1-63 日向家の一幕
「陽奈乃ー!学校に遅刻するわよー!」
「うぅ~ん、あと五分~」
――二〇九十年四月二十八日、〈日出国ジパング〉、都内のとある病院。快晴の空の下、日向陽奈乃はこの世に生まれ落ちた。
母は普通の専業主婦、父は普通の会社員。貧乏でもなければ、飛び抜けて裕福でもない。祝い事の時は少しだけ奮発して、普段は堅実に暮らす――そんな、どこにでもある中流家庭の一人娘として、私は育った。
朝が来れば、決まって母の声で起こされる。布団の中の温もりにしがみついていたい私を、母は呆れ半分、愛情半分の声で急かすのだ。
「おはようママ……あれ?お父さんは?」
「おはよう、陽奈乃。お父さんならもう出たわよ。今日は朝から会議なんですって」
眠気で重くなった瞼を擦りながらリビングへ出ると、味噌汁の匂いがふわりと鼻先を擽った。炊き立てのご飯の白い湯気。トースターの熱気。洗い立ての布巾の匂い。いつもの朝の光景が、日向家の日常を形作っている。
母はエプロン姿のまま、忙しなく朝食の準備を進めている。私はいつものように急かされながら席に着き、ぼんやりとした頭のまま味噌汁を啜り、ご飯を口へ運んだ。時計の秒針が進む度、母の「早くしなさい」という声が飛んでくる。だけど、それすらもどこか温かかった。
「ほら陽奈乃、早くしないと遅刻するわよ」
「わかってるってママ。行ってきまーす」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
会社員の父が三十五年のローンで購入した都内の一軒家。広いわけではない。豪奢でもない。けれど、私にとっては世界の中心みたいな場所だった。優しい両親に育てられて、私は何不自由なく大きくなった。
優しい母がいて、真面目に働く父がいて、帰ればちゃんと夕飯があって、季節が変わるたびに衣替えをして、誕生日にはケーキを囲む。私は、そんな「当たり前」の中で大きくなった。
特別目立つ子ではなかった。自分から前へ出るのは苦手で、どちらかと言えば、教室の端で静かに笑っている方が性に合っていた。長く伸ばした黒髪だけが、少しだけ自慢だった。そんな、どこにでもいるような女の子。けれど私は、そのどこにでもあるような日々を、幸せだと思っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――その日の夕方。私は、尻尾を振りながら足下に纏わり付く愛犬のタロと戯れながら、家族で夕食後の団欒の時間を過ごしていた。柔らかな夕暮れの光が、その穏やかな時間を優しく照らしている。
「へへっ、タロ。今日も元気だね」
「クゥーン」
鼻先を押し付けてくるタロの頭を撫でる。温かな毛並みの感触に、自然と頬が緩んだ。
「……ねーママ、パパ。私いつユニークスキル授かるのかな。もしかして、無等級なのかな」
何気なく零したその言葉に、流しで食器を洗っていた母が振り返る。
「そうねえ、いつかわからないけどきっとすぐ発現するわ」
テレビを見ていた父も、画面から目を離さないまま穏やかに言った。
「そうだぞ。陽奈乃のペースでいいんだ。焦ってもいいことないさ」
二人のその声には、娘を気遣う優しさが込められている。
「だといいけど……早くユニークスキル欲しいなあ」
「クゥーン」
私の指をペロペロと舐めるタロ。その頭を撫でながら、私は小さく息を吐いた。
――私の唯一の不安は、十七歳、高校二年生になっても未だユニークスキルが発現しないことだった。
仲のいい子たちが、自分のユニークスキルに戸惑ったり、喜んだり、中位級だの下位級だのと一喜一憂しているのを見るたびに、胸の奥に沈殿していく焦りがあった。
まだ何も起きていない。けれど、何も起きないかもしれない――。その漠然とした不安だけが、誰にも見えない場所でじわじわと重くなっていった。
「陽奈乃、ところで進路はどうするの?進路調査、明後日までなんでしょ?」
机に置かれた進路希望調査票を見下ろしていた私に、母が尋ねる。
「進路かぁ」
頬杖を突いて、私は溜息を吐く。
――八十年程前、世界中にユニークスキルが現れたことで、ユニークスキルによって犯罪を起こす異能犯罪者が爆増した。それは〈警視庁〉だけでは対処しきれず、新世界では自衛の術を持つことが半ば常識のようになっている。
