第2話 枷を外せ
第2話です。
処刑台の上で、黒き王子は王都を救うと告げた。
鍵は、すぐそこにあった。
執行官の腰。
黒い革紐に通された、鉄の鍵束。
アスターが手を伸ばせば届く。
けれど、誰も触れなかった。
白壁は割れている。
灰色の霧は広場へ入り込んでいる。
人の名が、目の前で消えかけている。
それでも、処刑台の上の黒い王子を解き放とうとする者はいなかった。
「なりません」
執行官が言った。
声は震えていた。
それでも、手は鍵束を押さえている。
「その者は、陛下の命により処刑される罪人です。枷を外せば、王命に背くことになります」
王命。
その二文字は、白壁が軋んだあとでもまだ重かった。
アスターは剣を構えたまま、レオンを見た。
「お前が本当に王都を救えるという証は」
「ない」
レオンは即答した。
あまりに早かった。
「ないだと」
「あると思ったのか。俺は今から死ぬところだった」
軽い言い方だった。
広場の悲鳴と、少しも合っていなかった。
アスターの奥歯が鳴る。
「ふざけるな」
「ふざけている暇はない」
レオンは処刑台の上から広場を見た。
「泣いている者を見るな。声のない者を見ろ」
アスターは振り返った。
北門へ向かう人波の中で、男がひとり立ち尽くしていた。
若い男だった。
役所の下働きが着る、灰色の上着。
怪我はない。
血も流れていない。
ただ、口だけが動いていた。
声が出ていない。
隣にいた女が、男の肩を揺さぶっている。
「ねえ、名前は? あなた、名前は?」
男は自分の胸元を探った。
名守りはない。
役所の者は、木札を持たない者も多い。
名は台帳にある。
白壁の内側で働く者なら、それで足りる。
きっと、そう思っていたのだろう。
灰色の霧が、男の足元へ寄っていく。
「誰か、あの人の名を!」
アスターは叫んだ。
「名前を呼べ!」
返事はなかった。
男はまだそこにいる。
そこにいるのに、目を離せば見失いそうになる。
男の唇は、自分の名の形を探していた。
けれど、同じところで何度も止まる。
隣の女が男を見ている。
見ているのに、目が迷い始めている。
顔を忘れかけているのだ。
「遅い」
レオンが言った。
「黙れ」
「怒鳴る相手を間違えている」
アスターは霧へ向かって走ろうとした。
「行くな」
その声が、背中に刺さった。
アスターは振り返る。
「見捨てろと言うのか」
「今あの男にしがみつけば、列が止まる。列が止まれば、後ろの名が落ちる」
「人を数で見るな」
「今数えなければ、全部消える」
アスターの手に力が入る。
レオンは、泣いている子どもを見なかった。
転んだ老人も見なかった。
灰色の上着の男と、その周りだけを見ている。
「助けたいなら、叫べる者から行くな」
レオンは手枷を鳴らした。
「危ないのは、黙る者だ。自分の名を言えない者だ。隣の者の名を答えられない者だ」
ひどい言い方だった。
けれど、広場を見れば分かった。
本当に危ない者ほど、騒がない。
助けてくれとも叫ばない。
ただ静かに、薄くなっていく。
アスターは剣を下ろした。
執行官が息をのむ。
「レインハルト卿」
「記録官」
アスターは振り返らずに言った。
「書け」
帳簿を抱えた記録官が、青い顔を上げた。
「何を、ですか」
「アスター・レインハルトが、王命に背き、罪人レオン・アーヴェルトの枷を外した」
執行官が叫ぶ。
「なりません!」
「俺の名で書け」
アスターは言った。
「責は俺が負う」
記録官の手が震えた。
処刑の記録に、処刑を止めた騎士の名を書く欄などない。
それでも彼は、帳簿の端に書いた。
アスター・レインハルト。
その字を見て、レオンが小さく笑った。
「自分の名は、ずいぶん簡単に残すんだな」
「黙っていろ」
「鍵が先だ」
アスターは執行官の腰から鍵束を取った。
執行官は止めようとした。
けれど、止めきれなかった。
王命。
処刑。
霧。
白壁。
逃げ惑う民。
何を先に守るべきか、もう誰にも分からなかった。
アスターは処刑台へ上がった。
レオンは逃げようとしない。
両手を前に出し、枷を見せる。
「逃げれば斬る」
「聞き飽きた」
「民を傷つけても斬る」
「それは場合による」
アスターの手が止まった。
「場合による?」
「一人を押しのけなければ十人が詰まる時、お前はどうする」
「押しのけない道を探す」
「間に合わなければ?」
「それでも探す」
レオンは笑った。
薄い笑みだった。
楽しそうではなかった。
「だからお前は白い」
「お前は黒すぎる」
「見分けやすくていい」
鍵が回った。
錆びた音がした。
ひとつ目の枷が外れる。
