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どぐらす  作者: 藻翰
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3/5

遠近の人


大変お待たせ致しました。

三話目です。


もしよければ、ブックマークや★★★★★のポチもお願いします。(今ならあなたが一番です!(笑))


作者が喜びます



 カラァン


 不思議と懐かしさを覚える音が私を店に迎えてくれる。


 ふと、人の気配に目尻が緩む。


「らっしゃい、ゆっくりどうぞ」


 奥というほどの所ではないが、女性の声でそう言われた。


 小さな会釈をして、店内を軽く見回す。

 色々な眼鏡があって、自分がいまかけている眼鏡がとても古くなっていることに今更気が付いた。



 それは、一月ほど前の事。

 会社の休憩室から出て来る女性社員が何気なく言っている言葉だった。


「えー、遠近にしたの?」

「そうそう。慣れが必要だって言われてね。ま、すぐに慣れたんだけど、使い慣れたら、もう手放せないぐらい便利で」

「そうなの?私はコンタクトだから、眼鏡はさ、耳痛くなるからあんまり好きじゃないのよ」

「わかるー。でも、朝楽よ?」

「え、マジで?」

「マジ、マジ。外し忘れもないし、眼鏡は眼鏡でやっぱりいいよ?」


 私は飲み終えたコーヒーの缶を捨てに来たのだが、悪いと思ったのか会釈をされたら、一気に静かになってしまった。

 少しばかりの申し訳なさと、気にしないでいいのにという気持ちが混じる。

 ただ、若い社員と不用意に話すのは、今は何かと気を遣う。


「遠近の、眼鏡……か」


 女性社員が言っていた遠近眼鏡という単語をあとになってスマホで調べてみると、なかなか面白そうな眼鏡だという事は分かったのだが、そのまま記憶の片隅に置いておいた。


それから少し経った日。

いつもの様に新聞を読もうとしたら、小枠欄の辺りがぼやけすぎて、眼鏡を上の方へ外そうとしたところを見た妻がボソッと言った。


「あら、あなたも老眼が始まったのね」


 中年と呼ばれる年齢になり、息子も娘もそろそろ社会に出る。

自分なりに頑張ってきたつもりだったが、体は正直だった。


 手元が見づらい。


 何も言い返せず、ただ飲み込むしかなかったのだが、最近妻の週末は忙しく、私を一人で放り出す。


「私は、友達と演劇を見にいってきます。子供達には各自夕飯まで食べて来て貰うので、お父さんもお一人でどうぞ」

「え?そうなのか。……そうか、じゃあ適当に済ませるよ」

「ええ、お願いします」


 仕事と言い訳をして、家の事を放っておいたツケだとも理解している。


いつもと変わりない会話だが、弱みを見せるのは癪だ。


 妻が家を出た。

すると、家の中が一気に静かになる。


「駅前……だと、誰かに見られるか?だからと言って、大きな駅まで行くのも……面倒だが」


この後の昼も夜も、どうにかしないといけない。

小さなプライドと、この静かな家に一人でいる事が何とも嫌だった。

仕方なく財布を持って逃げるように家を出た。


 だが、不思議なものでいつもの感覚なのか勝手に自分の足が駅へと進む。


 毎日の通勤経路の景色は一緒だが、歩く人の速さが違った。


 ふと、思い立ったキッカケは分からない。

でも、いつもは降りない駅で降りた。


 知らない駅で若干途方に暮れていると、視線を感じた。


 看板横のフクロウの目は優しさと厳しさが混ざっていて、キュッと心臓を掴まれたような気持ちになり、それをきっかけに入った。


 今かけている眼鏡は……どうやってきめたんだったかな?

