスターは井戸を見た。
名守りは、縁に打ち込まれた古い鉄環に結ばれている。
鉄環は石に食い込んでいた。
「抜けるのか」
「抜く」
「失敗したら」
「何枚か食われる」
レオンは平然と言った。
アスターは短く息を吐く。
「ニコル、縄。ベン、鉄環にかけろ。マルク、布を広げろ」
「はい!」
「住民は名を読み続けろ! 止めるな!」
声が続く。
汚い声。
泣き声。
怒声。
笑い声。
その中で、兵たちが縄を鉄環にかける。
レオンが処刑台の横木を差し込み、石の隙間を探った。
中央広場から持ってきた残骸だった。
「そこじゃない」
アスターが言う。
「分かっている」
「手が震えている」
「黙れ」
本当に震えていた。
レオンの指先が、白い霧に近づくたび、霧は逃げる。
だが、井戸の底から声が上がるたび、レオンの目が細くなる。
アスターには、その理由が分からない。
分からないが、今は使うしかない。
「引け!」
兵たちが縄を引く。
鉄環は動かない。
「もっとだ!」
アスターも縄を掴んだ。
ニコル。
ベン。
マルク。
ガルド。
ハンナ。
通りの者たちも、次々に縄を掴む。
「読むのを止めるな!」
アスターが叫ぶ。
縄を握れない者が名を読む。
「ガルド・ベック!」
「ハンナ・リース!」
「メイ・ロウ!」
「レム・サージ!」
「カイル・ノード!」
「エド・ベック!」
「サーラ・ロウ!」
鉄環が、ぎ、と鳴った。
井戸の底から、怒ったような水音が上がる。
「引け!」
アスターの手の皮が裂けた。
血が縄に滲む。
ガルドが歯を食いしばる。
「俺の名を、持っていくな!」
鉄環が抜けた。
井戸の縁から、名守りの束が引き剥がされる。
木札が一斉に跳ねた。
白い霧が追う。
レオンが横木を振り下ろし、霧と名守りの間を叩いた。
木が白く凍る。
「布!」
マルクが布を広げる。
名守りの束が、その上に落ちた。
布の上で、木札がばらばらと震える。
まだ、井戸の方へ行こうとしていた。
アスターは自分の外套を脱ぎ、その上からかぶせた。
「押さえろ!」
ガルドが乗る。
ハンナが乗る。
メイが泣きながら両手で押さえる。
レムも、小さな手で端を掴んだ。
「重い」
少年が言った。
「札なのに、重い」
レオンが答えた。
「名だからな」
その声は、いつもの嫌味ではなかった。
アスターが振り向くと、レオンはもう井戸を見ていた。
井戸からの声は、遠くなっている。
完全には消えない。
底でまだ、誰かの声をまねている。
だが、井戸の縁から名守りは離れた。
白い溝の水も、わずかに流れを弱めている。
「塞げないなら、どうする」
アスターが聞いた。
「離す」
レオンは言った。
「名を、井戸から離す。今はそれだけだ」
「また引かれる」
「だから読ませ続けろ」
アスターは井戸を見た。
霧はまだ上がっている。
北通りは救われていない。
ただ、飲み込まれるのを止めただけだ。
「カイル」
アスターが記録官を呼んだ。
若い記録官が顔を上げる。
「北通りの名守り、全数を記録。店ごとに写しを作れ。原本は騎士団が預かる。写しは各戸へ返す」
「はい」
「井戸の縁には戻すな」
住民がざわめいた。
メイが名守りの束を見下ろす。
「でも、ここに結ばないと、忘れてしまいそうで」
アスターは答えられなかった。
忘れないために結んだものを、忘れないために外す。
その矛盾に、うまい言葉はなかった。
レオンが言った。
「忘れたくないなら、口で言え」
メイが顔を上げる。
「札に任せるな。紙に任せるな。隣に言わせろ」
レオンは井戸の底を見たまま続けた。
「木は食われる。紙は消える。口は、まだ少し面倒だ」
アスターはレオンを見た。
乱暴で、冷たい。
だが、今の北通りにはそれが必要だった。
アスターは通りに向き直る。
「聞いたな」
人々が顔を上げる。
「今日から、北通りの名は互いに読む。朝と夕。店を開ける時、閉める時。自分の名だけでは足りない。隣の名を呼べ」
ハンナが鼻をすすった。
「面倒だね」
ガルドが、まだ濡れた目で言った。
「魚が高いって毎朝言ってやる」
「言ったら靴代を上げるよ」
「靴屋は俺だ」
「あんたの店は遅い」
ガルドは笑った。
泣きながら。
「ガルド靴修理だ」
「ガルド靴修理」
ハンナが返した。
「ハンナ魚店」
ガルドが言った。
「高い」
「腐らせない」
その声に、通りの者たちが少しずつ続いた。
名が戻る。
完全ではない。
