4. いつかみた面影と、罪の影
静まり返った二階の部屋に、薄金の朝光がそっと差し込んでいた。
鳥たちの澄んださえずりが森の奥から聞こえてくる。昨日の重苦しく澱んでいた空気は綺麗に消え去り、いつもの穏やかな朝が戻ってきていた。
ベッドの上で、アルヴィスは静かに瞼を開けた。
「……ん」
頭を締め付けていた激しい痛みが引き、全身を覆っていた重い倦怠感も幾分か和らいでいる。体を起こそうとして——アルヴィスは、右手にズシリとした心地よい重みを感じて動きを止めた。
視線を落とすと、ベッドの脇の椅子に腰掛けたまま、ミレイユが突っ伏して眠っていた。細い両手で、今もアルヴィスの右手を大切そうに包み込んだままだ。
昨夜、高熱にうなされる自分を一晩中看病してくれていたのだろう。目元にはかすかに疲れの影が残り、額には汗で張り付いた髪糸が見えた。
(本当に……あいつらに似ている)
昨夜、己の限界と拒絶の言葉を受け止め、涙を流しながら自分を叱ってくれた彼女の姿が脳裏をよぎる。
アルヴィスは左手をそっと伸ばすと、ベッドの足元に掛けられていた自身の黒いローブを引き寄せ、息を潜めながらミレイユの華奢な肩へと優しくかけてやった。
そして、握られたままの右手を引き抜くこともできず、彼女が目を覚ますまでの静かな時間を、ただじっと見守っていた。
***
「……ん……あ、アルさん…?!」
1時間ほど経った頃、ふと身を揺らしたミレイユがハッと目を覚ました。勢いよく跳ね起き、真っ先にアルヴィスの額へと細い手を伸ばしてくる。
「熱は!? 気分は悪くないですか!?」
「……熱は下がった。気分も、悪くはない」
「よかった……っ」
ミレイユは心底安堵したように胸を撫で下ろし、その場にへたり込んだ。
だが次の瞬間、ベッドから出ようとするアルヴィスに気づき、眉をひそめる。
「あ、アルさん! まだ起き上がっちゃダメです。お布団に戻ってください」
「…私はもう平気だ。魔力の回路も回復して——」
「ダメなものはダメです。昨夜あれだけの高熱を出したんですから、今朝はまだ安静にしていてください。……病人は大人しく休むものです」
静かだが譲らないミレイユの瞳に押され、アルヴィスはそっと息を吐いて布団を引き上げ直した。
「……私の言うことを少しは聞きなさい」
「いいえ、今日だけは私の言うことを聞いてください。さ、すぐに身体に優しい朝ごはんを準備してきますね」
ミレイユは上着を椅子に掛けると、どこか嬉しそうな面持ちで部屋を後にした。一人残されたアルヴィスは、静かに目を閉じた。
***
四十分後。
炒めた玉ねぎの香ばしい甘さと、少しスパイシーでフルーティーな湯気が二階の部屋へと漂ってきた。
「お待たせしました! 今朝は病み上がりの体に優しいスープとお茶ですよ」
お盆を抱えて戻ってきたミレイユは、丸テーブルに手際よく料理とお茶を並べていく。
「今朝のスープは、じっくり飴色になるまで炒めた玉ねぎとローストしたアーモンドを擦りつぶして煮込んだ『あめ色玉ねぎとナッツのクラムポタージュ』です。お茶は、昨日アンリさんから仕入れた東方紅茶に、乾燥させた『赤リンゴの果皮』と『シナモン』、少しの生姜をブレンドした特製紅茶です!」
「……見たことのない組み合わせだな」
「病み上がりは胃が冷えやすいですからね。さ、温かいうちにどうぞ」
アルヴィスは差し出された木製のスプーンを受け取り、まずはスープを一口味わった。
じっくり炒められた玉ねぎのとろけるような甘みとナッツの香ばしさが、弱っていた胃の腑を優しく温めていく。体にスッと馴染むコクがあった。
「……美味いな」
「よかったです! お茶もどうぞ。ジンジャーとシナモンを効かせて、蜂蜜を垂らしてあります」
アルヴィスはお茶のカップを手に取り、静かに一口啜った。東方紅茶ならではの深いコクとリンゴの甘酸っぱさが広がり、追ってやってくるシナモンの香りとジンジャーの温もりが、疲弊した身体を内側からじんわりと解きほぐしていく。
「あ、そういえばアルさん」
「何だ?」
「昨日、お店を早く閉めて帰ってきたときなんですけど……常連のお客さんたちもアンリさんも、みんな心配して『あの大魔法使い様のお手伝いかい? 早く帰ってお世話して差しあげなさい』って送り出してくれたんですよ」
「……町の人々が、そんなことを?」
「ええ! アルさんは『一人でひっそり暮らしているから街とは無縁だ』なんて思っているかもしれないけれど……私が小さい頃から、街のみんなはアルさんのことをずっと尊敬していましたよ。この森や街が静かで平和なのは、偉大な魔法使い様が守ってくれているおかげだって」
「だからね、アルさん。アルさんが一人で孤独だと思っていた世界は、ずっと前からアルさんに感謝していたんですよ。……もちろん、今は私が一番近くにいますしね!」
そう言って誇らしげに笑うミレイユを見て、アルヴィスは小さく息を漏らした。
「……おかしな娘だ」
そう呟く彼の心の中には、長年閉ざされていた重い扉が、ゆっくりと開いていくような温かな風が吹き抜けていた。
***
昼下がり。
完全に熱の引いたアルヴィスの言いつけを受け入れ、ミレイユは晩御飯の買い出しと仕込みのために一階へと降りていった。