 学生時代のモノではなく、社会人になってから買った事は覚えているが、記憶は曖昧だった。


「あの、遠近?を使ってみたいんですけど」


 分からない時は、出来るだけ早めに聞いた方がいい。

 会社の先輩が自分に言い聞かせていた言葉が蘇った。

 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。


「遠近両用ですか。使ったことはありますか?」

「いえ、恥ずかしながら……」

「別に恥ずかしい事ではないですよ。えぇと、それでしたら眼科さんなどで、数字は出して貰っていない感じですかね?」

「ああ、そうなりますね」


 女性店員はそうですか、と、言うとなにかを考えている様子。


 眼鏡を選びに戻るのも、このままもう少し話をするのも、どちらが正解か分からない様な微妙な状態でいると、もしよければと眼鏡を渡して欲しいと言われた。


「はい、どうぞ」


 眼鏡がなくなると視界は一気にぼやけた。

 ぼやけたのだが、何故か安心したような気分にもなる。


「なるほど。そこまで度数は強くない感じですね。簡易検査ですが、数字を計る事も出来ますが、どうします?あ、勿論無料ですよ」

「じゃあ、お願いします」


 女性店員は頷き、眼鏡を返してくれる。

 視界が鮮明に戻る。


 脇の方にある機械。

 女性店員が消毒をしてくれて、言われた通りに顎を乗せる。


「昔と違って、今は機械がかなりやってくれるんですよね。そのまま画面を見ていてもらえますか?」

「分かりました」


 気球が飛んでいる絵がぼやけて、ピントがあってくっきり見えたかと思ったら、ぼやけた。

 何をしているのかはわからなかったが、自分の視力を機械が測定してくれているのがなんとなく分かった。


「はい、ありがとうございます。そうですね、今かけている眼鏡で見えづらいとかはなさそうですね。で、老眼というよりは、近い所のピント調節が弱くなっているのも、数値として出ていますね」


 自分がいくら認めなくても、体はやはり正直みたいだ。


 機械が吐き出した一枚の紙には数字しか見えないが、色々とその道の人なら分かるらしい。


「その眼鏡は、フレームレスタイプですけど、こだわりとか、あるんですか?」


 自分の眼鏡がフレームレスタイプだという事を今更知った。ただ、ずっとこれをかけている気がする。


「あ、いえ。なんとなく……ですね」

「そうですか。遠近両用は人を選ぶというか、人によってはいつまでも慣れない人もいらっしゃるので、どうにも合わないという場合は、使わない選択肢も念頭に置いてという感じになるのと……」


 言いながら、女性店員は言葉に詰まるのだが、一枚の紙を用意すると分かりやすく説明をしてくれる。


「単純に、一つの眼鏡に二つのレンズを入れるような感じだと思って頂けると、簡単なんですけど、わかります?」

「上と下に別々のレンズって事ですよね?」

「ええ。遠くを見る用が上で、近くを見る用が下で。そして、一枚にどちらも組み込もうとするので、レンズの高さがあればあるほど使い易くなるんです」

「なるほど。でも、レンズの高さ?」

「お客さんのようなフレームレスだとどうしても高さは低めが多いんです。それこそこれはちょっと大げさですけど、こういった……黒縁のようながっちりしたタイプだと高さがこう、あるの……分かりますかね?」


 説明を聞く限り、横から見た薄い煎餅とぷっくらした温泉饅頭のような高さの違いで、見える範囲が変わるらしい。

大きいレンズであればあるほど、つかいやすいと理解できた。


「流石に黒縁は……ねぇ」

「そうですか?似合っていますよ?」

「えぇ?」


 ああ、そういえば学生の頃は黒縁で、ガリ勉だと揶揄われたのが嫌で、大人になってから言われないようにと、今の眼鏡を選んだことを突然思い出す。

 少しばかり苦い思い出が拒否反応を示すが、女性店員は気にした様子もない。


「まあ、オススメというより、遠近両用をはじめるのであれば、高さのあるものからの方が慣れやすいと理解いただいたうえで、選んで貰えると助かります」

「分かりました。ちょっと、何個か選んでみますね」


 自分なりに店内を再び回りながら、色々な眼鏡を手に取ってみると、細く高さの無いモノばかりを選ぶ傾向にあるという事を実感したが、どうしても最初に言われたような黒縁は嫌な気がする。


「メタルフレームだと、どうしてもオジサンっぽいとか言われる可能性もありますが、フレームレスの方が時折かける分には、そこまで違和感なく見てもらえると思いますが、いかがです?」


