第3話 白い石の下
処刑台の下にあったのは、ただの土ではなかった。
レオンは、それを知っていた。
アスターは、まだ知らなかった。
「壊せ」
レオンが言った。
外されたばかりの枷が、処刑台の上に転がっていた。
鉄の輪はまだ冷たく、片方にはレオンの血がついている。
誰も動かなかった。
さっきまで、そこは罪人を立たせる場所だった。
王の命で組まれ、騎士が囲み、民が石を投げた場所だった。
そこを、死ぬはずだった王子が壊せと言っている。
「聞こえなかったか」
レオンは手首を軽く振った。
赤黒い枷の跡が、白い肌に残っていた。
「このまま拝んでいろ。次は、お前たちの名が抜ける」
広場の外で、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
鐘の間に、人の声が重なる。
「私は、セム・ガラン。東通りの蝋燭屋」
「セム・ガラン。東通りの蝋燭屋」
「私は、リタ・フェイル。南井戸の近くに住んでいる」
「リタ・フェイル。南井戸の近く」
言えた者は膝をつき、隣の者が肩を支えた。
言えなかった者は、記録官の前に座らされる。
記録官は震える手で紙を押さえていた。
「名不詳。灰色の上着。左耳に欠け。広場北側。パン籠を所持」
男は口を開けたまま、自分の胸を掴んでいる。
「誰か、この者を見たことは」
アスターが問う。
人々は顔を見合わせた。
老婆が、小さく手を上げた。
「今朝、橋のそばで見たよ。犬にパンをやっていた」
「書け」
アスターが言った。
記録官の筆が走る。
紙に書いたから霧が退くわけではない。
それでも、誰かの記憶の端に引っかけるものが要る。
顔。
服。
持ち物。
場所。
見た者の声。
名が戻るまで、その人を探すための跡だった。
レオンは、その列を一度だけ見た。
すぐに処刑台へ視線を戻す。
「騎士」
アスターの眉が動いた。
「俺には名がある」
「知っている」
「なら呼べ」
「嫌だ」
レオンは短く言った。
アスターの手が、剣の柄にかかる。
レオンは笑わなかった。
「名で呼ばれたいなら、長生きしろ。今は板を剥がせ」
「命令するな。お前はまだ罪人だ」
「では、罪人の言葉を無視して民を減らせ」
アスターは奥歯を噛んだ。
広場の外で、また誰かが泣き出した。
自分の名が出てこないのだ。
アスターは処刑台を見た。
その下から、細い霧がまだ漏れている。
「斧を持ってこい。縄もだ。周囲の民を下がらせろ」
若い兵が一歩遅れた。
「隊長、これは王命で組まれた台です」
「責は俺が負う」
アスターはその兵の肩を掴んだ。
「ニコル、お前は縄だ。ベン、民を下げろ。マルク、斧を持て」
名を呼ばれた兵たちは、はっとしたように動き出した。
レオンが鼻で笑う。
「首輪をつけるのが上手い」
アスターは振り向かない。
「黙れ」
「黙ったら死ぬぞ」
「なら短く言え」
「中央から剥がせ。端から壊すな」
アスターが手を上げ、兵を止めた。
「なぜだ」
「下に溝がある。端を割れば、霧が横へ走る」
「溝?」
「白壁へ続いている」
レオンは処刑台の板を爪先で叩いた。
「これは台じゃない。蓋だ」
アスターの目が細くなる。
「なぜ知っている」
「お前たちは上しか見ない」
それ以上、レオンは言わなかった。
アスターは問いを飲み込んだ。
今は、問い詰める時間ではない。
「中央の釘から抜け。板を割るな。持ち上げろ」
兵たちが処刑台に上がる。
斧の背が釘を叩いた。
乾いた木の音が、広場に響く。
民衆がざわついた。
「黒き王子が台を壊している」
「白壁まで壊す気だ」
「やめさせろ」
石を拾った男がいた。
アスターは、その前に立つ。
「投げるなら、俺に投げろ」
男の手が止まった。
「今は名を言え。隣の者の名を聞け。言えない者から目をそらすな」
「でも、その男は――」
「その男を信じろとは言っていない」
アスターは、処刑台の上のレオンを見た。
「俺を見ろ」
民のざわめきが少しだけ弱まる。
鐘がまた鳴った。
「私は、オルガ・レス。西門の洗濯場」
