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1-64 日向家の喧騒

「…………え?」


 悪い夢を見ている気分だった。いや、(むし)ろ、悪い夢であってくれたなら、どれだけ救われただろうか。


 一階へ続く階段。そこから玄関まで伸びる廊下。見慣れたはずの家の輪郭は、すべて赤で塗り潰されていた。


 鮮血だった。


 廊下の上に、階段の縁に、壁際に、赤黒い血が飛沫(しぶ)き、流れ、乾きかけ、まだ濡れたままのところもある。そこに転がっているのは、もう「舞白」とは呼べない何かだった。


「う……そ……」


 視界が揺れる。床が傾いているように感じた。今見えているものが、自分の知っている世界と結び付かない。


 さっきまで、二階の私の部屋で一緒に旅行雑誌を広げていた。

 さっきまで、八重歯を見せて笑っていた。

 さっきまで、ケーキ食べようよ、と言っていた。


 それが今は――階段の下に、廊下の上に、肉と血の断片として散っている。


「ま、舞白……あ……あ……ああっ」


 喉の奥が縮こまる。けれど悲鳴はうまく出ない。代わりに、空気を吸うたび、鉄臭い血の匂いが肺の奥にまで入ってくる。


 足がふらついた。それでも私は、何かに引き寄せられるように、一段、一段、階段を下りていった。


 ぴちゃ。ぴちゃ。


 足裏が、血を踏む。その水音が、嫌になるほど鮮明に耳に残る。


 私は途中で気付いた。舞白のものと思われる手足の数が、合わない。


 四本ではなかった。五本。いや、六本。


 その瞬間、脳の奥に、家族の顔が一斉に浮かび上がった。


「ママ……パパ……タロ……」


 廊下の左手。そこにあるリビングの扉は開いていた。


 中から、赤が見えた。


 嫌になるほどの赤だった。床を這い、廊下にまで流れ出てくる赤。その色が、私の頭の中の嫌な予感を、現実へ引き()り下ろす。


 私は、やっとの思いで一階へ下りきった。目を閉じる。もしこのまま目を開けなければ、まだ、何も確定しない気がした。


 でも、そんなことに意味はないとわかっていた。逃げたところで、目の前の現実は消えない。


 私は震える呼吸のまま、目を開いた。


 そして、リビングを覗き込んだ。


 ――(むご)かった。あまりにも、(むご)かった。


 鮮血に染まったリビングには、四肢が転がっていた。もう、誰の腕なのか、誰の脚なのか、判別もできない。


 食卓の上には、父の首。キッチンの床には、母の首。それぞれが「元は人間だった」ということだけが、辛うじてわかるほどの壊れ方をしていた。


 いつも夕食を囲んでいた場所。味噌汁の匂いとテレビの音が混ざっていた場所。父が新聞を読み、母が笑いながら配膳していた場所。


 そこはもう、家ではなかった。


 熱されたままのフライパンから煙が立っていた。中で焦げている肉の匂いと、血の匂いと、胃の奥を引っ掻くような生臭さが混じり合い、空気そのものが壊れていた。


「あ……ああ……ああっ……!」


 私は足を踏み出した。ママに、パパに、近寄ろうとして。


 その右足に、何か柔らかくてぐずついたものが触れた。


 視線を落とす。


 そこで、私は本当に立てなくなった。


 それは、もう犬の形をしていなかった。でも、タロだとわかった。


 毛の色も、体の大きさも、玄関でいつも私を迎えてくれたあの温もりも、全部がぐちゃぐちゃになって、ただの肉塊に変わっていた。


 いつも尻尾を振ってくれた。学校から帰れば真っ先に飛び付いてきた。寂しい時は何も言わず隣にいてくれた。


 そのタロが、床の上で、物のように転がっていた。


「あ……ああ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 悲鳴にも近い、絶叫――。(よわい)二十にも満たない私の精神が壊れるには十分すぎる絶望だった。その叫びが、血に染まった部屋に(むな)しく響く。


「お、おえええええええええええええええええええええええええっ」


 胃が縮み上がる。何も食べていないはずなのに、吐瀉物が溢れた。血の海の上に、私の吐いたものが混じって広がっていった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 刑事や警察の鑑識部(かんしきぶ)らしき男たちが日向家を訪れたのは、事件発覚から一時間後のことだった。


 私は警察への通報の後、リビングの(すみ)(うずくま)っていた。自室に戻る気力もなかったのだ。


 その間、私はリビングの隅に(うずくま)っていた。二階へ戻る気力はなかった。玄関へ出る気力もなかった。目の前の現実から逃げたいのに、身体だけがここに縫い付けられているようだった。