レオンの右手が自由になった。
手首には黒い跡が残っていた。
古い傷の上に、新しい傷が重なっている。
王子の手には見えなかった。
レオンは指を一度だけ開き、閉じた。
逃げない。
走らない。
自分の手がまだ動くことを確かめているようだった。
二つ目の枷も外れた。
重い鉄が、白い石の上に落ちる。
レオンは自由になった両手を見た。
それから、足元を見た。
白い石に刻まれた白壁の紋。
朝から磨かれていたはずの溝の一部だけが、灰色に湿っている。
アスターはその視線に気づいた。
聞く前に、レオンが顔を上げた。
「剣は向けたままでいい。信用した顔をされる方が気分が悪い」
「誰がするか」
「それでいい」
レオンは処刑台の端へ歩いた。
一歩目だけ、足元が揺れた。
長く閉じ込められていた身体は、自由になった途端に軽くなるものではないらしい。
レオンはすぐに姿勢を戻した。
アスターは見ていた。
見なかったことにした。
「北門の鐘を鳴らせ」
レオンが言った。
「十息に一度だ。早すぎれば名を言う間がない。遅すぎれば、その前に落ちる」
「霧を払うのか」
「違う」
レオンは短く答えた。
「悲鳴を止める。名が聞こえない」
「それで助かるのか」
「落ちるのを遅らせる」
レオンは花売りの屋台を見た。
「聞いた名は、その場で繰り返させろ。それから、もう一人に言わせろ。ひとりしか知らない名は、すぐ落ちる」
アスターはミナを見た。
北門へ運ばれながら、少女は自分の名を何度も口にしている。
「ミナ・ローヴェル」
そばの騎士が繰り返す。
「ミナ・ローヴェル。西門の花売り」
アスターは息を吸った。
「北門の鐘を鳴らせ!」
騎士が走る。
「十息に一度だ! 鐘が鳴ったら黙れ! 自分の名を言え! 隣の者の名を聞け! 聞いた名を、その場で繰り返せ! それから、もう一人に言わせろ!」
騎士たちは戸惑った。
民衆も戸惑った。
それでも、白騎士の声は広場に届いた。
最初の鐘が鳴る。
乾いた音が、広場を打った。
悲鳴が、ほんの一瞬だけ切れる。
その隙間に、アスターは叫んだ。
「名を言え!」
最初に答えたのは、パン屋だった。
「ガルド! 三番通りのパン屋、ガルドだ!」
隣の女が震えながら繰り返す。
「ガルド。三番通りのパン屋」
「セリア、ガルドの妻!」
「セリア。ガルドの妻」
別の男が、さらに声を重ねる。
「ガルドとセリア、三番通りのパン屋夫婦!」
鐘が鳴る。
名が呼ばれる。
別の口が、同じ名を繰り返す。
霧の先が、わずかに乱れた。
奇跡ではなかった。
霧は消えない。
白壁の亀裂も塞がらない。
それでも、足元が薄くなっていた者の輪郭が、少しだけ戻った。
アスターはレオンを見た。
レオンは笑っていなかった。
「次は」
アスターは言った。
「何をする」
「書ける者を集めろ」
レオンは処刑台の脇にある記録机を指した。
「記録官だけでは足りない。役人、商人、店の帳簿係。字が書けるなら子どもでもいい」
「何を書かせる」
「名だ」
「分からない者は」
「顔を見ろ。服を見ろ。持ち物を見ろ。誰が何を覚えているか言わせろ」
「名前でなくてもいいのか」
「名前が戻るまでの手がかりにはなる」
レオンは北門近くで輪郭を失いかけている、灰色の上着の男を見た。
「紙が霧を止めるわけじゃない。人が思い出して、声に出す。その声がいる」
アスターは黙った。
「記録は後だ。まず声だ」
レオンは言った。
「誰か、あの男を見たことがある者はいないか。名が分からなくてもいい。服でも癖でも、持っていた物でもいい。何か言え」
広場は一瞬、戸惑った。
それから、焼き菓子の屋台の女が顔を上げた。
「その人」
声が震えていた。
「名前は知らない。でも、朝に水桶を運んでくれた人です。左手で。右手を少し痛めているみたいで」
灰色の上着の男の足元で、霧が止まった。
ほんの少しだった。
靴の先が、石畳の上に戻る。
男の喉が震えた。
声にはならない。
名も戻らない。
それでも、消えなかった。
「今のを書け」
レオンが言った。
記録官とは別の男が、慌てて紙に書きつける。
名不詳。
灰色の上着。
役所の下働きと思われる。
北門近く。
朝、水桶を運んだ。
左手を使う。
右手を痛めている可能性。
「名不詳?」
アスターが聞いた。
「名がまだ分からない者だ」
レオンは短く答えた。
「何も書かなければ、あとで誰も探せない」
記録官が息をのんだ。
彼の隣には、誰も座っていない椅子がある。
机の上には、まだ乾いていない羽根ペンが転がっている。
そこにいたはずの誰か。
名前も、顔も、誰も思い出せない者。