 女性店員が進めてくれるコーナーは言われる通り、やや歳のいった高齢な人がかけそうな色合いとも思えたが、かけてみた自分を鏡で見てみると、そこまで変な感じはない。


「金色のフレームとかだと、派手さもありますが、最近のメタルフレームは耳にかかる部分もかなり柔らかいので、一昔前よりは、つかいやすくていいんですよね」


 いわれるまま触ってみると、自分の眼鏡より幾分柔らかい。


 最終的に二種類のフレームまで絞ることが出来たが、メタルフレームとがっちりとした黒縁の二択。

 なんとなく、女性店員の優しい言葉で、黒縁の嫌な印象が薄れていて、気持ちが前向きになるような気もすると、選びたい気持ちが湧いてきた。


「店員さんのオススメは、この二つだったら、どっちになります?」


 自分で決める事が出来そうになくなって、助けを求めるように聞いてみる。


「黒縁と、メタルフレームですか。でしたら、メタルフレームですね」


 黒縁を褒めてくれたのと、値段的にたった千円でも黒縁の方が高かったので、そちらを推すかと思っていた自分としては盛大な肩透かしだった。


「お客さんは、フレームレスをつけているので、黒縁が視界に入ると、気になっちゃう可能性がありますね。それに、初めての遠近を作るとなると、見え方が色々と増えてきて、脳も疲れやすいので、フレームが目に入ると、気にしたくなくても気にするようになる可能性もあるので」


 総合的に見て、そういう判断を女性店員がしてくれたこと。

 会社の若い子と同じぐらいに見えるが、意見をしっかりと言ってくれたことが自分としてはキッカケで。


「じゃあ、このメタルフレームで、遠近両用をお願いできますか?」

「ええ、分かりました。レンズが一週間ぐらいかかるので、大目に見て二週間後……って、お急ぎですか?」

「いえ、急ぎではないので、二週間後にじゃあ、また来ますよ」


 二週間先に予定が入ったのは、仕事以外だといつぶりだろう?





