3. 冷たい魔法と、名前のないぬくもり
朝の光が森の隙間から差し込み、苔の生えた地面を黄金色に染めていく。
いつもなら鳥のさえずりと涼やかな風が吹き抜けるはずの森の家だが、今朝はどこか重苦しい気が満ちていた。
「よーし、今日も一日がんばろう!」
ミレイユは勝手口を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込もうとして——ふと、違和感に首をかしげた。
空気が、澱んでいる。動物たちの声も聞こえない。
まるで、目に見えない薄い膜が家全体を覆っているかのような、独特の圧迫感。
(あれ……? アルさん、起きてるのかな)
二階を見上げると、アルヴィスの部屋の窓は相変わらず重いカーテンで閉ざされたままだ。しかし、昨日までとはどこか違う。窓の奥から、かすかに、けれど絶え間なく異様な空気が漏れ出しているのが感じられた。
「アルさん……?」
心配になって二階への階段を上がると、アルヴィスの書斎兼寝室の扉の前で足が止まった。扉の隙間から、青白い光が揺らめいている。
同時に、吐息とも呻きともつかない、小さく途切れ途切れな喘ぎ声が聞こえてきた。
普段なら研究の邪魔になるから、と思い絶対に入らないこの部屋。ただ今日はなんとなく嫌な予感がして、ミレイユは思い切って、木製の扉をトントンとノックした。
「アルさん? 起きているなら一緒に朝ごはんを……」
「……入るな」
扉越しに返ってきたのは、驚くほど低く、掠れた声だった。普段の淡々とした冷たさではない。まるで全身の血を絞り出しているかのような、荒い息遣いが混ざっている。
「アルさん!?声がすごく辛そうです……! 何かあったんですか!?」
「なんでもない……っ。余計な口出しをするなと、いつも言っているだろう……!」
ドアを開けようとすると、カチャリ、と内側から鍵がかかる重い音が響いた。ミレイユはドアノブに手をかけたまま、呆然と立ち尽くした。
昨夜、あの見知らぬ残り香を隠したアルヴィスの姿が、頭をよぎる。
(私に隠れて……何をしているの…?)
***
その日の『au soleil』での仕事中も、ミレイユの心は晴れなかった。
「ミレイユちゃん? どうしたんだい、なんだか今日はお顔が暗いよ」
常連の商人やお客たちに声をかけられても、引きつった笑顔を返すのが精一杯だった。
「あ、いえ! ちょっと考え事をしていて……すみません、すぐにお茶を淹れますね」
お湯を注ぐ手元を見つめながら、ミレイユは朝のアルヴィスの声を思い出していた。あんなに弱々しく、けれど必死に拒絶するような声は、彼と出会ってから一度も聞いたことがなかった。
(アルさんは、400年も生きている魔法使いだもの。私なんかが心配したって、どうにもできないかもしれない。……でも)
両親を失い、雨の中一人ぼっちで歩いていた自分をこの家に置いてくれた。素っ気ない態度を取りながらも、いつも自分を守ってくれていた。
(そんなアルさんがあんなに苦しそうなのに、黙って見ていることは正しいことなの…?)
はあ、と大きくため息を着く。常連のお客さんたちも心配そうに見ていて、今日は店を早く閉めるといい、と言ってくれた。
夕方、ミレイユはいつもより一時間早く店を閉め、急いでバスケットに滋養のある食材と、薬草のハーブを詰め込むと、夕暮れの森を走るようにして家へ戻った。
***
「ただいま戻りました!」
玄関の扉を勢いよく開ける。
静まり返った部屋に、朝よりも濃い魔力の残り香と、微かな血の匂いが漂っていた。
ミレイユの顔から血の気が引く。
「アルさん……?」
階段を駆け上がり、二階の部屋へと向かう。
嫌な記憶が思い出される。両親も、両親の時も…。
鍵がかかっていたはずの扉は、魔力の奔流に耐えかねたのか、わずかに隙間があいていた。ミレイユが扉を押し開けると、そこは荒れ果てた光景だった。
床一面に広がる古い羊皮紙と、青白く発光する魔導陣。
その中央で、アルヴィスが床に膝をつき、激しく肩を上下させていた。
彼の黒いローブは汗で湿り、その肌は病人のように青白い。そして何より異常だったのは、彼の両手が眩いばかりの緑色の光——高度な治癒魔法の光を放ち続けていることだった。
