1-65 日向家の憂鬱
――日向家の日常を、絶望一色に染め上げたあの惨劇から数日。
私はすぐに職場を去った。
当然だった。出社などできるはずもなかった。毎日同じ時間に起きて、同じ服を着て、同じ駅を使って、何事もなかった顔で会社へ向かう――そんな「普通」が、この世にまだ存在しているとは、とても思えなかったからだ。
飛車角の話によれば、〈不如帰会〉の信者であった木村が、職場で目の敵にしていた私の個人情報を盗み見て、それを〈不如帰会〉の会員番号一桁である死条へ流したらしい。
気に入られたかったのだという。組織の中で、少しでも高い位置に行きたかったのだという。ただそれだけの理由で。
木村は取り調べの中でそれを自供し、その場で逮捕された。けれど、実行犯である死条の行方は依然としてわからないままだった。
――〈不如帰会〉。発起からまだ一年も経たない新興宗教団体。それなのに今や、幾つもの宗教団体を取り込み、世界最大級の規模にまで膨れ上がっているという。その拡大方法が、勧誘を拒んだ人間を殺すことによる恐怖支配である、と聞かされた時、私はしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。
宗教。
救い。
信仰。
そんな言葉の横に、殺す、という動詞が平然と並ぶのが信じられなかった。
しかも、その事実を知っているのは、〈不如帰会〉の人間と、〈警視庁〉の上層部と、〈十傑〉だけ。世間一般には伏せられている。誰も知らないまま、人は勧誘され、断れば殺される。
私は飛車角からその話を聞いた後、愕然としたままその場を離れた。
外は良く晴れていた。空は青く、雲は白く、春の終わりを思わせる陽射しが街を明るく照らしていた。
その光が、喪服を着た私の肌をじりじりと炙る。
普段なら心地良いはずの陽光が、その日ばかりは、酷く不快だった。まるで、この世界だけは何も失っていないと言わんばかりに明るくて、その明るさが、私の中の空洞を際立たせた。
どうして舞白や家族が、こんな目に遭わなければならなかったのか。
どうして舞白は、あの日、うちに遊びに来てしまったのか。
舞白が来なければ、舞白は助かったんじゃないか。
ママからケーキを受け取らなければ、舞白は階下へ行かなかったんじゃないか。
小皿とフォークを取りに行くのが舞白じゃなくて私だったら、舞白は助かったんじゃないか。
そもそも私があの会社へ入社しなければ、木村に目を付けられずに済んで、ママも、パパも、舞白も、タロも、誰も死ななかったんじゃないか。
いや。
――私にユニークスキルがあれば、守れたんじゃないか。
答えなんて、どれだけ考えても出ない。けれど問いだけは、蛆のように心の中で増え続けた。
私は、不幸にも生き残ってしまった。
その事実が、日を追うごとに重くなっていく。眠れない夜も、ふとした瞬間に手が止まる昼も、全部その言葉へ繋がっていく。
生き残った。
生き残ってしまった。
どうして私だけ。
「……この辺りかな」
今日は舞白の告別式だった。
昨晩のお通夜は親族のみで行われたため、事件の後、私はまだ舞白の両親に会えていない。
学生の頃、舞白の家には何度も遊びに行った。マイペースだけれど優しいお母さん。柔和で、良く笑うお父さん。私が遊びに行けば、二人ともいつだって歓迎してくれた。
その記憶があるからこそ、葬儀場へ向かう足は重かった。
なんと謝ればいいのだろう。
そんな言葉で済む話じゃない。謝ったところで、舞白は返ってこない。許されるはずもない。
それでも、謝らないという選択肢もなかった。
重い足取りのまま葬儀場へ足を踏み入れる。受付で香典を差し出し、深く頭を下げ、白い菊の匂いと線香の匂いが混じる静かな空間へ入った。
大きな扉を開けた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
学生時代の友人たち。職場の同僚たち。舞白の親族らしき見知らぬ大人たち。そして、祭壇に飾られた遺影の前で、泣き崩れている舞白の両親。