 カラァン


 店と同じ音だが、涼しさは若干こちらの方が上の気がする。


「日替わりお願いします。因みに、今日は?」

「から揚げですね」


 自分でおしぼりを勝手に取って、おもわず顔を拭く。


「えぇ、こんな暑い日に?」

「レモンおろしたっぷりの、変わり揚げなのですよ」


 今朝は遠近用レンズがやっと届き、注文の眼鏡を作ることが出来た。

私としてはかなり気を遣う仕事をした午前。


 一仕事終えて、お店をしめて少しの我慢をしながら坂を上って。

 少し待っていると出てきたのは思っていたものとはかなり違う、面白い定食。

 鳥に豚、それに野菜にも薄い衣が纏っていて、カリッとサクッとした食感と噛むと中から旨味がジュワっと。いつもはしないご飯のおかわりをするほどには美味しいランチ。


「田中さんのランチ、いっつもおいしいです」

「それはよかったです。少し遅かったのは、来客ですか?」

「いえ、レンズが届きまして。遠近用の眼鏡をこの間購入頂いて。数日後には来ると思いますが、慣れてもらえると……いいんですけどね」


 こればっかりは、お客さんの資質に任せるほかない部分がどうしてもあります。


「使い慣れると、かなり便利なんですけどね」


 そういえば、田中さんの眼鏡は遠近だと思い出す。

「ええ。境目をあえて見ないことが出来れば、そこからは早いんですよね」


 お客さんに勧める以上、自分も使ってみるといいといわれて、私も一つ持っているのだが、慣れるまでが結構大変だったことを思い出す。


「早い方だと一週間。まあ、多少の時間がかかっても一月ぐらいで慣れないと……」

「ですね。それでも、慣れるまで使うって昭和の根性論で貫き通しちゃった人もいましたけど、あの人は……まあ、トクベツですね」


 私が苦笑いすると、田中さんも小さく頷きを返してくれた。


「食後のコーヒーは、どうします?」

「眠気覚ましに、ちょっと甘めで。あと水筒にアイスコーヒーも貰えます?」

「ええ。冷蔵庫に用意があるので、水筒を借りますよ」


 物がほとんど入っていない手提げかばんから水筒を渡す。


「この暑さでココにまた来るのは面倒だと思うので、使い捨て容器に冷やしたカットフルーツを入れておきますよ。忘れずに、冷蔵庫に入れて後で食べて下さい」

「あー、すっごく助かります」


 忘れないように三時過ぎにアラームの設定と水筒にポストイットを貼る。


「こうすれば、忘れないですからね」


 水筒に貼られたポストイットにはでかでかとフルーツと書いてある。


 それを見て、田中さんがなんとも言えない顔になったが、私は気にしたことがない。




 ランチを済ませたあとの店内。


 おやつが今日はあるので、いつも以上に頑張れる日だったが、飛び込みのお客さんが珍しく多い日で、おやつを食べられたのは夕方に。

 そして、そろそろお店をしめる時間が近づいて来た頃、ドアベルがいつもの音を鳴らした。


「らっしゃい」


 ゆっくりどうぞという前に、人が確認出来たので会釈をする。


「あの、まだできていないかもしれないんですけど、この間お願いした遠近眼鏡…」

「丁度今日、レンズが届いたので。もう出来ていますよ」


 そこに居たのはこの間のお客さんだが、その顔は少年と変わらない、新しいモノが気になって仕方ないという期待を膨らませたような状態。


「どうぞ、まずはこちらにお掛け下さい」


 椅子へ案内すると、すぐに今かけている眼鏡を外した。

 遠くと近くを見てもらうために、今週の新聞をお客さんに手渡す。


「先にお伝えしますよ。遠近両用は上側が遠く、下側が手元用に調整されている眼鏡です」

「ええ」

「そして、境目も目を動かせばなんとなく分かってくると思いますが……」

「ああ……ここ……?」


 お客さんは目を上下に動かし、境目を探そうとして眩暈のような像の歪みを見たのでしょう。


「これは、なかなか」

「そうなっちゃうんです。なので、ちょっとした技ですけど、上側のレンズでいつもと同じ視界をまずは確保してください」


 そういうと、一度目を閉じてもう一度目を開けて周りがしっかりと見える事をお客さんが確認した。


「その状態から慣れないうちは下を一気に見にいかない方がいいんです」

「でも、それだと手元がいつまでも見られないのでは?」

「ですから、わざと目を瞑って、瞑っている間に下の方へ自分の中で視線を下げて、目をゆっくり開けてみて下さい」


 そう言って、そっと目を開けると先に渡しておいた新聞にピントが合った様子。


「おお、よく見える」

「境目のあたりはどうしてもどちらにも見えづらい状態になりやすいので、境目を見ないように視線を動かせるようになると、慌てる事も減ります」


 そう言うと、一度目を閉じて上側をつかって私に視線を持ってくると、軽い頷きをみせながら、納得をしている様子。


「慣れるまでは、自分の中で切り替えをしつつ使って下さい。自然と切り替えも自分の中で出来るようになっていくので、人にもよりますが早い方だと一週間ぐらい、慣れない人は結構長く慣れるまでに時間がかかりますね」


 今の所はかなり早めに遠近両用になれそうな感じはあるのだが、一つ大きな注意をしていない事に気が付く。


「あ、お客さんは車の運転は?」

「ああ、偶にするが?」


 お客さんがハンドルを持つようなそぶりをしてくれた。


「でしたら、少し慣れるまでの間は遠近両用で運転は控えていただいた方がいいかと思います」

「そうなの?手元も見えるし、遠くも見えるし逆に安全に見える気がするけど?」


 よさそうなのにと、上目遣いで見てきた。


「慣れてしまえば、おっしゃる通りですけど、今までと手元の見え方がグッと変わるので、不用意に手元やハンドルの方を見ようとして、ピントが合わずに……という、危ない事が起きる事も稀にあるので。ご自分で慣れたと安心できるようになってからがいいと思いますよ」


 そう言ってもあまりピンと来ていない様子だったので、慣れないうちの遠近の怖さが体験できそうなことをやって見せます。


 それは、ペンを一本上から下へ線を引くように動かすだけ。


「ちょっとだけ、気持ち悪くなるかもしれませんが、慣れたかどうかが分かりやすいテストだと思って、このペンを見ていてもらえます?」

「ええ」


 そう言って一本のペンを上から下へすっと、そこまでの速さではない状態で下へと下げる。

 すると、お客さんが驚いた。


「像が、ガタッとなるね?」

「ええ。境目を通り過ぎると、一気に見やすくなるので、見ているものがガタついて、まあ分かりやすく言えば揺れるんですよね」

「なるほど。こればかりは……慣れるしかないんですね?」

「そうですね」


 一通りの説明が終わったら、最後にもう一つの案内もしておきましょう。


「どうしても合わないという場合もあるので、その場合は眼鏡をまた持って来ていただければ、通常のレンズと交換をさせていただきますので、遠慮なくその場合はご来店下さい」