アルヴィスは、自分自身の身体ではなく、床に置かれた「何か」……古びた呪符のような羊皮紙に向かって、絶え間なく自身の生命力と魔力を注ぎ込んでいたのだ。
まるで、遠く離れた誰かの命を繋ぎ止めるかのように。あるいは、巨大な結界の亀裂を、自身の体を削って修復するかのように。
「アルさん!!」
ミレイユが駆け寄ろうとした、その瞬間。
「来るなと言っただろうが……っ!!」
アルヴィスが激昂した。
氷のように冷たい青い瞳が、怒りと苦痛に歪み、ミレイユを鋭く射抜く。その迫力に、ミレイユの足がすくんだ。
「なぜ私の言いつけを守らない……! たかが人間のお茶汲みが……こちらの世界に足を踏み入れるな!!」
それは、アルヴィスがこれまでミレイユに向けた中で、最も酷く、鋭い拒絶の言葉だった。
普段の彼なら、どれほど素っ気なくても「人間」と「ミレイユ」を切り離して接してくれていた。
だが、限界を超えた消耗と苦痛により、彼の理性は麻痺し、ミレイユを遠ざけるためだけに一番傷つく言葉を選んで吐き捨てたのだ。
ミレイユの胸が、ズキリと激しく痛んだ。
「たかが人間のお茶汲み」——その言葉が、耳の奥で何度も反響する。
アルヴィスの全身からは、立ち上がることもままならないほどの衰弱が窺えた。治癒魔法を限界まで使い続けたせいで、彼の魔力回路は悲鳴を上げ、全身の激痛と高熱に苛まれているのは明らかだった。
アルヴィスは荒い息を吐きながら、冷ややかに、けれど震える声で追い打ちをかける。
「……分かったなら、出ていけ。二度と私の部屋に入るな……」
静寂が部屋を支配した。
アルヴィスはミレイユがショックを受けて泣き出し、部屋を飛び出していくのだろうと思った。
そうすればいい。自分のような過去の呪縛に囚われた男に関われば、この温かい少女まで破滅に巻き込んでしまう。
これでいいのだと、アルヴィスが目を閉じかけた、その時——。
タッ、タッ、タッ。
足音が、真っ直ぐに近づいてきた。
「……え?」
アルヴィスが驚いて目を開けた瞬間、ミレイユが彼の目の前にしゃがみ込み、その細い両手で、アルヴィスの冷たくなった両手を強引に包み込んだ。
「……っ!? 放せ、何を——」
「いいから寝なさい!!」
部屋中に響き渡るような、ミレイユの大声だった。
普段の穏やかで優しい声からは想像もつかない、力強く、怒気に満ちた、けれど涙をいっぱいに溜めた声。
「……な、何を……」
「たかが人間のお茶汲みで結構です! 魔法のことなんて私には分かりません! アルさんが何の戦いをしているのかも、何を守ろうとしているのかも分かりません!」
ミレイユは大きな涙をこぼしながら、アルヴィスの手を強く握り返した。
「でもね、アルさん! 自分が倒れるまで魔法を使い続けて、高熱を出して、そんなボロボロな顔をして……! それを黙って見ていろって?できるわけがないでしょう!?」
「……っ、私は魔法使いだ。人間の一人や二人に心配される筋合いは——」
「魔法使いだって、ご飯を食べて、お茶を飲んで、寝なきゃ死んじゃうのは人間と同じ!!病人は黙って言うこと聞くの!!」
ミレイユの叫びに、アルヴィスは息を呑んだ。
400年。誰も彼を「生身の存在」として見てはくれなかった。神のように崇められるか、怪物として恐れられるか、あるいは利用しようと狙われるか。
誰も彼に「寝ろ」などと言った者はいなかった。
「酷いことを言って私を追い出そうとしたって、絶対に逃げてなんかやらないから! ……いいから、今日はもう終わりにしてください。お願いですから……身体を休めてください……」
ミレイユの温かい涙が、アルヴィスの甲の上にポタリと落ちた。その温もりが、冷え切っていたアルヴィスの心根に、じんわりと染み込んでいく。
「……ミレイユ……」
アルヴィスの手のひらから、緑色の治癒魔法の光が、ふっと消えた。緊張の糸が切れた瞬間、強烈な眩暈と高熱がアルヴィスを襲う。
「あ……」
大きな体が、グラリと前に倒れ込んだ。
「アルさん!!」
ミレイユは必死で腕を伸ばし、自分よりはるかに大きなアルヴィスの身体を、受け止めるように抱きしめた。
すっぽりとミレイユの腕の中に収まった魔法使いは、まるで羽を休める傷ついた鳥のように、ミレイユの肩に頭を預けたまま、小さく息を吐いた。
「……頑固な、娘だ……」
自嘲気味な呟きとともに、アルヴィスの瞳からすうっと意識が遠のいていく。