「オルガ・レス。西門の洗濯場」
声は細い。
それでも、続いた。
中央の板が一枚、持ち上がった。
下から、冷たい息が漏れた。
兵の一人が短く叫び、後ろへ倒れる。
板の隙間から白い霧が這い出し、靴に絡みついた。
「名を言え!」
アスターが叫ぶ。
兵は口を開けた。
「お、俺は……」
舌が止まる。
周りの兵の顔色が変わった。
アスターは駆け寄り、兵の肩を掴む。
「マルク・ディーン!」
兵の目が揺れる。
「北区の鍛冶屋の三男。昨日、俺の剣帯を直した。手袋をすぐ片方なくす。言え、マルク」
兵の唇が震えた。
「マルク……ディーン」
「復唱しろ!」
アスターが叫ぶ。
「マルク・ディーン!」
「北区の鍛冶屋の三男!」
「手袋をなくす奴!」
最後に誰かがそう叫び、周囲から短い笑いが漏れた。
その笑いで、マルクの目に焦点が戻る。
靴に絡んでいた霧が、糸のようにほどけた。
レオンはそれを見ていた。
名は呼ばなかった。
ただ、倒れた兵を顎で示す。
「手袋の兵を下げろ。二度目は戻らない」
アスターは一瞬だけレオンを睨んだ。
だが、すぐにマルクを後ろへ押した。
「マルク、下がれ。水を飲め。ニコル、代われ」
ニコルが青い顔でうなずく。
二枚目の板が外れた。
三枚目も外れた。
処刑台の中央に、黒い穴が開いた。
穴の底に、土はなかった。
白い石が見えた。
広場の石畳よりも古い。
白いのに、清らかではない。
水に沈めた骨のような色だった。
その白い石の真ん中を、細い溝が走っている。
溝は処刑台の下から北へ伸び、広場の石畳の隙間に消えていた。
その先には、遠く白壁がある。
溝の中には、灰色の水が溜まっていた。
水と言うには重い。
泥と言うには、薄く光っている。
そこから、細い霧が上がっていた。
アスターは息を止めた。
「これが、白壁へ……」
「見るな」
レオンが言った。
「長く見ると、忘れられなくなる」
「どういう意味だ」
「今のお前には、まだ贅沢だ」
アスターは返しかけた言葉を飲んだ。
溝の両側には、小さな札が打ち込まれていた。
木札。
骨のように白い札。
錆びた金具で留められた薄い銀の札。
どれも古い。
そして、ほとんどが削られていた。
そこに名があったのだと、見れば分かる。
一文字の半分。
曲がった線。
爪で引っかいたような跡。
まだ読めるものもあった。
――ロ
――エル
――ナ
――ト・ハル
名なのか、名の残りなのかも分からない。
記録官が穴を覗き込み、顔を歪めた。
「これは、処刑者の名札ですか」
レオンは答えなかった。
処刑台の端を、軽く蹴る。
「蓋だと言った」
アスターは白い溝を見下ろした。
処刑台は、人を立たせるためだけの台ではなかった。
この穴を隠していた。
いや、違う。
押さえていた。
長い間、王都の真ん中で。
民が石を投げ、罪人が膝をつき、騎士が剣を抜くその下で。
白い溝は、ずっと霧を吐いていた。
「裂け目はどこだ」
アスターが低く聞いた。
レオンは穴の縁に膝をつく。
アスターが反射的に腕を掴んだ。
「素手で触るな」
「優しいな、騎士」
「お前が倒れると困るだけだ」
「なら邪魔をするな」
アスターは手を離した。
レオンは白い石には触れなかった。
溝の灰色の水面に顔を近づける。
霧が、レオンの頬へ寄った。
兵たちが息を呑む。
霧はレオンの肌に触れる寸前で止まった。
細かく震え、逃げるように水面へ戻る。
レオンの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「大元じゃない」
「何だと」
「白壁から分かれた細い裂け目だ。塞げば、この広場の霧は止まる」
アスターはレオンの横顔を見る。
迷いがない。
白壁の傷を、初めて見た者の顔ではなかった。
「お前は、これを前から知っていたのか」
「質問が多い」
「答えろ」
「答えを聞いている間に、誰かが消える」
レオンは北側の石畳を指した。
「三歩先。石を外せ」
アスターはすぐに命じた。
「ベン、ニコル。北へ三歩。石畳を外せ」
ニコルがためらう。
