2. 冷たい残り香と、あたたかな温度
朝の森は、冷たく澄んだ空気に満ちている。
木々の隙間から差し込む薄金色の光が、苔むした絨毯の上に美しい斑影を描いていた。
森の奧深くにポツンと佇む家。
かつては「幽霊が住んでいる」と言われたその家の勝手口から、小さな足音とともに一人の少女が姿を現した。
「ん〜、今日もいいお天気!」
ミレイユは両手を大きく広げて深呼吸をした。
朝露をふくんだ森の香りが、肺いっぱいに広がる。
彼女の手には、手入れの行き届いた革のバスケットと、大きな鍵束。身に纏っているのは、質素だが仕立ての良いエプロンドレスだ。
18歳になったばかりの彼女の頬は、朝日を受けて健康的な桃色に染まっている。
2階を見上げると、アルヴィスの部屋の窓はまだ重いカーテンで閉ざされていた。彼は夜遅くまで古い文献や魔導書と向き合っていることが多い。朝のこの時間は、にとってまだ深い眠りの中だろう。
「アルさん、行ってきますね」
届くはずのない静かな声で窓に向かって語りかけると、ミレイユはくるりと背を向け、街道へと続く小道を歩き始めた。
森の家を出て十五分ほど歩くと、樹々が途切れ、視界が一気にひらける。
眼下に広がるのは、王都と東方の開拓地を結ぶ石畳の大街道だ。そしてその街道沿いに、小さくも温かみのある木造の店舗が佇んでいる。
亡き両親が遺してくれた、ミレイユの自慢の紅茶店——『au soleil』だった。
「ふう、まずは空気の入れ替えからね」
重厚な真鍮の鍵を回して扉を開けると、店内に残っていた昨日のお茶と木香が混ざり合った香りが鼻をくすぐる。ミレイユは手早く窓をすべて開け放ち、朝の新鮮な風を招き入れた。
それからカウンターの拭き掃除、茶器の点検、そして今日出すお茶の仕込みに取りかかる。
銅製のケトルに汲みたての清流を注ぎ、大きな竈に火をくべる。パチパチと薪がはぜる心地よい音が店内に響き始めた。
(今日は朝一番に新しい茶葉の仕入れが届くはず……あ、来た!)
カララン、と扉の上の真鍮鈴が澄んだ音を鳴らした。
「おはよう、ミレイユちゃん! 頼まれていた東方からの新作茶葉、無事に届いたよ」
「アンリさん! おはようございます!」
入ってきたのは、街道を定期的に往復している行商人のアンリだった。彼は背負っていた大きな荷鞄から、固く封をされた小さな木箱を取り出し、カウンターの上に置いた。
「いやあ、今回はちょっと手に入りにくくてね。『月光草』の乾燥葉をブレンドした特殊な茶葉なんだが、夜に摘み取らないと香りが飛んじまうらしくてさ。ちょっとお高くなっちまったが……」
「いいえ、ありがとうございます! この茶葉、ずっと探していたんです。……わあ、すごい」
ミレイユが木箱のフタをそっと開けると、甘く清涼感のある不思議な香りがふわりと立ち上った。
葉の表面には、まるで月明かりを吸い込んだかのような銀色の細毛がうっすらと生えている。
「ふふ、これならきっと……」
「ん? 誰かに飲ませるのかい?」
「あ、いえ! 当店のおすすめとして出そうかなって!」
慌てて手を振るミレイユを見て、行商人のアンリはニカッと笑った。
「まあいいさ。ミレイユちゃんの淹れるお茶は、この街道一だからな。じゃあ、俺は王都へ向かうよ。気をつけてな!」
「はい、アンリさんもお気をつけて!」
仕入れを終える頃には、街道を行き交う旅人や、近くの開拓村からやってくる人々で店は一気に賑やかになり始めた。
「ミレイユちゃん、いつもの『朝摘みハーブのブレンド』を! 今日はこれから長旅だから、シャキッとしたいんだ」
「はい、喜んで! 少々お待ちくださいね」
ミレイユの手つきは無駄がなく、そしてどこか優雅だった。
温めた磁器のポットに茶葉を入れ、グラグラと沸騰したお湯を高い位置から注ぐ。湯気とともに広がる茶葉の香りに、長旅で疲れ切った旅人たちの表情が自然と和らいでいく。
「お待たせいたしました。どうぞ!」
「ああ……うまい。身体の芯まで染み渡るようだ。やっぱり、機械で作った粗悪なお茶とは訳が違うな」
「ありがとうございます。お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
亡き両親から受け継いだこの店は、単にお茶を売る場所ではない。
魔法という便利な力を持たない人間たちが、互いに寄り添い、疲れを癒やすための "au soleil"────ひだまりなのだ。
忙しく店内を動き回りながら、ミレイユは胸の奥で誇らしさと、ほんの少しの温かい愛おしさを噛みしめていた。
***
お昼のピークを過ぎ、夕刻が近づくと、街道の人通りもぽつぽつと疎らになっていく。
ミレイユは手早く店の片付けを済ませ、看板を『CLOSED』へとひっくり返した。
今日仕入れた『月光草の茶葉』と、自分で試行錯誤して作ってみた「自家製ハーブシロップ」の小瓶をバスケットに大切に収める。
「よし、仕込みも片付けもバッチリ! 急いで帰って、夕飯の準備をしなくっちゃ」
店に鍵をかけ、オレンジ色に染まり始めた森の道を急ぐ。夕暮れの森は、朝とは違ってどこか寂しげな影を落としている。風が葉を揺らす音が、まるで誰かのささやき声のように聞こえることもあった。
少し足早になりながら小さな足音を響かせて森の家へ戻ると、重い木製扉を押し開けた。
「ただいま戻りました、アルさん!」
家に足をふみ入れた瞬間だった。
——ぴた、とミレイユの足が止まる。
いつもなら、静寂で古い羊皮紙、そしてわずかな薪と茶葉のにおいしかしないはずの家。
そこに、微かに見知らぬ香りの煙が漂っていたのだ。それは甘く、どこか金属的で高価な香香の残り香だった。
さらに、リビングの扉がわずかに開いている。
普段ならアルヴィスが整頓しているはずの応接セットの椅子が、一脚だけあからさまに不自然な角度で引かれていた。
(誰か……来てた……?)