レオンはその椅子を見た。
「それも書け」
記録官の手が止まった。
「しかし、名が」
「だから名不詳と書け」
「何を書けば」
「椅子。羽根ペン。お前の隣にいたこと。それだけだ」
レオンの声は低かった。
「何も書かなければ、残らない」
記録官は震える手で、帳簿に書いた。
名不詳。
処刑記録補佐と思われる者。
記録官の隣席。
羽根ペン一本を残す。
たったそれだけだった。
だが、そこに何かが書かれた瞬間、空いていた椅子が、ただの椅子ではなくなった。
誰かがいた場所になった。
広場の空気が変わった。
誰かが叫んだ。
「あの子は南通りの仕立屋の娘だ! 名は知らない、でも赤い糸をいつも髪に結んでる!」
「そこの老人は魚市場で見た。右耳が聞こえない!」
「その子、ミナから花を買ってた。母親の墓に持っていくって言ってた!」
名の代わりに、断片が飛び始めた。
顔。
癖。
服。
声。
誰かと交わした、短い言葉。
名ではない。
けれど、何もないよりは強かった。
アスターの背筋に、ぞくりとしたものが走った。
これは祈りではない。
奇跡でもない。
人が人を、無理やりこの場に引き留めている。
「広場の出口をひとつにしろ」
レオンが言った。
「北門だけを開ける。ほかは閉じろ」
若い騎士が顔を上げた。
「閉じるのですか。民がまだ」
「名を聞く者と書く者を北門に集める。四方に逃がせば、誰が出たか分からなくなる」
レオンは言った。
「北門で名を言わせろ。言えた者から通す。言えない者は脇へ寄せる。ひとりにするな。知っている者を探せ」
「門の前で詰まるぞ」
アスターが言った。
「人が押せば、名を言えない者から潰れる」
「だから脇へ寄せる。列に混ぜるな。二人つけろ」
「言えない者を、門の脇に置くのか」
「列に戻せば潰れる。放せば消える。脇に置いて、名を知る者を探せ」
アスターはレオンを睨んだ。
腹立たしい。
腹立たしいほど、間違っていない。
「北門以外を閉じろ!」
アスターは叫んだ。
「通る者は名を言え! 隣の者が繰り返せ! 言えない者は脇へ寄せろ。ひとりにするな。知っている者を探せ!」
騎士たちが動く。
鐘が鳴る。
名が呼ばれる。
記録机に、人が集まり始める。
「ガルド、三番通りのパン屋」
「セリア、ガルドの妻」
「ミナ・ローヴェル、西門の花売り」
「名不詳、灰色の上着の男。北門近く。左手で水桶を運んだ者」
名のある者。
名を落としかけた者。
名がまだ分からない者。
それらが、同じ紙の上に並んでいく。
レオンは誰の名も呼ばなかった。
ただ、枷の跡が残る手首をさすりながら、白壁を見上げている。
亀裂は塞がっていない。
霧も消えていない。
王都はまだ救われていない。
それでも広場には、さっきまでなかったものがあった。
鐘。
名を呼ぶ声。
名不詳と書かれた者たちの記録。
そして、黒い王子に命じられた白騎士が、それを守っているという事実。
アスターは剣を握り直した。
「次は」
レオンは白壁から視線を戻した。
「処刑台を壊せ」
広場の音が、また変わった。
執行官が目を見開く。
記録官のペンが止まる。
近くの騎士たちが、何を言われたのか分からない顔をした。
アスターも同じだった。
「処刑台を?」
「そうだ」
「何のために」
レオンは足元を見た。
朝から磨かれた白い石。
古い血の色を、継ぎ目の奥に沈めた処刑台。
そこに刻まれた白壁の紋。
その溝の一部だけが、灰色に湿っていた。
アスターも気づいた。
霧は白壁の亀裂から流れ込んでいる。
そう思っていた。
だが、処刑台の上にも霧がある。
石の継ぎ目から、細く、にじむように。
「下から出ている」
アスターは言った。
レオンが口の端を上げた。
「ようやく見たか」
「なぜ分かった」
「霧は高いところから降りていない。人の足元から先に食っている」
レオンは黒い枷の落ちた白い石を、靴先で軽く叩いた。
「この下に、霧の通り道がある。処刑台が蓋になっているだけだ」
「蓋を壊せば、余計に霧が出るんじゃないのか」
「壊さなければ、中を塞げない」
レオンは白壁を見上げた。
「名を書くだけでは追いつかない。入口を塞ぐ」
白壁が、また軋んだ。
三日という言葉が、広場の誰の耳にも残っていた。
そして王都を救う最初の一日は、処刑台を壊すところから始まった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次話では、処刑台の下に隠されたものへ踏み込みます。
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