 インターホンは鳴っていた気がする。けれど、私は答えられなかった。扉は開いたままだったのか、やがて警官たちはそのまま家の中へ入ってきた。


「……うっ……酷い……」


「……(むご)いな」


 玄関と廊下の惨状を見て、彼らは一瞬、言葉を失っていた。それでも彼らは、その場に立ち尽くしたままではいなかった。遺体へ短く手を合わせ、すぐに現場保存と捜査へ移る。


 私にも声は掛けられた。けれど、上の空のまま返事もまともにできない私を見て、事情を察したらしい。無理に問い詰められることはなかった。


「「「――飛車角警視監!お疲れ様です!!」」」


「……おう」


 その声で、リビングの空気が一段変わった。


 警官たちが一斉に姿勢を正し、敬礼する。その先から現れたのは、まるで子供みたいな体躯の男だった。


 身長は百二十センチほどだろうか。丸い目。丸い顔。マスコットキャラみたいにデフォルメされたような容姿。なのに、深緑の将校服と制帽を身に纏い、低く渋い声で短く挨拶を返す姿には、場の全員を従わせるだけの威圧があった。


 私は、その男を知っていた。いや、この新世界では知らない人間の方が少ない。


 ――〈十傑〉・第三席――飛車角(ひしゃかく)(あゆむ)


 警察のトップクラスの階級である警視監(けいしかん)に二十二歳という若さで就いた異端児。元・陸軍大将。


 数年前の異能戦争で最愛の妻を亡くし、その悲劇を二度と繰り返さないために警察へ身を置いた男。見た目だけ見れば、どうしたってふざけて見えるのに、その実績も立場も、この新世界では本物中の本物だった。


「……こりゃあ派手にやってくれたな」


 飛車角はそう呟くと、まず遺体へ向かって静かに手を合わせた。それから、リビングの隅で(うずくま)る私を見つけ、ゆっくりと近づいてくる。その短い足の一歩一歩に、若いながらも警視監として(つちか)った威厳が感じられる。


「あっ警視監、その子は落ち着いてから……」


「…………」


 止めに入った警官を、飛車角は右手で制した。そして私の目の前で立ち止まり、その黒く丸い目で私を見下ろした。


「…………第一発見者の……日向陽奈乃だな?」


「……はい」


 (うつむ)いたまま答える。自分の声が、酷く震えているのがわかった。


「……早速だが……俺はホシに心当たりがある」


「……ッ!」


 私は反射的に顔を上げた。


 飛車角は表情を崩さない。けれど、その声には、適当な推測ではない種類の重さがあった。


「……だがその前に話を聞かせてくれ……。嬢ちゃんにはその義務がある」


「……わかりました」


 私は嗚咽混じりに事の経緯(けいい)を説明した。


 舞白が遊びに来たこと。

 家族で迎えたこと。

 母がケーキをくれたこと。

 舞白が小皿とフォークを取りに階下へ行ったこと。

 戻ってこないのを不審に思って、自分も下りたこと。

 そして、その時にはもう、この惨状だったこと。


 一つ言葉を出すたび、喉の奥が切れそうに痛かった。記憶を辿るたび、さっきまで生きていた時間が手の中から(こぼ)れていく気がした。


「……成程。……嘘はないようだな」


 飛車角は短くそう言うと、少しだけ考えるように沈黙し、それから(きびす)を返した。


「……ついて来い」


 言われるがまま、私はふらつく足でその背を追う。彼が向かった先は、キッチン脇のインターホンだった。


「インターホン……ですか?」


「……ああ」


 飛車角は白い手袋を嵌めた右手で操作を始めた。短い指先が、慣れた様子でメニューを開き、録画リストを表示する。


 画面に映ったのは、まず通報後に駆けつけた警官たちの姿。そこから少し前へ巻き戻していく。


 やがて、玄関前に立つ二人の男女が映った。


 一人は、濃い深緑色のボサボサの髪をした男。細身。整った顔。大きく舌を出している。その様は狂気だ。


 ――見た瞬間、わかった。普通じゃない。


 そしてもう一人。


「えっ……」


 その女の顔を認識した瞬間、心臓がまた嫌な音を立てた。


「……知り合いか?」


 知っていた。毎日見ていた。見たくなくても、仕事中ずっと視界に入っていた。


「職場の……上司です」


「……こっちの女か」


「……はい」


 木村だった。私を執拗に侮辱し、いたぶり、職場での居場所を削ってきた女。その木村が、深緑の男と並んで、私の家の玄関前に笑顔で立っている。


「……そうか」


 飛車角は低く言って、少しだけ目を細めた。


「……あの、飛車角さん」


「……そうだ、ホシはコイツらだ」


 視界がぐにゃりと歪んだ。


 ――どうして?


