1.目覚め(1)
どうぞよろしくお願いします!
202X年10月29日。
東京都武蔵天川市。
さわやかな秋晴れの日である。
時刻は正午過ぎ。
きっかけは、繁華街近くの交差点で起こった交通事故だった。
キキーッ——
耳をつんざくタイヤのスリップ音が、平日の昼どきの喧騒を切り裂いた。直後、バーンッ、という衝突音。そしてドンッ、ガンッ、グシャ、ガガガ……と、聞くに堪えない音が周囲に鳴り響く。
その音だけで、誰もが「大事故だ」と悟った。
片側二車線の幹線道路が交差する現場の交差点では、あちこちから悲鳴が上がり、「救急車!」と叫ぶ声がする。いつもの賑やかな日常が、一瞬にして怒号が飛び交う惨劇の舞台と化した。
交差点の中央付近には、大破して横転している軽自動車が一台。事故に巻き込まれ停車する複数の車。アスファルトの黒いスリップ痕。ガラスや自動車パーツの破片が辺り一面に飛び散っている。
しかし、事故を目撃した人々の多くの視線は、すぐ横の歩道に向けられていた。フロントを潰された黒いワンボックスが、乗り上げた歩道で逆さまになっている。何度も転がったのだろう、車体は原型をとどめないほど歪んでいた。
ちょうどそこは交番の目と鼻の先だった。驚いて飛び出してきた若い警察官が、無線機に向けて何かを怒鳴っている。その後、目の前で横たわるワンボックスの前方に駆け出す。よく見ると、ワンボックスに跳ねられたとおぼしき複数の人が歩道上に倒れていた。
「——歩道にいた人たちが跳ねられたぞ!」
「おい、子供もいなかったか!?」
「……うそ、私、今までそこにいた……」
「あっちの車の中の人も助けないと!」
交差点中央付近で横転している軽自動車。運転席に人影があるが、動く気配はない。無事かどうか外からは判断できない。
「おいっ、あそこ! あそこにも人が倒れている!」
中年の男性が、横断歩道の上を指さして怒鳴った。路上に散らばる大きな破片に紛れて、制服姿の少女が道路に投げ出されたように横たわっている。
すぐ近くにいた初老の女性が、震える手で顔を覆いながら叫んだ。
「……ぶつかった衝撃で、車から放り出されたんだわ!」
自分が目にした光景が信じられず、女性はそのまま膝から崩れ落ちた。
現場は混乱を極めていた。
遠くに聴こえ始めたサイレンの音が、徐々に近づいてくる。しかし、この惨状をただ立ち尽くし眺めることしかできない人々には、普段から頻繁に耳にするその音が、酷く浮いて聴こえていた——
◇◇◇
同日夕刻——
気がつくと、わたしは、街の大通りを往来する人と車の流れを上から眺めていた。
上から?
自分は今、どこにいると?
真横から差す光がまぶしい。西のビルの谷間に、太陽が沈みかけている。周囲を見回すと、地上からビルの4、5階分ほどの高さだろうか。左右どちらも道路に沿って奥までずっとビルが立ち並んでいるのが見える。
都会だ。
問題は、なぜこんなビルのきわっきわに佇んでいるのか。
しかも風を全身に感じる。外だ。
首を突き出し、自分がいる建物を上下左右に確認する。
何の変哲もない直方体のビルのようだ。
上にもまだ数階分の壁が続いているので、屋上ではない。
後ろを振り返る。
鼻先に窓ガラスがあってちょっとびっくりした。
ここは窓の外側だったのか。
室内が暗く、外の景色が反射して中はまったく見えない。おかげで、自分の姿がよく見えた。
そう、自分の姿が——
カラス?
目の前には一羽のカラスが映っていた。
…………。
試しに、コツ、コツ、と嘴で窓ガラスを突いてみる。
……違和感なく嘴を使えてる自分に驚く。それはともかく、あちらもまったく同じ動きで、わたし(?)の嘴の先端を突いてきた。
…………。
これはもう、受け入れるしかない。
わたしはカラスだったんだ。そうか。
そして、再度自分のいる場所を確認してみる。ビルの壁面から内側に15センチメートルほどセットバックして取り付けられた窓ガラスの外側、そこの狭い平場に立って、いや、留まっていたらしい。
足元を見ると……。
脚だ。
うん、鳥の脚だ。
ちょっと気持ち悪いな。
まあ、そのうち慣れるだろう。それまでは我慢だ。
とにかく、色々考えたいところだが、さすがにここからは移動したい。もっと落ち着く場所で頭を整理したい。しかし、移動すると言っても……。
——飛べる?
……あ、なんか、飛べそうだな。これ、飛べるやつだ。
うん、やっぱりわたしはカラスだ。
わたしは翼を広げ、足場の外へとその身を重力に逆らわずに投げ出した。
そして、羽ばたく。
バサバサッ——
おおぉ、飛んだよ。飛んでる飛んでる。
カラスが飛ぶのは当たり前だが、今のわたしにはこれが初フライトである。テンションも上がるというものだ。
しばし空中散歩を楽しみながら、羽休めに良い場所を上空から物色する。すると駅前の商店街の大きなアーケードが見えてきた。アーケード正面上部に掲げられた名称看板には、大きな文字で『武蔵天川商店街 ミルキーウェイ』と書かれている。
カラスなのに、人間の文字が読める……?
うーむ。
せっかくカラスであることを受け入れたばかりなのに、悩む。
「やっぱり人間でした」説、浮上。
この件についてもじっくり考えねばならない。
それにしても、人が多いなあ。
アーケードの天井すれすれに、梁を中継しながら奥へ奥へと進む。
あ、仲間もいるな。もちろんカラスのことね。
どれ、挨拶のひとつでもしてやろう。
やあ。
そう言ったつもりだが、口からは、カァー、とだけ声が出た。
……期待はしていなかったが、やはりカラスに声帯はないようだ。
少しばかりテンションが下がる。これは人間への未練か……?
人間だった記憶など、何ひとつない。しかし、自分の中に人間としての何かを感じずにはいられない。本当に意味がわからない。
ちなみに、仲間への挨拶は華麗にスルーされた。
こんなものか。
不興を買わなかっただけでも良しとしよう。
お、アーケードを抜けたな。
公園がある。
休むにはちょうど良さそうだ。
ブランコと鉄棒以外はベンチが2脚だけの、本当に小さな公園。そのベンチに二十代半ばくらいのスーツ姿の男が一人、傍らに鞄とスマホを投げ出して、背中を丸めて座っていた。
中肉中背。細マッチョな感じでスタイルは悪くない。一言で言うと凡庸。
この凡庸な男の背後にあるフェンスの上に、わたしはそっと舞い降りた。
仕事に疲れたサラリーマンかな。まだ若いのに、背中に漂う哀愁が堂に入っている。
なのに——なぜか、この男から目が離せない。気になってしまう。
見えない力に引き寄せられるような不思議な感覚。不快感はない。
そもそもこの方角に飛んできたのは、わたしの意志なのか?
この凡庸な男に会うため?
いやいや、そんなことはないか。
しかし、この切なさ全開の背中から目が離せない。
…………。
懸想?
カラスのわたしが?
人間に?
ふふ。ないな。
今はカラスだしな。
そもそも、わたしの性別って?
男? 女? いや、オス? メス? が正しい疑問か。
どっちでもいいか。
差し当たり問題はない。
これが、わたしと本条拓海の出会い。
実に平凡、退屈、特筆すべき点のない出会いだった。