木札の文字は戻らない。
井戸の声も消えない。
白い溝は、石畳の割れ目の下に残ったままだ。
それでも、誰も井戸へ歩かなかった。
アスターは息を吐いた。
そのとき、レムが井戸の縁を指さした。
「何かある」
アスターが振り向く。
井戸の縁、鉄環が抜けた跡。
そこに、白い石が見えていた。
石には、小さな紋が刻まれている。
中央広場の溝で見たものと似ていた。
王家の紋に似ている。
だが、今の王旗とは少し違う。
古い輪。
削られた線。
輪の内側に、小さな刻み。
その横に、文字の跡があった。
ほとんど削られている。
だが、一文字だけ読めた。
――リ
アスターの胸に、中央広場で見た札が浮かんだ。
――ミ
ミ。
リ。
それだけでは何も分からない。
だが、レオンは動かなかった。
ただ、その一文字を見ていた。
顔から、いつもの嫌味が消えている。
「お前」
アスターが言う。
「これを知っているのか」
レオンは答えなかった。
井戸の底から、かすかな声がした。
今度は、誰の名にも聞こえなかった。
ただ、削られた音だった。
レオンはゆっくりと視線を上げた。
北門の方角を見ている。
白壁がある方角だ。
「行くぞ」
アスターが言うより先に、レオンが歩き出した。
「まだ何かあるのか」
「ある」
「何が」
レオンは振り向かない。
「蓋は、ひとつじゃない」
北通りの人々は、名守りの束を囲んで互いの名を読み続けていた。
魚の匂い。
粉の白さ。
濡れた石畳。
井戸の底から上がる、かすかな声。
アスターは一度だけ、井戸を見た。
口は、まだ閉じていない。
ただ、今は食わせない。
そういう勝ち方しかできなかった。
「ニコル、ベン。北通りに残れ。名守りを守れ。井戸に近づく者を止めろ」
「はい!」
「マルク、記録官を連れて来い。カイル、歩けるか」
「歩けます」
「なら書きながら来い」
「はい!」
カイルは紙束を抱え、涙と墨で汚れた顔を袖で拭った。
アスターはレオンの背を追う。
その足元に、薄い霧が絡んだ。
霧はレオンの踵に触れる寸前で退く。
何度見ても、嫌な光景だった。
「レオン」
アスターは、ついにその名を呼んだ。
レオンの足が止まる。
北通りの声も、一瞬だけ遠くなる。
レオンは振り向かなかった。
「呼ぶなと言った」
「お前が返事をしないからだ」
「そのまま忘れろ」
「忘れられると思うか」
レオンは、少しだけ顔を横に向けた。
「お前はそういう奴だったな」
アスターは剣の柄を握る。
「北門へ行く。だが、逃げれば斬る」
「逃げるなら、もっと早く逃げている」
「知っている。だから腹が立つ」
レオンは薄く笑った。
いつもの、嫌な笑みだった。
少しだけ、アスターは安心した。
次の瞬間、北門の鐘が三度鳴った。
一度。
二度。
三度。
中央広場とも、北通りとも違う。
もっと低い音だった。
白壁の方から、冷たい風が吹いた。
北通りの木札が揺れる。
――通り
「北」の抜けたままの木札が、かすかに軋んだ。
アスターはレオンと並ぶ。
「次は何だ」
レオンは白壁を見た。
「壁だ」
「白壁か」
「お前たちは、そう呼んでいるな」
「お前は何と呼ぶ」
レオンは答えなかった。
北門の鐘が、もう一度鳴る。
その音に混じって、遠くから人の声が聞こえた。
名を呼ぶ声ではない。
叫び声だった。
アスターは走り出した。
レオンも、遅れて歩き出す。
北通りの背後では、人々が互いの名を読み続けている。
「ハンナ・リース!」
「ガルド・ベック!」
「メイ・ロウ!」
「レム・サージ!」
「カイル・ノード!」
その声は、まだ弱い。
だが、井戸の底の声よりは、確かに強かった。
アスターはそう信じることにした。
白壁の方角から、また鐘が鳴った。
今度は、途中で音が割れた。
第4話まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、北通りの下にあった白い溝と、名守りの話でした。
処刑台の下だけではなく、普通の暮らしの下にも、白壁につながるものが隠れていました。
井戸の底から聞こえる声は、本当に誰かの声なのか。
レオンはなぜ白壁の仕組みを知っているのか。
中央広場の「ミ」と、北通りの「リ」は何を示しているのか。
次話では、北門と白壁へ向かいます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