「隊長、信じるんですか」
「信じていない」
アスターは剣を抜き、石畳の隙間へ差し込んだ。
「従うだけだ」
兵たちが石を外す。
白い溝は、そこにも続いていた。
だが、三歩先の石は割れていた。
細い亀裂が、溝の底を横切っている。
そこから霧が噴いていた。
水の底に、何かが光る。
紋だった。
灰色に濡れた、古い紋。
王家の紋に似ている。
だが、今の王旗とは少し違う。
外側の線は削られ、中央の輪だけが残っている。
輪の内側には、細かな刻みがあった。
文字だったのかもしれない。
だが、もう読めない。
レオンが小さく息を吐いた。
「やはり、ここか」
アスターは聞き逃さなかった。
「ここ?」
「濡れ布を詰めろ。上から灰をかぶせる。乾いた砂は使うな。霧が抜ける」
「灰?」
「下にある」
兵が穴の奥を照らした。
黒ずんだ小さな壺が、いくつも並んでいた。
半分は割れている。
中には、白い灰が詰まっていた。
アスターの喉が動く。
「これは何の灰だ」
レオンは、薄く笑った。
「王都は、こういう白いものが好きだろう」
誰も口を開かなかった。
アスターは壺を見た。
白い灰。
削られた札。
読めない名。
白壁へ続く溝。
霧を吐く裂け目。
聞きたいことは山ほどある。
だが、霧は待たない。
アスターは自分の外套を裂いた。
「濡らせ。井戸水を持ってこい。布を詰める。灰を上から押さえろ。素手で触るな」
兵たちが動き出す。
そのとき、広場の端で悲鳴が上がった。
「この人、名が言えない!」
アスターが振り向く。
記録官の前で、女が膝をついていた。
女は男物の上着を抱えている。
袖口には、まだ誰かの手の形が残っていた。
だが、男の姿はない。
女は上着を抱きしめたまま、震える声で言った。
「さっきまで、一緒に……私、誰と来たの」
鐘が鳴った。
誰も、すぐには答えられなかった。
レオンは穴の底を見たまま言った。
「騎士」
アスターは剣を握り直す。
「迷うな」
処刑台の下で、裂け目が少し広がった。
アスターは、女の方へ走り出しかけた。
だが、足を止めた。
布を持った兵たちが、穴の縁で固まっている。
誰も、最初の一枚を詰められない。
広場の端では、女が男物の上着を抱いて泣いている。
「私、誰と来たの。ねえ、誰か、教えて」
その声に、周りの人々が目をそらした。
覚えていないのだ。
いや、覚えていたはずのものが、霧に削られている。
アスターは息を吸った。
「記録官!」
記録官が顔を上げる。
「その女を離すな。上着を書け。色、裂け目、匂い、何でもだ」
「は、はい」
「誰か、その男を見た者はいないか!」
返事はすぐにはなかった。
女は上着の袖口を握りしめる。
「左の袖に、焦げ跡が……昨日、鍋を倒して……怒って、それから、笑って」
記録官の筆が走る。
「左袖に焦げ跡。鍋。昨日」
「笑い方が、変で……鼻で、ふっと……」
女は言葉を探すように、上着に顔を埋めた。
「名前は」
アスターが聞いた。
女の口が開いた。
「なま、え……」
その先が出ない。
レオンが低く言った。
「引っ張るな。切れる」
アスターは振り向いた。
「何が」
「その女だ」
レオンは穴の底を見たまま答える。
「無理に名を掴ませるな。今は、残っているものを書かせろ」
「お前に言われるまでもない」
「なら、言われる前にやれ」
アスターは返さなかった。
「記録官、名は後だ。顔を思い出せる者、声を思い出せる者、服を見た者。全部書け」
「はい!」
女の隣にいた老婆が、震える手を上げた。
「黒い髪の男だったよ。背は高くない。女の荷物を持ってやっていた」
別の男が言った。
「革の袋を腰につけていた。中に釘が見えた。職人かもしれない」
「書け!」
アスターは叫び、すぐに処刑台へ向き直った。
今、助けられるのは一人ではない。
裂け目を塞がなければ、同じことが広場中で起きる。
それでも、女の泣き声は背中に刺さった。
「布を寄こせ」
アスターは兵から濡れた外套の切れ端を奪い取った。
井戸水を吸った布は重かった。
