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名を失くす国の黒き王子  作者: 梓水あずみ


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第1話 処刑台の黒き王子

はじめまして。


これは、名を奪われる国で、悪役として生きることを選んだ王子の物語です。



 処刑台は、朝から磨かれていた。


 白い石に水を撒き、布で拭き、白壁の紋に詰まった砂まで細い刷毛で掻き出す。

 血の跡など、最初からなかったように。


 それでも、石の継ぎ目に沈んだ古い色までは落ちていなかった。

 誰も、そこを見ないだけだ。


 王都中央広場には、昼前から人が集まっていた。


 パン屋は店を閉めていた。

 魚屋は、まだ鱗のついた手で、首から下げた薄い木札を握っていた。

 木札には、妻と子の名が細く刻まれている。

 王都の者はそれを、名守りと呼ぶ。


 屋台の女は、売り物の焼き菓子に布をかけたまま、処刑台を見ていた。


 子どもを肩に乗せた父親もいた。

 子どもは処刑台ではなく、その向こうにそびえる白壁を見上げている。

 処刑台の意味は、まだ分かっていない。


 誰も笑っていなかった。


 祭の日より人は多い。

 けれど、広場は祭ではなかった。


「第三王子などと呼ぶな」

「災いだ。あれは」

「王家の恥さらしめ」


 罵声の中で、ようやく本来の名を呼ぶ者がいた。


 レオン・アーヴェルト。


 その名だけが、広場に少しも馴染まなかった。


 白い処刑台の上に、黒衣の少年が立っている。

 黒い髪。黒い衣。黒い手枷。

 王家の血を引く者のはずなのに、王家の側にいる者には見えなかった。


「殺せ!」


 誰かが叫んだ。


「黒き王子を殺せ!」

「あいつのせいで白壁が揺れるんだ!」

「今日で終わらせろ!」


 石を拾った男がいた。

 投げる前に騎士に腕をつかまれ、舌打ちをして石を落とす。


 老婆は、家族の名を刻んだ名守りを握っていた。

 強く握りすぎて、指先が白くなっている。

 刻まれた名を、何度も親指でなぞっていた。


 アスター・レインハルトは、処刑台の下でそれを見ていた。


「白騎士様だ」


 前列のどこかで、女が小さく言った。


 その隣にいた少年が、母親の袖を引く。


「知ってる人?」


「この前、西門で助けてくれた騎士様だよ。あんたの名も覚えてくれてた」


 アスターは聞こえないふりをした。


 白銀の鎧は、朝の光を受けてよく目立つ。

 民の何人かが彼を見つけると、少しだけ表情をゆるめた。


 けれど今日、彼の役目は誰かを助けることではなかった。


 罪人を処刑台まで連れてくる。

 刑が終わるまで、目をそらさない。

 必要なら、最後の抵抗を斬る。


 それだけだ。


 たとえその罪人が、王の血を引いていても。


 広場の端に、花売りの少女がいた。


 小さな屋台に、白と黄色の花を並べている。

 昨日、アスターに白い花を売りつけた娘だ。

 銅貨二枚の花を三枚だと言い張り、最後には「騎士様なら、花の一輪くらい買ってくれるでしょ」と笑った。


 ミナ・ローヴェル。

 西門の花売り。


 アスターは、その名を覚えていた。


 アスターは一歩前に出た。


「レオン・アーヴェルト第三王子」


 名を呼ばれ、黒衣の少年がこちらを見た。


 長く幽閉されていた者の目ではない、とアスターは思った。

 暗がりに慣れた目でもない。

 死を恐れる目でもない。


 静かだった。

 静かすぎて、かえって気味が悪い。


「王命により、これより刑を執行する」


 レオンは笑った。


 喉の奥で小さく笑う。

 大声でもなく、嘲りでもない。

 つまらない芝居を見せられている客のように。


「律儀だな、騎士」


「俺には名がある」


「知っている」


 レオンは、手枷のついた両手を少し持ち上げた。


「だから呼ばない」


 アスターの眉が、わずかに寄った。


 この男は、いつもそうだ。

 人を名で呼ばない。


 騎士。

 王。

 聖女。

 お前。

 そこの女。

 赤い外套。

 左手の兵。


 まるで、名を口にする価値もないと言うように。