それからのミレイユの手際は素早かった。
倒れたアルヴィスを半ば引きずるようにしてベッドへ寝かせると、汗で濡れたローブを脱がせ、手早く濡れタオルで彼の額を冷やした。
「ふう……重かった……」
ミレイユは荒い息を整えながら、ベッドで眠るアルヴィスの顔を見つめた。
いつもは氷のように冷たく、隙のない表情をしている大魔法使いが、今は幼子のように弱々しく息を吐いている。額に手を当てると、火のように熱い。
過剰な魔力消費による発熱——いわゆる「魔力酔い」。
(……アルさんの持つ魔力は、この国中の魔法使いを束にしても届かないくらい膨大なはず…。)
かつて、この家を預かる時に聞かされた話を思い出す。
常人なら一瞬で気が狂い、命を落とすような高階位の魔法であっても、アルヴィスなら顔色一つ変えずに扱えるはずなのだ。
(なのに……そんなアルさんが、こんな風になるなんて。いったい、何を……)
一人で何かを抱え込み、自身の命を削るようにして魔法を使い続けていた彼。
自分には想像もつかないほど恐ろしく、巨大な何かが、この穏やかな日常のすぐ裏側に潜んでいるのではないかという恐怖が、ミレイユの胸を締め付けた。
だけど——。
「どんな理由があっても、倒れたら意味無いでしょう……?」
ミレイユはそっとアルヴィスの額のタオルを取り替え、ぎゅっと唇を結んだ。
***
ミレイユはキッチンへ降りると、持って帰ってきた薬草を煮出し、特製のハーブティーと、喉通りの良いスープの仕込みを始めた。パチパチと竈の薪がはぜる音が、静かな家に響く。
丁寧に淹れたハーブティーを盆に乗せ、ミレイユは再び二階の部屋へと上がった。
ベッドの脇の椅子に腰掛け、濡れタオルを絞り直してアルヴィスの額に乗せる。
アルヴィスは薄っすらと目を開け、呆然とした様子で天井を見つめていた。意識が少し戻ってきたらしい。
「……ミレイユ」
「あ、アルさん! 気づきましたか? 体調はどうですか?」
「……なぜ、まだいる。」
かすれた声で尋ねるアルヴィスに、くす、と優しく微笑んだ。
「言ったでしょう? たかが人間のお茶汲みですから、魔法使い様の意地悪な暴言くらいじゃ逃げませんよ」
「……っ」
アルヴィスは気まずそうに顔をそらした。
自分の吐いた暴言の酷さを、今さらながら後悔しているのが、横顔からも伝わってくる。
「……すまない」
ぽつりと漏らされたその言葉に、ミレイユは目を丸くした。
「…信じて貰えないかもしれないが……私の言葉は、本心ではない。君を……巻き込みたくなかっただけだ」
「…そんなこと、分かってますよ。アルさん」
ミレイユは温かいハーブティーのカップを、アルヴィスの手に持たせた。
「さ、少しだけでも飲んでください。アルさんの好きなハーブをブレンドして、蜂蜜を少し多めに入れておきましたから」
アルヴィスは無言でカップを見つめ、ゆっくりとそれを口に運んだ。
温かい液体が喉を通り、体中に染み渡っていく。
「……甘いな」
「ふふ、体力が落ちている時は、これくらい甘いほうがいいんです」
ミレイユはアルヴィスの掛け布団を丁寧に掛け直すと、椅子に座り直した。
「今日はもう、何も考えずに寝てください。お店はお休みにして、ずっとここにいますから」
「……店を休む必要はない」
「休むんです! ……心配なんです、分かってください。」
そう言うミレイユに、アルヴィスはついに降参したように、深く溜め息をついた。
「……好きにしなさい」
目をつむり、規則正しい寝息を立て始めるアルヴィス。
その顔からは、いつの間にか険しさが消え、穏やかな安らぎが広がっていた。
静かにその手を取り、そっと両手で包み込んだミレイユの手は微かに震えていた。
窓の外では、月明かりが森を優しく照らしている。
冷たい魔法の世界と、温かな人間の世界。
互いに近いのに、どこか遠い世界。
(大丈夫。アルさんはここにいる…。)
ミレイユはアルヴィスの温もりを確かめるように、そっと目を閉じた。
——だが、彼女はまだ知らなかった。
部屋の隅、闇に沈む書斎の机の上に残された、一編の焦げた羊皮紙。
そこに刻まれた『教団』の紋章が、静かに、妖しい赤色に明滅していたことを。
アルヴィスが身を削ってまで護ろうとした秘密と、忍び寄る脅威。
穏やかな日常に、小さな亀裂が入り始めていた。