舞白は笑っていた。遺影の中で、あの日までと変わらない顔で。
「ああっ……舞白……どうして……どうしてこんなことに……っ!」
「舞白……ううっ……」
舞白の母の泣き声が、式場の静けさの中で酷く生々しく響く。
私は一瞬、足を止めた。
逃げたい、と思った。帰ってしまいたい、とも思った。
でも、そんなことはできない。ここで背を向ける方が、よほど卑怯だった。
私は呼吸を整え、遺影の前にいる二人へ歩み寄った。
その姿に気付いた舞白の母が、ゆっくり顔を上げる。目が合った瞬間、その表情が変わった。悲しみの色が、怒りに反転する。
彼女は勢い良く立ち上がり、私の方へ詰め寄ると、そのまま肩を掴んだ。
「アンタ……!!!どの面下げてっ……!!!」
式場中に響くほどの大声だった。
腫れた瞼。涙で崩れた化粧。その顔には、もう私が知っている優しい舞白のお母さんの面影はなかった。あるのは、最愛の娘を奪われた母親の、剥き出しの悲しみと怒りだけだった。
「アンタの所為で!アンタの所為で……っ!!!」
私は何も言えなかった。
言い返す言葉なんて、一つも持っていなかった。違う、とも言えない。私のせいじゃない、とも言えない。
その時、舞白の父がこちらへ歩いてきた。その足取りは重く、顔には何日も眠れていない人間の疲労が刻まれていた。
「陽奈乃ちゃん……家内も君が悪いわけではないのはわかっているんだ……ただ……」
その先を、彼は言い切れなかった。けれど、わかった。わかってしまった。
頭では違うと理解している。でも、感情では違わない。
娘が死んで、生き残った、「その日そこにいたもう一人」が目の前にいる。その現実を前にして、平静でいられるはずがない。
「わかってる……わかってるけど……ううっ……」
舞白の母の指から力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちる。
私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「――間もなく、故・青砥舞白様の告別式が開式となります。受付を済まされたご参列の皆様はご着席をお願いいたします」
場違いなほど整った司会の声が、式場に流れる。
私は自分が今どんな顔をしているのかもわからないまま、席へ着いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
告別式は、粛々と進んでいった。
司会の挨拶。
読経。
弔辞。
弔電の紹介。
焼香。
線香の煙が細く漂い、白い花々が祭壇を埋め尽くしている。嗚咽を押し殺すような音が、時折、静かな会場のあちこちで漏れた。
「舞白ぉ……」
「舞白ちゃん……なんで……っ!」
私はそのすべてを、現実感の薄いまま受け止めていた。
舞白が死んだ。その事実だけが、頭の中で何度も空回りしている。
舞白がどれだけ愛されていたかを、こんな場所で、こんな形で思い知らされる。明るくて、誰とでも打ち解けて、八重歯を見せて笑うだけでその場を明るくできる子だった。私みたいに、何もない人間とは違った。
――舞白は、死んではいけない人だった。
「――最後に、喪主の青砥聡史様よりご参列の皆様へのご挨拶となります。青砥聡史様、よろしくお願いいたします」
舞白の父が立ち上がる。壇上に近い位置へ進み、参列者たちへ深く一礼した。
「……皆様、本日はお忙しい中、娘……舞白のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
私は顔を上げられなかった。彼の声を聞くだけで、胸の奥がずきずきと痛んだ。
「私ども家族にとって、娘は大切な存在でした。明るく、周りの人々に愛される娘であり、まだ若い彼女には、輝かしい未来が待っていると信じておりました」
声が震えている。それでも彼は、必死に言葉を続ける。
耳を塞ぎたいほどの罪悪感に駆られる。
「しかし……突然の出来事により、その未来を失うことになってしまいました。親としてこのような形で彼女を送り出さねばならないことに、深い悲しみと無念の念を抱かずにはいられません」