〈世界ランク〉――戦績上位者はその分、異能犯罪の抑止力として莫大な報酬を得る。戦うことで生計を立てる者も珍しくないのだ。もっとも、ユニークスキルすら発現していない私には、酷く遠い世界の話だった。
「陽奈乃のやりたいことをやればいいんじゃない?」
「やりたいこと……かぁ」
言いながらも、すぐには何も浮かばない。テキトーに大学へ行ってから探すか。就職するか。ユニークスキルが発現したら、それを見て考えるか。どれも決定打に欠けていて、どれも「本当にこれだ」とは思えなかった。
――私は普通の高校生だった。やりたいことがまだない、ということすら、ありふれた悩みの一つに過ぎなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――翌日、学校。
「――おはよ!ひなのっち」
机に座った私の視界に飛び込んできたのは、二つの太陽みたいな髪飾りと、元気の塊みたいな金髪ツインテールだった。
「舞白、おはよ」
この朝からハイテンションの女の子は、青砥舞白。小学校から高校までずっと一緒の、私の親友だ。笑った時に八重歯がちらっと見えるのが可愛くて、明るくて、誰とでもすぐ仲良くなれて、教室の真ん中にいるのがよく似合う子だった。
目立たない私とは真逆。でも、不思議なくらい一緒にいるのが自然な相手だった。
「ひなのっちー!進路希望調査票って明日までっしょ?どうするの?」
「うーん、まだ決め兼ねてて……。舞白は?」
荷物を机に置きながら答える。
教室のあちこちでも進路の話題が飛び交っていた。皆、未来の話をしている。進学、就職、クラン加入、異能バトル。選択肢がある子ほど、迷い方も華やかだ。
「アタシは就職かなー!ユニークスキルも下級でガン萎えだし大学行くお金ねーしでマジウケる」
「そっかぁ……私も就職しよっかな」
未だ発現しないユニークスキルを夢見て、何も決めないまま時間を浪費するのは怖かった。「そのうち何とかなる」を信じられるほど、私は強くなかった。
「え、ひなのっち就職するの!?」
「うん、そうしよっかな」
「じゃあさ!就職先同じになるようがんばろ!」
「うん!ありがと、舞白」
「いぇあ!」
舞白は嬉しそうに八重歯を覗かせて笑った。その笑顔を見るだけで、進路への不安が少しだけ軽くなるのだから、単純だと思う。
――こうして私は、親友と同じ道へ進むことを決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――一年後。私は高校卒業と同時に、親友の舞白と同じ都内の食品会社に事務として入社した。
社内の休憩室にて親友の舞白と昼食を取る。蛍光灯の下で、二人の会話が弾む。
「あ、ひなのっちもお弁当作った系?」
「うん、こっちの方がコスパいいかなって」
「おかず交換しよーよ!私の唐揚げあげる~!」
「ありがと、舞白。じゃあエビフライあげるね」
賑やかな休憩室。紙コップのコーヒーの匂い。電子レンジの音。
入社したばかりで仕事はまだ慣れない。だけど、こうして舞白とまた同じ場所で笑えることは、それだけで救いだった。
――そしてこの一年、結局私にユニークスキルが発現することはなかった。そのことに私は変わらず劣等感を抱えていた。
その事実は、静かに、でも確実に、私の中に劣等感を積もらせていった。もしこのまま二十歳になっても、何も起きなかったら。そう考えるたびに、胸の奥に冷たいものが沈む。
「それにしてもひなのっちと違う部署になっちゃうとはねー」
「一緒が良かったよね~。ほんとに忙しすぎ」
「それな~!てか研修雑すぎじゃね?上司も全員きしょいし!マジ休みたい!」
私は一般事務、舞白は受付事務。配属先は違ったけれど、昼休みにこうして会えるだけで、午前中の疲れが少しだけ薄まる気がした。
「へへ、そうだね。早くゴールデンウィーク来てほしいよね~」
「それな!あ、てかひなのっち!ゴールデンウィークさ、アタシら二人で旅行行くのありじゃね?」
舞白の突然の提案に目を丸くするが、いつものことだ。舞白は多少強引な面もあるが、主体性がない私をいつも引っ張ってくれる。
「ありかも。じゃあ週末ウチで計画立てようよ」
「え、やった!ひなのっちママのご飯よき?」