「最後に言い残すことはあるか」


 アスターが尋ねると、レオンは広場を眺めた。


 罵声を浴びているのに、怯えた様子はない。

 むしろ、退屈そうだった。


「よく来たな」


 レオンは言った。


「俺が死ぬところを、そんなに見たいか」


 広場が荒れた。


「黙れ!」

「化け物!」

「王家の面汚し!」


 レオンは口元だけで笑った。


「安心しろ。俺が死んでも、お前たちの明日は大して変わらない」


「レオン」


 アスターは低く言った。


 これ以上、民を煽るな。

 そう言うつもりだった。


 だが、レオンはアスターを見ていなかった。


 彼は広場の向こうを見ていた。

 王都を囲む、巨大な白壁を。


 白壁は今日もそこにあった。

 朝の光を受け、何事もない顔で立っている。


 白壁があるかぎり、霧は入らない。

 白壁があるかぎり、朝には店が開く。

 鐘が鳴る。

 家へ帰れば、昨日と同じ名で呼ばれる。


 王都の子どもは、そう教わる。


 その壁に、細い線が走った。


 最初、アスターは鳥の影かと思った。

 だが違った。

 白壁に傷が入っている。


 広場の大半は気づいていない。

 処刑人は剣を持ち直し、合図を待っている。

 民衆はまだレオンへ罵声を投げていた。


 先に声を上げたのは、処刑台の脇にいた記録官だった。


「……おかしい」


 記録官は帳簿を見ていた。


 処刑の立会人。

 護衛の数。

 罪状。

 執行順。


 彼の指が、紙の上を行ったり来たりしている。


「二十七……いや、二十六?」


「どうした」


 アスターが振り返る。


「いえ、さきほどまで」


 記録官は隣の椅子を見た。


 空いている。


 だが、机の上には羽根ペンが一本転がっていた。

 ペン先には、まだ乾いていないインクがついている。

 椅子は半端に引かれていた。

 つい今しがた、誰かが立ち上がったように。


「私は、ひとりで記録を取っていましたか」


 記録官はそう言った。


 その顔から、血の気が引いている。


「もう一人、いたはずなんです。ここに。私の隣に」


 広場のざわめきの一角が、すとんと落ちた。


 同時に、若い騎士が剣帯を落とした。


 革が石畳を打つ音に、アスターは振り向く。


 騎士は自分の腰を見下ろしていた。

 剣帯はひとつ、ちゃんとそこにある。

 落ちたものは別の剣帯だった。


「隊長」


 若い騎士が、かすれた声で言った。


「俺は、誰と組んでいましたか」


 アスターは返事ができなかった。


「東側を見ていたんです。俺は、誰かと。けど、顔が出てこない。名前も……」


 若い騎士は、落ちた剣帯を拾い上げた。


 革の内側に、名前が刻まれていたらしい。

 だが、そこだけ白く削れている。


「これ、誰のですか」


 誰も答えない。


 周りの騎士たちは互いの顔を見る。

 誰か足りない。

 足りないことだけは分かる。

 だが、その穴の形が分からない。


 広場の端で、木札が落ちた。


 花売りの屋台だった。


 少女が、屋台の前に立っている。


 木札には店の名が書かれていたはずだ。


 ――ミナの花屋。


 けれど今、木札から「ミナ」の文字だけが抜けている。

 白く削られたように、そこだけ何もない。


「わたし」


 少女が口を開いた。


「わたしの、名前」


 声がそこで止まる。


 白壁の線が裂けた。


 灰色の霧が流れ込む。


 煙のように渦を巻くわけではない。

 火のように熱を持つわけでもない。

 獣のように吠えるわけでもない。


 ただ、低く、静かに、石畳の上を這ってくる。


「北門を開けろ!」


 アスターは叫んだ。


「子どもを先に通せ! 押すな、転ばせるな! 名を呼びながら連れていけ、ひとりにするな!」


 騎士たちが動く。


 誰かが逃げろと叫んだ。

 けれど、どちらへ逃げればいいのか分からなかった。


 霧は追ってこない。

 襲ってこない。

 ただ、触れた者のまわりから、先に声が消えていく。


 石を拾っていた男は、手の中の石を眺めていた。

 なぜそんなものを握っているのか分からない顔をしている。


 名守りを握っていた老婆は、木片に刻まれた名を見下ろして動かない。

