表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

63/96

1-63 日向家の一幕

「陽奈乃ー!学校に遅刻するわよー!」


「うぅ~ん、あと五分~」


 ――二〇九十年四月二十八日、〈日出国(ひいづるくに)ジパング〉、都内のとある病院。快晴の空の下、日向(ひなた)陽奈乃(ひなの)はこの世に生まれ落ちた。


 母は普通の専業主婦、父は普通の会社員。貧乏でもなければ、飛び抜けて裕福でもない。祝い事の時は少しだけ奮発して、普段は堅実に暮らす――そんな、どこにでもある中流家庭の一人娘として、私は育った。


 朝が来れば、決まって母の声で起こされる。布団の中の温もりにしがみついていたい私を、母は呆れ半分、愛情半分の声で急かすのだ。


「おはようママ……あれ?お父さんは?」


「おはよう、陽奈乃。お父さんならもう出たわよ。今日は朝から会議なんですって」


 眠気で重くなった(まぶた)(こす)りながらリビングへ出ると、味噌汁の匂いがふわりと鼻先を(くすぐ)った。炊き立てのご飯の白い湯気。トースターの熱気。洗い立ての布巾の匂い。いつもの朝の光景が、日向家の日常を形作っている。


 母はエプロン姿のまま、忙しなく朝食の準備を進めている。私はいつものように急かされながら席に着き、ぼんやりとした頭のまま味噌汁を(すす)り、ご飯を口へ運んだ。時計の秒針が進む度、母の「早くしなさい」という声が飛んでくる。だけど、それすらもどこか温かかった。


「ほら陽奈乃、早くしないと遅刻するわよ」


「わかってるってママ。行ってきまーす」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 会社員の父が三十五年のローンで購入した都内の一軒家(いっけんや)。広いわけではない。豪奢でもない。けれど、私にとっては世界の中心みたいな場所だった。優しい両親に育てられて、私は何不自由なく大きくなった。


 優しい母がいて、真面目に働く父がいて、帰ればちゃんと夕飯があって、季節が変わるたびに衣替えをして、誕生日にはケーキを囲む。私は、そんな「当たり前」の中で大きくなった。


 特別目立つ子ではなかった。自分から前へ出るのは苦手で、どちらかと言えば、教室の端で静かに笑っている方が性に合っていた。長く伸ばした黒髪だけが、少しだけ自慢だった。そんな、どこにでもいるような女の子。けれど私は、そのどこにでもあるような日々を、幸せだと思っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ――その日の夕方。私は、尻尾を振りながら足下に(まと)わり付く愛犬のタロと(たわむ)れながら、家族で夕食後の団欒(だんらん)の時間を過ごしていた。柔らかな夕暮れの光が、その(おだ)やかな時間を優しく照らしている。


「へへっ、タロ。今日も元気だね」


「クゥーン」


 鼻先を押し付けてくるタロの頭を撫でる。温かな毛並みの感触に、自然と頬が緩んだ。


「……ねーママ、パパ。私いつユニークスキル(さず)かるのかな。もしかして、無等級なのかな」


 何気なく(こぼ)したその言葉に、流しで食器を洗っていた母が振り返る。


「そうねえ、いつかわからないけどきっとすぐ発現するわ」


 テレビを見ていた父も、画面から目を離さないまま穏やかに言った。


「そうだぞ。陽奈乃のペースでいいんだ。焦ってもいいことないさ」


 二人のその声には、娘を気遣(きづか)う優しさが込められている。


「だといいけど……早くユニークスキル欲しいなあ」


「クゥーン」


 私の指をペロペロと舐めるタロ。その頭を撫でながら、私は小さく息を吐いた。


 ――私の唯一の不安は、十七歳、高校二年生になっても未だユニークスキルが発現しないことだった。


 仲のいい子たちが、自分のユニークスキルに戸惑ったり、喜んだり、中位級だの下位級だのと一喜一憂しているのを見るたびに、胸の奥に沈殿していく焦りがあった。


 まだ何も起きていない。けれど、何も起きないかもしれない――。その漠然とした不安だけが、誰にも見えない場所でじわじわと重くなっていった。


「陽奈乃、ところで進路はどうするの?進路調査、明後日までなんでしょ?」


 机に置かれた進路希望調査票を見下ろしていた私に、母が(たず)ねる。


「進路かぁ」


 頬杖を突いて、私は溜息を吐く。


 ――八十年程前、世界中にユニークスキルが現れたことで、ユニークスキルによって犯罪を起こす異能犯罪者が爆増した。それは〈警視庁〉だけでは対処しきれず、新世界では自衛の術を持つことが半ば常識のようになっている。