指の間から水が滴る。
「俺が詰める。灰を用意しろ」
「隊長!」
「手を離すな。俺が倒れたら引き上げろ」
アスターが穴の縁に膝をついた瞬間、レオンが舌打ちした。
「正面から詰めるな」
「ではどうする」
「裂け目の口に押し込めば、霧が手を食う。横から重ねろ」
アスターは白い石を見た。
溝の底に走る亀裂。
そこから噴く霧。
確かに、正面から押さえれば、霧が指に絡む。
「右の欠けからだ」
レオンが言う。
「石の割れが浅い。布をそこに噛ませろ。灰は後だ」
アスターは従った。
濡れ布を丸め、亀裂の右側へ押し込む。
じゅ、と音がした。
布から白い煙が立つ。
焼けているのではない。
濡れているのに、乾いていく。
指先が冷たくなった。
冷たいのに、痛い。
アスターは歯を食いしばる。
「押さえろ!」
ニコルとベンが縄で布を押し込む。
マルクも戻り、片手で石の縁を押さえた。
「下がれと言っただろう」
アスターが怒鳴る。
マルクは青い顔で笑った。
「手袋、両方あります」
「馬鹿が」
「マルク・ディーンです」
アスターは一瞬だけ息を詰まらせた。
「分かっている。押せ」
三人で布を噛ませる。
霧の勢いが、わずかに弱まった。
「灰」
レオンが言った。
アスターは白い灰の壺に手を伸ばしかける。
その手を、レオンが処刑台の横木で止めた。
「素手で触るなと言ったのはお前だろう」
「それは杖か」
「残骸だ」
レオンの手には、処刑台の壊れた横木があった。
「灰は布で包め。撒くな。風で名が散る」
「名が?」
レオンは黙った。
アスターはそれ以上聞かなかった。
壺の中の白灰を、裂いた布に移す。
灰は軽い。
だが、布越しでも重さがあるように感じた。
ただの灰ではない。
記録官がそちらを見ていた。
顔が真っ白になっている。
「見るな。書け」
アスターが言う。
記録官は慌てて筆を戻した。
アスターは布に包んだ灰を、濡れ布の上から押し当てた。
今度は、音がしなかった。
霧が灰に触れた瞬間、そこだけが鈍く白く濁る。
裂け目から噴き上がる糸が、一本ずつ切れていく。
だが、完全には止まらない。
「足りない」
アスターが言った。
「足りるわけがない」
レオンは冷たく返した。
「これは応急だ。白壁そのものを直しているわけではない」
「それを先に言え」
「先に言えば、お前たちが手を止める」
アスターはレオンを睨む。
レオンは穴の底から目を離さない。
「灰をもう一つ。右の札を抜け」
「札?」
「割れた札だ。役目をしていない。邪魔だ」
アスターは溝の縁を見た。
灰色に汚れた白い札が一枚、斜めに刺さっている。
表面は削られ、文字はほとんど残っていない。
ただ、端に一つだけ読める傷があった。
――ミ
それが名の一部なのか、ただの傷なのかは分からない。
近くには、同じように削られた札がいくつもあった。
どれも、誰かだった跡だけを残している。
アスターの手が止まる。
「抜け」
レオンが言った。
「これは、誰かの名だ」
「もう読めない」
「だから捨てろと言うのか」
「飾っておけば満足か」
レオンの声は低かった。
「その札は割れている。そこから霧が回っている。抜け」
アスターは札を見た。
削られた名。
読めない文字。
白い灰。
広場の端で、女がまだ上着を抱いている。
名を残すために、今ここで名の跡を抜く。
喉の奥が苦くなった。
「記録官」
「はい!」
「白い札一枚。端に、ミと読める傷。処刑台下、北の裂け目の右。抜去」
記録官は震えながら書いた。
「俺の名で書け」
アスターは言った。
「アスター・ヴェインが抜いた。そう書け」
レオンが、わずかに目を細める。
アスターは札を掴んだ。
冷たい。
石よりも冷たい。
引き抜いた瞬間、札の下から霧が噴いた。
「押さえろ!」
レオンの声が飛ぶ。
アスターは札を投げ捨てず、左手で握ったまま、右手で灰の包みを押し込んだ。
霧が手首に絡む。
耳元で、誰かの声がした。
――ミ……
呼びかけのようで、風のようでもあった。
アスターは奥歯を噛む。
「俺は、アスター・ヴェイン」