滅多に誰も来ない、この森の家に。
首をかしげながら奥へ進むと、キッチンのカウンターに置かれた使いかけのガラスカップが目に入った。湯気がまだ微かに揺れている。
その横には、見覚えのない銀色の封蝋が押された羊皮紙の破片がひとつ、落ちていた。
「…帰っていたのか」
「……っ!?」
不意に背後から声をかけられ、ミレイユは肩を跳ねさせた。
振り返ると、廊下の影から黒いローブを纏ったアルヴィスが静かに姿を現したところだった。その表情は相変わらず読めないが、心なしかいつもより瞳の奥が冷たく冴えているように見える。
「アルさん……! すみません、びっくりしちゃって」
「……」
「あの……アルさん。なんだか、お部屋の香りがいつもと違いますね? それに、このお茶……だれか、きてたんですか?」
カウンターのカップと椅子を指さすと、アルヴィスは視線すら動かさず、淡々と口を開いた。
「気のせいだ」
「え? でも、椅子が引いてありますし、このカップも……」
「私が二杯飲んだだけだ。本を読みながらな」
アルヴィスは歩み寄ると、ミレイユが目をつける前に、カウンターの上の銀の封蝋の破片をローブの袖でサッと払い落とし、隠してしまった。
「……何か、困ることでもあったか?」
「あ、いえ……! アルさんがお客様をお通ししたのかなって思っただけで……」
「私は他者を家に招くような人間ではない。忘れたのか?」
そう冷ややかに告げるアルヴィス。
だが、ミレイユは見逃さなかった。彼の表情がいつもより強張っていて、指先がローブの生地を強く握りしめていたことを。
彼は隠している。
ミレイユに心配をかけまいとしているのか、なにかやましいことがあるのか、それとも「魔法使いの世界」の危険から彼女を遠ざけようとしているのか、はたまた信頼されていないのか——。
問い詰めたい気持ちもあったが、アルヴィスの静かな拒絶の空気を感じ取ったミレイユは、そっと踏みみとどまった。彼が話したくないのなら、無理に暴くべきではない。
「……そっか。すみません変なこと聞いちゃって! 今日の夕飯の準備をしますね!」
努めて明るい笑顔を作ると、持ってきたバスケットを持ち直した。
***
「今日のスープは、蕪と鶏肉のクリームシチューです。それと……新しく仕入れた茶葉の試作品もあるんですよ!あとでお出ししますね」
「……好きにしなさい」
アルヴィスはそう言い残すと、そっとリビングの椅子を元の位置に戻し、暖炉の火を強めた。
その背中は、どこか遠く、寂しそうで、出会った頃のような孤独の影を再び背負っているように見えた。
食後、ミレイユは丁寧に淹れた『月光草の紅茶』をアルヴィスの前に差し出した。
自家製のハーブシロップをそっと一滴落として。
「これは……」
「長時間の読書も研究も疲れるでしょう? シロップは試作品なんです。お店で出そうと思って作ってみたんですけど……これならアルさんも飲めるかなって」
「……」
言いながら、ミレイユはハッと息を呑んだ。
一瞬、気まずい沈黙が流れる。
一人でペラペラと喋りすぎてしまった後悔と、余計なことをしてしまったのではないかという不安がこみ上げてきた。
「な、なんか喋りすぎちゃいましたね。甘いものに挑戦してみようと思ったんですけど……やっぱり苦手ですよね? すみません、淹れ直して——」
「いいや、これがいいんだ」
ミレイユがカップを下げようとした手を、アルヴィスの低い声が止めた。
「君の淹れるお茶だ。不味い訳がないだろう」
淡々と、けれどどこか温かさを込めて告げると、アルヴィスはカップを手に取った。
一口、口に含む。
清涼感のある香りと、ほのかな甘みが、彼の強張っていた表情をわずかに溶かしていく。
「……ああ、美味しい」
「ふふ、でしょう?」
さっきまで立ち込めていた謎の訪問者の異質な空気は、ミレイユが淹れた温かい紅茶の湯気によって、少しずつ薄れて消えていく。
窓の外では夜の帳が下り、森は深い闇に包まれていた。
どんな危険がアルヴィスに迫っていたとしても。
どんな過去が彼を締め付けていたとしても。
自分が彼のために温かいお茶を淹れ続けるのだと、ミレイユは胸の中で静かに誓うのだった。
「アルさん、明日の朝は焼き立てのパンにしますね」
「……焦がさないようにしなさい」
「ふふ、任せてください!」
二人で重ねる穏やかな日常は、小さな秘密を抱えながらも、今日も優しく続いていく。
近付く影に気付くこともしないで。