「もー舞白、仕方ないな~。ママにお願いしとくね」
「ひなのっちありがと!あ、そろそろ昼休憩終わっちゃう!」
休憩室のデジタル時計が表示した時刻は十二時五十七分。そろそろ午後の仕事の時間だ。
「あ、そうだね。じゃあ、舞白またね」
「いぇあ!」
急いで空になった弁当箱を巾着で包み、電子ロッカーに戻す。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
早足でオフィスルームへ向かい、入口に社員証を翳す。
自分の席へ急ぐ途中で、私は嫌なものを見つけてしまった。私の机の横で、腕を組んだまま待ち構えている女。直属の上司、木村だ。その姿に、思わず足が竦む。
「あ、木村さん……すみません。今戻りました」
「あのさ~日向さん、遅いんだけど。言ったよね?十三時ちょうどには座席に座って業務を始めるようにって」
木村は爪先をトントンと鳴らしながら、露骨に苛立ちを表に出す。
私は視線の端で、業務用映像投影型PCの時刻表示を見る。十二時五十九分から、ちょうど十三時へ切り替わったところだった。
――時間ピッタリ。遅れてなんかいない。
でも、それを口にしたところで何かが良くなるわけじゃないことくらい、もうわかっていた。
その横で次々と休憩から戻ってくる他の同僚たち。木村は彼らを気にも留めず、ずっと私を睨み付けていた。
「……すみません。次から気を付けます」
萎縮して頭を下げる。私の直属の上司に当たる木村は、新人イビリで有名な四十歳ほどの女性である。彼女は新人の私に対して常に高圧的だった。私は理不尽なこの人が苦手だった。しかし入社したばかりで楯突く訳にもいかない――そう考え、やり過ごすしかなかった。
「あと日向さん、この資料間違ってるんだけど。ちゃんとチェックしたの?」
資料が机に叩き付けられる。紙がばさりと広がる音が、やけに大きく感じた。
「すみません……チェックはしたんですけど……」
「はあ、ホント使えないわね」
「……すみません。確認してすぐ修正します」
「はあ……」
周囲の社員も「お局様」には強く言えないのか、皆が見てみぬフリをしている状況。私は、私にはこの仕事は向いていないのかもと思い始めていた。
しかし、舞白と同じ会社になんとか内定を得ることができたこと、日も浅いため転職も難しく、ユニークスキルも発現しておらず一般職以外の当てもなかったことから、会社を辞めることは選択肢になかった。これくらいのことはみんな乗り越えている――そう思い込んで耐えるしかなかった。
「日向さ~ん、お茶貰っていい?」
「あ、はい!すぐに!」
男性の上司の指示で、私は給湯室に向かった。
扉の前まで来たところで、中からくぐもった笑い声が聞こえる。嫌な予感がした。けれど、引き返す方がもっと惨めに思えて、そのまま足を止めた。
「はあ、日向さん、ホント使えない。なんで人事はあんな子採用したのかしら」
「新人の子でしたっけ?正直顔だけって感じですよねー、暗くて地味だし」
「面接で身体でも売ったんじゃないですか?なんて」
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!それ最高!」
――また木村さん。それとその取り巻き。こんなのは日常茶飯事だ。なんだか嫌になっちゃうな。
何度目だろうと思う。何度目でも、慣れはしない。
私はわざと表情を変えないまま、給湯室の扉を開けた。
「…………」
「あ、日向さん……」
「何?日向さん、何か文句あるの?」
「いえ……」
「いや暗すぎでしょ。行きましょ」
面白くなさそうに去っていく木村と取り巻きたち。取り残された給湯室に、妙に白々しい静けさだけが残った。
お湯の沸く音を聞きながら、私はぼんやり思う。
――嫌だな。
でも、辞められない。辞める理由も、次の当ても、私にはない。
舞白がいてくれる。家に帰ればママとパパにタロがいる。だから大丈夫。――そう思い込むしかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――そして迎えた週末。
今日は待ちに待った、舞白とゴールデンウィークの旅行の 計画を立てる予定の日だ。舞白が来るのを今か今かとリビングで待っていた。
ピンポーン!