自分で自分の名を言った。
「王国騎士団、第一隊」
霧が手首を這い上がる。
「アスター・ヴェイン!」
マルクが叫んだ。
「アスター・ヴェイン!」
ニコルが続く。
「第一隊の隊長!」
ベンも叫ぶ。
「剣帯の締め方にうるさい!」
「余計だ!」
アスターが怒鳴る。
その声で、兵たちが笑った。
ほんの少しだけ。
霧が緩む。
アスターは灰の包みをさらに押し込んだ。
白い濁りが亀裂を覆っていく。
裂け目から噴く霧が、細い息になった。
まだ漏れている。
だが、広場へ這い出すほどではない。
レオンが言った。
「石を戻せ。隙間は布で埋めろ。上に板を置くな」
アスターは息を吐いた。
「なぜだ」
「同じ蓋をすれば、また下で腐る」
短い言葉だった。
だが、アスターには分かった。
隠せば終わりではない。
見えなくすれば、また同じことになる。
アスターは兵たちに命じた。
「石を半分だけ戻せ。裂け目が見えるように残せ。誰か、囲いを作れ。民を近づけるな」
「隊長、処刑台は」
アスターは壊れた板を見た。
そこには、血と靴跡と、さっきまでレオンを縛っていた縄の跡が残っている。
「燃やすな。使える板は囲いに回せ」
レオンが笑った。
「処刑台で民を守る柵か。趣味が悪い」
「お前ほどではない」
「まだだ」
レオンは広場の端を見た。
「終わっていない」
アスターも振り向いた。
男物の上着を抱いた女の周りに、人が集まり始めていた。
記録官が紙を広げ、声を張る。
「名不詳。黒髪の男。背は高くない。革袋。中に釘。左袖に焦げ跡。昨日、鍋。鼻で笑う癖」
「それ、東の修理屋じゃないか」
誰かが言った。
別の者が首を振る。
「いや、修理屋の息子だ。名前は……」
沈黙。
女が顔を上げた。
「息子?」
「母親が魚屋の裏に住んでる。腰が悪くて、いつも荷車を押してやってる男だ」
「名前は」
アスターが聞く。
男は額を押さえた。
「待ってくれ。出る。出るんだ。喉まで来てる」
周囲の者たちが、息を殺した。
鐘が鳴る。
一つ。
二つ。
男は拳で自分の胸を叩いた。
「ト……」
女が震えた。
「ト?」
「トマスじゃないかい」
老婆が言った。
女の目が見開かれる。
「トマス」
その名が、唇からこぼれた。
上着の袖口が、ふわりと揺れた。
そこには、誰もいない。
だが、上着の形が少しだけ変わった。
誰かの肩に掛かっていた形に戻るように。
女は泣きながら叫んだ。
「トマス! トマス・ベル! 釘袋を忘れる、鍋を焦がした、鼻で笑う、私の――」
声が詰まる。
「私の夫!」
周囲が復唱した。
「トマス・ベル!」
「釘袋を忘れる男!」
「鍋を焦がした!」
「鼻で笑う!」
「魚屋の裏の母親を助けてる!」
声が重なる。
霧が、女の足元から退いた。
上着の下に、ぼんやりと影が戻る。
完全な姿ではない。
腕の形。
肩の線。
人がそこに立っていたはずの空気。
女はその場所へ手を伸ばす。
触れられたかどうかは、分からない。
だが、彼女は確かに言った。
「いる」
アスターは胸の奥を押さえられたような気がした。
助かったのではない。
まだ、つなぎ止めただけだ。
それでも、消えきらなかった。
記録官が涙を拭う暇もなく、紙に書き足していく。
「トマス・ベル。魚屋裏。母、腰痛。釘袋。妻あり。左袖に焦げ跡」
アスターは頷いた。
「その紙を離すな。写しを三枚作れ。一枚は妻へ。一枚は騎士団へ。一枚は広場に貼る」
「はい」
レオンが、つまらなそうに言った。
「紙が好きだな」
「お前は何が好きなんだ」
「忘れることだ」
アスターは黙った。
その答えが本気なのか、嫌味なのか分からなかった。
処刑台の下では、霧が細く揺れている。
塞いだ裂け目の上で、白い灰が湿って固まり始めていた。
白い溝は、北へ伸びている。
アスターはその先を見た。
石畳の継ぎ目。
市場へ続く道。
王宮へ向かう大通り。
人々が毎日踏んでいた場所の下を、あの溝が通っている。
処刑台だけではない。
そう分かってしまった。
そのとき、広場の外から別の鐘が鳴った。