舞白の母の啜り泣く声が、背後から聞こえる。
私は、どんな気持ちでこの挨拶を聞けばいいのだろう。
悲しめばいいのか。
謝ればいいのか。
ただ黙っていればいいのか。
全部、中途半端だった。
「娘を奪われた悲しみは言葉に尽くせませんが、多くの方々に見守られながら、娘はこの場で旅立つことができると信じております。皆様の温かいお心と、ご支援、ご厚意に心より感謝申し上げます」
静かな式場。誰もが悲しみを抱えて、その言葉を聞いていた。
「私どもの苦しみを共有していただき、共に彼女を偲んでいただけることが、せめてもの慰めとなります」
その一言が、酷く重かった。
私は本当に、ここにいてよかったのだろうか。舞白を偲ぶために来たつもりだった。でも、この場にいることそのものが、遺族にとっては傷口を広げる行為だったかもしれない。
「これからも娘の記憶を胸に抱きながら、前を向いて生きていくつもりです。どうか皆様も、娘のことを少しでも心に留めていただければ幸いです。……本日は誠にありがとうございました」
深く一礼する舞白の父。
その直後だった。
「――ヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲイヲーイ!!!!」
場に似つかわしくない、耳障りな大声が式場へ叩き付けられた。
次の瞬間、式場の大扉が乱暴に蹴り開けられる。全員の視線がそちらへ向いた。
立っていたのは――狂人だった。
濃い深緑色のボサボサ髪。大きく突き出た舌。細身の体躯。その全身から、「尋常ではない」という事実だけが、吐き気を催すほど濃く立ち上っていた。
――死条。
インターホンの録画映像に映っていた男。〈不如帰会〉の会員番号一桁。私の家族を、舞白を、タロを、あの日、あの家で殺した男。
その顔を認識した瞬間、全身の血が凍った気がした。
「ちょっと!あなた!式の途中ですよ!」
司会の男が咄嗟に制止へ入る。
「あ、待って……!」
私は立ち上がって叫んだ。けれど、その声は間に合わなかった。
司会の男が一歩踏み出した、その瞬間。
彼の四肢が、血飛沫を撒き散らしながら、空中でばらばらに弾けた。
何が起きたのか、脳が理解する前に、腕が、脚が、赤い弧を描いて宙を舞う。遅れて、肉の落ちる鈍い音が響いた。
ボト。
ボト。
ボト。
鮮血が祭壇へ飛び、舞白の遺影を赤く染める。棺の白布にも、真新しい赤が散った。
「ああ……あああ……」
「――きゃああああああああああ!!!」
「――やばいって!逃げろ!!!」
一瞬の沈黙の後、式場はパニックになった。
悲鳴。
椅子の倒れる音。
逃げ惑う足音。
泣き声。
その喧騒の中心で、死条だけが楽しそうだった。
彼は周囲を舐めるように見回し、それからゆっくりと棺の傍へ歩いていく。その前にいた舞白の父は、腰が抜けたのか、その場にへたり込んでいた。
「ヲイヲイヲイヲイヲイ!パパさんさあ!」
「あ、ああ……」
「未来を失った?彼女を奪われた?何か勘違いしてないッスか?」
「……あなた……何を……」
「あんたの娘は死んだんじゃないんスよ、〈救いの子〉になったんスよ」
「……何を言っているんですか……」
「おや?パパさんは警察から聞いてないんスか?俺が――」
死条の声だけが、妙に澄んで聞こえた。パニックで騒がしいはずなのに、その言葉だけが不気味なほど耳へ届く。
私は息を呑む。
言うな。
それを言うな。
そう思った。
だが、死条は笑ったまま、平然と告げた。
「――あんたの娘を殺したんスよ」
一瞬、世界が止まった。
次の瞬間、舞白の父が立ち上がっていた。
「てめえええええええええええええ!!!」
「――あなた!」
舞白の母の悲鳴が重なる。
理性なんて一欠片も残っていない動きだった。父親として、娘を殺した相手に飛びかかる。それは当然で、だからこそ、見ていられなかった。
――このままじゃ、舞白のパパまで死ぬ。
そう思った瞬間、私はもう走り出していた。