インターホンの音が鳴った瞬間、胸がぱっと明るくなる。
――舞白だ……!
階段を駆け下り、玄関の扉を開ける。そこには、いつも通り八重歯を見せて笑う親友の姿があった。
「ひなのっち!お邪魔するね!」
「舞白!入って入って!」
リビングから愛犬のタロが駆け寄ってくる。小さな足音、弾む呼吸、全力で振られる尻尾。その全部が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
「ワン!ワン!」
「タロ~!久しぶり~!」
舞白は踞み込み、タロの頭を撫で、そのまま頬擦りする。タロも嬉しそうに鼻を鳴らしていた。
「あらタロ、舞白ちゃんが来てくれたからって燥いじゃって。舞白ちゃん、いらっしゃい」
続けてリビングから現れた母が、舞白に歓迎の言葉を投げ掛ける。母の声には、いつもの優しさが溢れている。
「ひなのっちママ!ご無沙汰です!」
敬礼のポーズを取って挨拶を返す舞白。その様に思わず苦笑が漏れる。
「ふふ。舞白ちゃん、ハンバーグ作ってるから楽しみにしててね!」
「わあ!ありがとうございます!」
「ほらあなた、舞白ちゃんが来られたわよ」
母に呼ばれ、父もリビングから姿を見せる。
「おー舞白ちゃん!久しぶりだね。陽奈乃が会社でもお世話になってるそうで」
「いえいえ!とんでもないです!すみません、お休みの日にお邪魔しちゃって……」
「いやいや、舞白ちゃんなら大歓迎だよ。寛いでいきなさいね」
「ありがとうございます!」
――普段は能天気で明るい舞白……フランクながら礼節をしっかりと弁えている。私が舞白を好きな理由の一つだ。その明るい人柄に、私の家族も心を開いている。
「舞白、部屋行こっ」
「おけ!」
階段を上ろうとしたところで母から肩を叩かれる。振り返ると、白い箱が差し出された。
「さっき買っておいたケーキよ、舞白ちゃんと食べなさい」
「あっママ、ありがとう」
「ひなのっちママ、ありがとうございます!」
「いいのよ、舞白ちゃん。後でご飯できたら呼ぶからね」
「はーい!」
私たちはドタドタと階段を駆け上がり、私の部屋へ飛び込んだ。高校生の頃は毎週のように一緒にいたのに、社会人になってからはこういう時間すら久しぶりで、胸の奥が少しだけ擽ったくなる。
白い箱を床に置き、二人でベッドに腰を下ろす。舞白は小さな鞄から旅行情報誌を何冊も取り出し、シーツの上にばさばさと広げた。
「えっ舞白、買ってきてくれたの?」
「へっへっへ!こういうのはアナログに限るからね!」
「ふふ、ありがと、舞白」
「いぇあ!」
ページを捲るたび、色鮮やかな観光地の写真が目に飛び込んでくる。海、街並み、温泉、夜景、離島。知らない場所ばかりで、それだけで少し楽しかった。
「〈桜和門エリア〉の街並みを観光するのもありよりのありだし……〈南国諸島ニライカナイ〉の〈渚岐南エリア〉も気になるかも!」
「〈渚岐南エリア〉って去年の〈極皇杯〉の予選Aブロックの会場だよね?」
「いぇあ!めっちゃ綺麗だったくない?」
「確かにいいかもね」
その時、階下でインターホンの音がした。誰か来客だろうか、と一瞬だけ思う。けれど、舞白は雑誌を捲る手を止めず、私はそれに付き合っていた。
「それでそれで、ひなのっちは気になるとこある?」