中央広場の鐘ではない。
北門の鐘だ。
一度。
間を置いて、二度。
騎士たちの顔が変わる。
「北門からです」
ニコルが言った。
「名落ちか」
アスターが問う。
遠くから馬の蹄の音が近づいてくる。
伝令の騎士が、広場へ飛び込んできた。
馬は泡を吹き、騎士の肩には白い霧が薄くまとわりついている。
「隊長!」
伝令は馬から転がるように降りた。
「北通りの石畳が割れています! 白い溝が出ました!」
広場が静まり返った。
伝令は息を継ぐ。
「溝の脇に、札が……削られた札が、いくつも」
アスターはレオンを見た。
レオンは驚いていなかった。
ただ、壊れた処刑台の板を踏み越え、広場の北へ向かって歩き出す。
「待て」
アスターが言う。
「どこへ行く」
レオンは振り向かない。
「蓋を外した」
「だから何だ」
「下が腐っていれば、匂いは広がる」
民衆がざわめく。
「また霧が出るのか」
「白壁は大丈夫なのか」
「黒き王子のせいだ」
その声を聞いて、レオンは足を止めた。
ゆっくりと民の方を見る。
民たちは、目を逸らした。
レオンは笑った。
「そうだ」
アスターの顔が強張る。
「何を言っている」
「俺のせいでいい」
レオンは壊れた処刑台を指した。
「怖いなら、そう叫べ。石を投げる相手がいる方が、名は言いやすい」
民衆の中で、誰かが震えながら息を呑んだ。
レオンは続ける。
「だが、叫ぶなら名も言え。隣の名も言え。名を忘れてから俺を恨むな。つまらない」
アスターはレオンの横顔を見た。
善人ではない。
民を慰める気など、欠片もない。
恐怖を使っている。
憎しみを使っている。
自分に石を向けさせて、民の足を止めている。
それが分かるからこそ、腹が立った。
「全員、聞け!」
アスターは声を張った。
「中央広場の裂け目は押さえた。だが、北通りにも白い溝が出ている」
悲鳴が上がりかける。
アスターは剣を掲げた。
「走るな。名を言え。隣の名を呼べ。言えない者を見つけたら、記録官のところへ連れていけ。顔、服、持ち物、場所、覚えていることを全部言え」
記録官たちが頷く。
「騎士団は二隊に分かれる。ベン、中央広場に残れ。マルク、記録官を守れ。ニコル、北通りへ来い」
「はい!」
アスターはレオンに近づく。
「お前も来る」
「お願いか」
「監視だ」
「言葉を選ぶのは上手くなったな」
「歩け」
レオンは肩をすくめ、北へ向かう。
その足元に、薄い霧が絡んだ。
だが、霧はまた触れる寸前で退いた。
アスターはそれを見た。
レオンが白壁を知っている理由。
霧がレオンに触れようとして、触れない理由。
処刑台の下の灰を、彼がためらわず使わせた理由。
何一つ、まだ分からない。
ただ、一つだけ分かった。
この男は、王都の下に隠されていたものを知っている。
そして、知らないふりをする気がない。
広場の外で、名を呼ぶ声が続いている。
「トマス・ベル!」
「オルガ・レス!」
「マルク・ディーン!」
「リタ・フェイル!」
誰かが誰かの名を呼ぶたびに、霧が少しだけ薄くなる。
それでも、白壁の方角から冷たい風が吹いた。
アスターは壊れた処刑台を振り返る。
中央には、白い石の溝が口を開けていた。
その脇に、削られた札が一枚、布の上に置かれている。
端に残った一文字。
――ミ
アスターは、それを見なかったことにできなかった。
「行くぞ」
彼は言った。
レオンは前を向いたまま答える。
「遅い」
二人は、鐘の鳴る北通りへ向かった。
背後では、処刑台の残骸で作られた粗い柵が、白い溝を囲み始めていた。
王都の真ん中に、隠されていた傷口が残った。
もう、板で蓋をすることはできなかった。
第3話まで読んでくださり、ありがとうございます。
処刑台の下にあったものが、少しだけ見えました。
レオンは何を知っているのか。
白壁の下には、ほかに何が隠されているのか。
次話では、北通りへ向かいます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