乱れたパイプ椅子を蹴り飛ばし、一直線に前へ出る。頭で考えたわけじゃない。身体が勝手に動いた。
その刹那、私の身体の奥で、何かが弾けた。
熱い。
熱い。
全身の血液が、一瞬で灼けるように熱を帯びる。
「いいよ、あんたも〈救いの子〉っス!おめでとうございやーす!」
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
叫んだ瞬間、私の身体が白く光り始めた。
眩い、としか言いようのない光だった。式場の悲鳴も、椅子の擦れる音も、何もかもが遠ざかる。時間の流れが急に遅くなる。死条の動きが、止まって見える。
その熱が、すべて右腕へ集中していった。
右拳だけが、自分のものじゃないみたいに重く、熱く、眩しく、存在感を増していく。
「……あ?」
死条の間抜けな声が、酷く遠く聞こえた。
――次の瞬間。
私は、右拳を振り抜いていた。
死条の頬を捉えた感触が、骨越しに伝わる。軽い。人を殴った感触じゃない。何か薄いものを砕いたような感触だった。
直後、爆音。
死条の身体が視界から消えるほどの速度で吹き飛び、式場の床へ叩き付けられた。衝撃が会場全体を揺らし、花が揺れ、棺の布がばさりと鳴る。
「がはッ……てめえ……ッ」
「……ひ、陽奈乃ちゃん!?」
何が起こったのかわからない、といった表情で私に声を掛ける舞白の父。そこに舞白の母が駆け寄ってくる。彼らの表情には、驚きと恐れが混じっている。
「お二人とも、逃げてください」
自分の声が、自分のものではないみたいに冷たかった。
「……てめえ……〈不如帰会〉を敵に回す気っスか……?」
「……黙れよ、殺人鬼」
初めて見るそんな私の様子に、呆気に取られる舞白の両親。
「お前……なんで私の家族を殺した?」
「……あ?」
「この遺影の子と同じ日に……お前が殺した私の家族だよ……」
「……ああ……あんた、〈救われなかった子〉っスか……」
「なんで殺したって聞いてんだよ……」
「殺したんじゃない……〈救いの子〉にしてあげたんスよ。さっきも言ったっスよね?」
「――外道が」
「よし、じゃあお前も〈救いの子〉っスね」
死条はそう思いついたように告げると、構えの姿勢を取る。彼のとった姿勢に、凄まじいほどの敵意と殺意が滲んでいる。
「俺の偉人級ユニークスキル……〈裂刃〉の前に散りなぁ!」
死条が飛びかかってくる。凄まじい速度。洗練された動き。本来なら、目で追うことすら難しかったのかもしれない。
けれど、私には、遅すぎた。
死条の腕の振り抜きも、脚の踏み込みも、全部が見えた。見えてしまった。
私は右腕を開く。拳ではなく、手刀の形。その瞬間、右腕の光がさらに増した。白く、鋭く、刃のように。
振る。
ただ、それだけだった。
死条の脇腹に、私の右手が深々と差し込まれる。肉を裂く感触。骨を断つ感触。人間の身体を「抵抗」としてではなく、「脆いもの」として捉えてしまう感覚。
そのまま私は腕を抜いた。
死条の身体が、斜めに摺れていく。
そして、真っ二つに割れた。
「……てめえ……何者……」
上半身と下半身に分かれた死条が床へ落ちる。そこから漏れ出したものすら、すぐに光へ呑まれていった。
「地獄に堕ちろ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「……そうっスか……嗚呼、「はんぶん様」……俺も救いの刻が来たってことっスね……」
死条は狂ったように笑いながら、天へ手を伸ばした。
その肉体は次第に光の粒へ分解されていく。指先から、肩から、胸から、細かな粒となって崩れ、散っていく。ぞっとするほど幻想的な最期だった。
「……ひ、陽奈乃ちゃん……君は……」
いつの間にか、式場からは人の気配がほとんど消えていた。逃げ遅れた者たちも、息を呑んだままその場で固まっている。
花の匂い。
線香の匂い。
血の匂い。
それらが混ざり合った空間の中で、死条の身体は最後まで狂気の笑みを浮かべたまま、光となって消滅した。
残ったのは、壊れた式場と、遺影と、棺と、呆然と立ち尽くす私だけだった。