「うーん、一箇所に絞るの難しいけど……〈淡墨エリア〉とか気になるかも」
「うわー!それもあり!」
「でも舞白が言ってくれたところも気になるなあ。〈桜和門エリア〉も〈南国諸島ニライカナイ〉も行ったことないし」
「それな!悩むー」
「え、決めるの難しくない?」
「それ!マジムズい!あ、折角だし陽奈乃ママにいただいたケーキ、食べちゃわない?」
舞白が床の白い箱へ視線を落とす。その無邪気さに、私は釣られて笑ってしまう。
「そうしよっか。あ、小皿とフォーク貰うの忘れてた……」
「じゃあアタシ、ひなのっちママに貰ってくる!」
「え、いいよ舞白!私行くから」
「もう、そう言ってタロの頭撫でたいだけでしょー?」
「あちゃ、バレた?まあ、ひなのっちは雑誌見ててちょ!」
「わかったー」
舞白はそう言うと、扉を開けて部屋を飛び出した。ドタドタと階段を降りる音が遠ざかる。
――それきり、部屋は静かになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
旅行情報誌を開いたまま、私はしばらくページを眺めていた。けれど、文字が頭に入ってこない。
静かすぎた。
最初のうちは気にしていなかった。タロと遊んでるのかな、とか。ママと喋り込んでるのかな、とか。そういうふうに思っていた。
でも、十分経っても舞白は戻ってこなかった。
――遅い。
あまりにも遅い。
両親は在宅している。小皿とフォークの場所を聞くだけなら一分もかからない。
タロと遊んでいるにしても、階下から何かしら声が聞こえてきそうなものなのに、家は酷く静まり返っていた。
「もー舞白、何してんだろ」
私は雑誌を閉じ、ベッドから立ち上がった。扉を開ける。
その瞬間だった。
家の中の空気が、明らかに変わっているのを感じた。それは、音ではなく、温度でもなく、もっと本能に近い感覚だった。さっきまで確かにあったはずの生活の気配が、綺麗に消えている。
静かすぎる。
それに――鼻を突いた。
鉄のような、生温かい、鈍い匂い。
「えっ……」
嫌な予感が、背骨をゆっくりと這い上がる。私は息を詰めたまま、階段へ足を向けた。
足音がやけに大きく響く。ギィ、ギィ、と古い階段が軋む音まで耳につく。
一段。また一段。
降りるたびに、胸の鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。喉の奥が乾いて、やけに飲み込みづらい。
ようやく踊り場に着く。そこから下へ続く階段を降りるため、身体を右へ捻って向きを変えた。
――その時、見えた。
真っ赤だった。
階段も、廊下も、壁際も、全部が。赤い血飛沫で汚れていた。
散らばっているものを、最初、私は脳が理解できなかった。細くて、白くて、関節の形をしていて、でも家具でもゴミでもあり得なくて。
――腕。
――脚。
人の、だった。
心臓が一度、大きく跳ねた。その音だけが頭の中で異様に響く。
玄関には、見慣れた靴が並んでいた。
そのすぐ傍で、虚ろな目をした舞白の生首が、黄色い瞳でこちらを見て微笑んでいた。
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