「やっぱり、そういう人も?」

「ええ。慣れ、不慣れに関しては誰のせいという事は全くないので、その場合はいつでもどうぞ」


 それを伝え、耳のかかりや鼻パットの位置調整を済ませたら、一段落。


「慣れるには、使うのが一番ですかね?」

「まあ、そうですね。あとは、急な動作を極力減らすと、いいですね」

「急な動作?」

「慌てて下を見るとか、首を左右に強く振るとか……」

「あー、そういう事ですか」


 思わずつられて下を一気に見ようとしたのか、驚いたお客さん。


「ええ。まあ、電車の乗り降りや階段の上り下りが最初は最も怖いと思うので、その辺りが自然と出来るようになると、安心ですよ」


 そこまで伝えると、分かりましたと喜んでお客さんは笑顔で帰って行きます。


「……慣れるといいんだけどなぁ」


 私の言葉が叶うといいのですが……眼鏡を作った後のその後は殆ど分からないというのも、このお仕事の特徴。

 出来るだけいい結果になっていることを願うばかりです。





 何年ぶりだろうか?


 新しい眼鏡を掛けて帰ろうとしたのだが、女性店員がやめた方がいいといって店にきた時の眼鏡のまま帰る事に。

 ただ、乗り慣れている電車で珍しく座ることが出来たので、気分が上がり早速新しい眼鏡を掛けてみると違和感は殆ど無く気が付けば最寄り駅が近付く。

 そして、やめた方がいいという言葉の意味を理解していなかった事を思い知る事になる。


 それは、電車を降りる時だった。


 スッと席を立つと小さな違和感を覚えた。

 気にしないようにして電車を降りるときにクセで下を見てしまった。


 ぐわん


 自分の足元が揺れているのか、見えている像が揺れているのか。

 どっちなのかはわからなかったが、思わず近くのポールを握った。


「大丈夫ですか?」


 体が揺れたのを見て、心配してくれる人も居たがすぐに大丈夫と伝えて電車を降りる。


「目を閉じて……上だけ見て……」


 まるでうわ言のように言い聞かせて目を一度閉じて、開く。

 見える世界はいつもと変わらない。


「なるほど。お店の人のいう事は聞くものだな……」


 駅のホームの人の少ない場所へ着いたら眼鏡を元に戻した。


「あれ?お父さん?」

「ん、ああ。お帰り」

「眼鏡、新しくしたの?」

「ああ、新しい事に挑戦って事でもないんだが、遠近をな」

「でも、戻すの?」


 どうやら今の一件を娘は見ていなかったみたいで、残念そうに言って来た。


「遠近両用は慣れるまで危ないと店員さんに言われたんだが、我慢できずにかけたら、足元がおぼつかなくてね……」

「へー。でも、その眼鏡似合っているよ?」

「そ、そうか。じゃあ、かけて行こうかな」



 娘との帰り道はさんざんで。

 かなり長い時間、語り草になる事に。


 階段が昇れない。

 思わず手が前にでる。


 そんな自分としては大失敗の一幕があったのだが、コレがきっかけになったのか、たまたまだったのか。


 二月も経てば、眼鏡にも慣れて来る。


 家族との会話が少しずつ増えてきた気がする。


「お父さん、その眼鏡に変えてから変わったよね」

「そうか?」

「ええ。年相応っていうのかしら、肩の力が抜けたのかしらね?」


 妻がそんな事を夕食の時にしてきた。


「友達の奥さんが、偶には旦那さんでも誘ったらって、言っていたけど、アナタ演劇に興味あります?」


 興味は正直あまりないが、娘や息子が眼鏡になれる為に色々とした方がいいとよく言う。


「とりあえず、この眼鏡で……見にいっても大丈夫か?」

「ええ。それ、似合っていますからね」


 眼鏡を一つ変えただけでも、変わるものがある事を今更ながらに知る事になった。



遠近両用の眼鏡の回ですね。


私はどうしても慣れないタイプの人間でした。

いや、まあ使い続ければ……使いこなせるかもしれませんが、もう少し老眼が始まってからでいいかなーって。


ただ、実際はスマホ老眼や今の人達の目はかなり酷使されているので、遠近に早いうちから慣れるのも選択肢の一つとしてあるかもしれません。


眼鏡一つで変わる事もありますし、ふらりと入ったお店というだけでレールが変わる事もあるかと思います。

カタルシスは少な目の作品ですが、作者としては今回は結構は盛り込んだつもりです(笑)

たのしんで頂けると嬉しいのですが……。


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