 疑問が、次々と浮かぶ。

 どうして木村が。

 どうしてうちに。

 どうしてママとパパとタロと舞白が。


「……〈不如帰会(ほととぎすかい)〉」


 愕然(がくぜん)とする私に、飛車角が告げる。聞いたことのない名前だった。


「…………最近クランとしても登録されたばかりの新興(しんこう)宗教だ」


 宗教。その言葉が、現実感のないまま耳の奥に沈む。


「どういうことですか……?」


「……青砥(あおと)舞白(ましろ)と部屋にいるとき、インターホンが鳴らなかったか?」


「……はい、鳴りました……」


「……じゃあその時だろうな、扉を開けた嬢ちゃんのご両親は勧誘を断った」


「…………それだけで……殺されたってことですか?」


「……そういう団体だ。……と言っても納得出来ないだろうがな」


 理解できなかった。


 ――宗教の勧誘を断った。それだけで、殺害された?何の罪もない私の両親とタロが?舞白はその場に偶然居合わせて?……なんで……なんで……?


「…………なんで……」


「……なんだ?」


「なんで〈不如帰会〉のことを公表しなかったんですか……ッ!そこまで理解(わか)っているなら……公表していれば……!私の家族は……ッ!舞白は……ッ!」


 気付けば叫んでいた。喉が痛む。肺が震える。リビングにいた警官たちの視線がこちらへ集まる。


 けれど飛車角の返答は、あまりにも冷たかった。


「……警察も色々あんだよ」


「……ッ!」


 それだけだった。


 飛車角は制帽を軽く押さえ、申し訳なさそうに目を伏せる。だが、その一言で失われたものが戻るわけじゃない。


 私は下唇を噛み締めた。血の味がした。


「映像に映る男……間違いない。〈不如帰会(ほととぎすかい)〉の会員番号一桁(ダーキニー)……死条(しじょう)だ……」


「…………ダーキニー……ですか?」


「…………〈不如帰会(ほととぎすかい)〉の人間は、幹部を――会員番号一桁(ダーキニー)……そう呼んでいる」


「幹部…………なんでそんな人が…………?」


「……ここ最近でバラバラ殺人は何件も起きててな……。足取りが掴めない男だが……全ての事件にコイツが関与してると見て〈警視庁〉本部では捜査を進めている」


「……もう一人……木村……さんは……」


「……嬢ちゃんの知り合いなら、ここに死条を誘導したのはこの女だろうな」


「……そんな…………」


 言葉が抜け落ちる。木村の嫌味や嘲笑は、全部、ただの職場いじめだと思っていた。

 

 嫌な大人。性格の悪い上司。その程度の存在だと。


 それが、私の家族を殺す地獄の入口だったなんて。


「……嬢ちゃん、あまりここに居すぎない方がいい。……おい、嬢ちゃんを部屋まで連れてってやってくれ」


 飛車角は近くの刑事へそう告げると、その場を離れていった。


「あの、日向陽奈乃さん、すみません。お話は後でまた詳しく(うかが)いますのでそれまでお部屋で待機していただけますか」


「……はい」


 私は警官に連れられ、ゆっくりと階段を上がった。血の匂いがまだ服に染みついている。靴裏にも感触が残っている気がする。


 扉を開けると、そこには先程までの日常の続きが残っていた。


 ベッドの上に広げられた旅行情報誌。読みかけのページ。白いシーツの(しわ)。ついさっきまで、舞白がここにいた証拠が、何も壊れないまま残っている。


 そのことが、逆に耐え難かった。


 ふと、ベッドの足元に目をやる。床に置かれた舞白の小さな鞄から、何かが少しだけはみ出していた。


 小さくラッピングされた箱。可愛らしい包装紙。たぶん、何かのプレゼント。


 その隣に、白い箱があった。


 ――そうだ。舞白は、ケーキを食べようって言って。フォークとお皿を取りに下へ行って。


「……まだ……食べられるかな」


 食欲なんて、あるはずがなかった。なのに私は、その白い箱へ手を伸ばしていた。


 箱を開ける。


 ホールケーキだった。円を描くように苺が並んでいる。中心にはチョコプレート。そこに、白いチョコペンでメッセージが書かれていた。


 ――大好きな陽奈乃、誕生日おめでとう――


「…………ッ!ママ……パパ……タロ……舞白……ッ……!!」


 ――嗚呼(ああ)、そうか。今日で私、十九歳なんだ。


 流れる涙を誤魔化(ごまか)すようにケーキの(はし)手掴(てづか)みし、口に押し込む。甘味(かんみ)が口内に広がる。


 甘かった。嫌になるほど甘かった。


 その甘さが、喉の奥でぐしゃぐしゃに崩れて、涙と嗚咽に混ざった。


「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!」


 私は白い箱の前に(うずくま)り、泣き叫んだ。


 咽び、叫び、息が切れても泣き続けた。声が枯れても、止まらなかった。


 その慟哭だけが、血に染まった日向家の中で、いつまでも、いつまでも虚しく響き続けていた。

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