一人、静まり返った部屋に残されたアルヴィスは、ゆっくりとした足取りで奥の書斎へと向かった。
整頓されたデスクの上に、ぽつんと残された一編の古い羊皮紙。昨夜、自身が命を削る思いで治癒魔法と封印術を掛け続け、なんとか抑え込んだ痕跡だ。
アルヴィスは指先で、羊皮紙の表面をそっと撫でた。
パチ……と小さな音を立てて、黒く焦げた表面から妖しい赤色の光が薄っすらと漏れ出す。
そこに刻まれているのは、『教団』の追跡紋章。
「……探知の網が、ついにこの森の至近まで迫っているか」
アルヴィスの青い瞳から温もりが消え、氷のように冷たく静かな光が宿る。
四百年以上前、過酷な古代魔導の研究によって"生み出された"存在。教団にとって、アルヴィスは失われた魔導の生き証人であり、同時に決して野に放ってはならない「禁忌」だった。
彼らは定期的に探知の使い魔や遠隔呪符を送り込み、アルヴィスの居場所を特定しようとしている。
昨夜、アルヴィスが身を削って行っていたのは、この森を覆う結界の補修と、教団の追跡呪符の完全無効化だったのだ。もし結界が破られれば、教団の執行部隊がこの森になだれ込む。
そうなれば——。
(あの子のような、魔力を持たない無垢な人間など、一瞬で巻き添えになる)
アルヴィスは拳を強く握りしめた。
昨夜自分が倒れたのは、追跡呪符の負荷が予想以上に強大だったからだ。己の命など、どうなってもよかった。自らの犯した"罪"を思えば、いつ死んでも構わないとすら思っていた。
だが、今は違う。
キッチンから、トントンと軽快に包丁を振るう音が聞こえてくる。ミレイユが静かに夕飯の仕込みをしている音だ。
(……約束、したからな)
この穏やかで、温かく、あの子が守ろうとしている「ひだまり」を、教団の汚れた手に触れさせるわけにはいかない。
アルヴィスは低く呟くと、手元に小さな青い炎を燃え上がらせ、焦げた羊皮紙を完全に灰へと変えて吹き消した。
***
真夜中。
アルヴィスは館の二階テラスに出て、冷涼な夜風にその身を晒していた。
静寂が森を支配している。遠くの樹々が風に揺れ、満天の星々が静かに二人を見下ろしていた。
「アルさん。まだ起きていらしたんですか?」
背後から、軽い足音が近づいてくる。
ミレイユが、厚手の毛布と湯気の立つふたつのマグカップを盆に乗せてやってきた。
「風が冷たいですよ。病み上がりなんですからの羽織ってください」
ミレイユはそう言いながら、持ってきた毛布をアルヴィスの肩へ丁寧に掛け、自分はその隣にそっと寄り添うように腰かけた。マグカップを受け取ると、そこに淹れられていたのは、先ほどのお茶とはまた違う香りの飲み物だった。
「これは……」
「夜深くのための特別な一杯です。『焙煎大麦』に『スターアニス』と『カカオニブ』を少し浮かべてあります。心が安らいで、ぐっすり眠れるんですよ」
「……どこまでも抜かりないな」
「ふふ、アルさんには安心して眠ってほしいですから」
アルヴィスは静かにカップに口をつけ、焙煎された穀物の深みと、カカオのほろ苦いコク、スターアニスの甘い香気を含んだお茶を楽しんだ。
二人の間に、心地よい静寂が流れる。
400年という果てしない時を生きてきた男と、18年という短い時間を懸命に生きる少女。
住む世界も、持つ力も、残された時間も全く違う二人。
「アルさん」
「何だ?」
「明日からは、またお店を開けますね。休ませてもらった分、ちゃんと働かないと」
「……無理はするな。店を休んだところで、この家の生活に困ることはない」
「そういう問題じゃないんです。私にとってあのお店は両親からの贈り物で、街のみんなの『ひだまり』ですから」
ミレイユは夜空を見上げながら、柔らかく微笑んだ。
「そして……この家と、アルさんの隣が、私の『ひだまり』なんです」
「……っ」
不意に突かれた本音に、アルヴィスは言葉を詰まらせた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……私のような男の隣が、ひだまりであるはずがないだろう」
アルヴィスは夜空を仰ぎ見たまま、静かに呟いた。
「いいえ、ひだまりです。私にとってはそうです」
譲らないミレイユに、アルヴィスはついに小さく吐息を漏らした。
「……そうか」
「はい」
ミレイユは嬉しそうに頷くと、マグカップを両手で包み込み、アルヴィスの肩にそっと自分の肩を寄せた。
アルヴィスはその温もりに逃げることなく、静かに受け止めた。
澄み渡る夜空には、銀色の月が静かに輝いている。
小さな秘密と、大きな脅威を抱えながらも、ふたりの時間は確実に重なり合い、深まっていた。
——だが、その頃。
森の深遠、結界がもっとも薄くなる境界線の樹上。
黒い修道服を身にまとった人影が、双眼鏡のような魔導具を覗き込みながら、冷ややかに唇を歪めていた。
『……見つけたぞ。アルヴィス・フォン・グランツ』
密偵の手元で、小さな通信用の呪符が赤く怪しく光り輝く。
『回収部隊の手配を。……それと、奴の傍らにいる人間も、処理の対象に含めよ』
忍び寄る破滅の足音に、まだ誰も気づいてはいない——。