 ひとつだけ、名が薄れていた。

 老婆はそれを親指でこすった。

 誰の名だったか、思い出せない顔をしていた。


 記録官は、白く抜けた帳簿の行を何度も指でなぞっている。


 霧が、花売りの少女の足元へ伸びた。


 少女は泣いていなかった。

 まだ、何をなくしかけているのか分かっていない顔だった。

 ただ、自分の中の大事な場所に穴が空いて、その穴を手で押さえるように胸元を握っている。


 アスターは走った。


「ミナ!」


 叫んだ。


 霧は止まらなかった。


 アスターは歯を食いしばった。


「ミナ・ローヴェル! 西門の花売りだ!」


 アスターは息を吸った。


「昨日、俺に白い花を売った。銅貨二枚の花を、三枚だと言い張った。弟はロイ。母はエルザ。お前はここにいる!」


 少女の指が、ぴくりと動いた。


 霧の先が、少女の靴先でためらった。

 それから、石畳一枚分だけ引いた。


 少女の喉が震える。


「ミナ……」


「そうだ。言え」


「ミナ、ローヴェル」


「もう一度」


「ミナ・ローヴェル」


 アスターはそばの騎士に少女を預けた。


「北門へ。名前を呼び続けろ。ひとりにするな」


「はっ」


 処刑台を振り返る。


 レオンはまだそこにいた。


 民が逃げ、騎士が怒鳴り、記録官が帳簿を抱え、白壁が軋んでいる。

 その中で、黒い王子だけが笑っている。


「やるじゃないか、騎士」


 レオンは言った。


「鎧だけの男ではなかったか」


 アスターは剣を抜いた。


「知っていたのか」


「何を」


「名を呼べば、霧が退く」


 レオンは花売りの屋台を見た。


「先に消えるのは、誰にも呼ばれないやつだ」


 そして、少し笑った。


「この国らしい順番だろ」


「レオン!」


「俺の名だけは、ずいぶん呼ぶんだな」


 アスターは剣先をレオンの喉元へ向けた。


「お前は何を知っている」


 白壁から、低い音がした。


 石が泣くような音だった。


 亀裂が広がる。

 灰色の霧が、空へも薄く伸びていく。

 広場の悲鳴が少しずつ減っていた。


 静かになっているのではない。

 叫ぶ理由を忘れている。


 レオンは白壁を見上げた。


 手枷の鎖が、小さく鳴った。


 笑みが消える。


「……早いな」


 小さな声だった。


 アスターは聞いた。


「早い?」


 レオンはすぐに口元を戻した。


「三日だ」


「何が」


「三日で王都は沈む」


 アスターの手に力が入る。


「白壁はもう、祈りでは塞がらない」


「何を根拠に」


「俺を殺せばいい。三日後には、根拠も残らない」


「ふざけるな」


「そう思うなら殺せ。三日後に、まだ俺の名を覚えていられたらな」


 民衆の悲鳴。

 騎士たちの怒号。

 白壁の軋む音。

 灰色の霧。


 その真ん中で、レオンは手枷を持ち上げた。


「枷を外せ」


 近くの騎士が叫んだ。


「なりません! その男は災いの――」


 声が止まる。


 災いの何だったか。

 王子か。

 罪人か。

 化け物か。

 言葉が喉の奥で絡まり、騎士は口を開けたまま固まった。


 レオンはその騎士を一瞥した。


「好きに呼べばいい。そうやって、本当の名から落としていく」


 アスターは剣を握りしめた。


「誰がお前を信じる」


「信じろとは言っていない」


 レオンは笑った。


「使え」


 白壁が、またひとつ割れた。


 広場の空気が震える。

 逃げる者の足音が乱れ、誰かが転び、誰かがその名を呼ぼうとして失敗した。


 レオンは手枷を掲げたまま、処刑台の上からアスターを見下ろした。


「俺を解放しろ。三日で王都を救ってやる」

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


よろしければ、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

次話では、レオンが「三日で王都を救う」と言った意味が少しずつ明らかになります。

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