 〈世界ランク〉――戦績上位者はその分、異能犯罪の抑止力として莫大な報酬を得る。戦うことで生計を立てる者も珍しくないのだ。もっとも、ユニークスキルすら発現していない私には、酷く遠い世界の話だった。


「陽奈乃のやりたいことをやればいいんじゃない?」


「やりたいこと……かぁ」


 言いながらも、すぐには何も浮かばない。テキトーに大学へ行ってから探すか。就職するか。ユニークスキルが発現したら、それを見て考えるか。どれも決定打に欠けていて、どれも「本当にこれだ」とは思えなかった。


 ――私は普通の高校生だった。やりたいことがまだない、ということすら、ありふれた悩みの一つに過ぎなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ――翌日、学校。


「――おはよ!ひなのっち」


 机に座った私の視界に飛び込んできたのは、二つの太陽みたいな髪飾りと、元気の塊みたいな金髪ツインテールだった。


舞白(ましろ)、おはよ」


 この朝からハイテンションの女の子は、青砥(あおと)舞白(ましろ)。小学校から高校までずっと一緒の、私の親友だ。笑った時に八重歯がちらっと見えるのが可愛くて、明るくて、誰とでもすぐ仲良くなれて、教室の真ん中にいるのがよく似合う子だった。


 目立たない私とは真逆。でも、不思議なくらい一緒にいるのが自然な相手だった。


「ひなのっちー!進路希望調査票って明日までっしょ?どうするの?」


「うーん、まだ決め()ねてて……。舞白(ましろ)は?」


 荷物を机に置きながら答える。


 教室のあちこちでも進路の話題が飛び交っていた。皆、未来の話をしている。進学、就職、クラン加入、異能バトル。選択肢がある子ほど、迷い方も華やかだ。


「アタシは就職かなー!ユニークスキルも下級でガン萎えだし大学行くお金ねーしでマジウケる」


「そっかぁ……私も就職しよっかな」

 

 未だ発現しないユニークスキルを夢見て、何も決めないまま時間を浪費するのは怖かった。「そのうち何とかなる」を信じられるほど、私は強くなかった。


「え、ひなのっち就職するの!?」


「うん、そうしよっかな」


「じゃあさ!就職先同じになるようがんばろ!」


「うん!ありがと、舞白」


「いぇあ!」


 舞白は嬉しそうに八重歯を覗かせて笑った。その笑顔を見るだけで、進路への不安が少しだけ軽くなるのだから、単純だと思う。


 ――こうして私は、親友と同じ道へ進むことを決めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ――一年後。私は高校卒業と同時に、親友の舞白と同じ都内の食品会社に事務として入社した。


 社内の休憩室にて親友の舞白と昼食を取る。蛍光灯の下で、二人の会話が(はず)む。


「あ、ひなのっちもお弁当作った系?」


「うん、こっちの方がコスパいいかなって」


「おかず交換しよーよ!私の唐揚げあげる~!」


「ありがと、舞白。じゃあエビフライあげるね」


 賑やかな休憩室。紙コップのコーヒーの匂い。電子レンジの音。


 入社したばかりで仕事はまだ慣れない。だけど、こうして舞白とまた同じ場所で笑えることは、それだけで救いだった。


 ――そしてこの一年、結局私にユニークスキルが発現することはなかった。そのことに私は変わらず劣等感(れっとうかん)(かか)えていた。


 その事実は、静かに、でも確実に、私の中に劣等感を積もらせていった。もしこのまま二十歳になっても、何も起きなかったら。そう考えるたびに、胸の奥に冷たいものが沈む。


「それにしてもひなのっちと違う部署(ぶしょ)になっちゃうとはねー」


「一緒が良かったよね~。ほんとに忙しすぎ」


「それな~!てか研修雑すぎじゃね?上司も全員きしょいし!マジ休みたい!」


 私は一般事務、舞白は受付事務。配属先は違ったけれど、昼休みにこうして会えるだけで、午前中の疲れが少しだけ薄まる気がした。


「へへ、そうだね。早くゴールデンウィーク来てほしいよね~」


「それな!あ、てかひなのっち!ゴールデンウィークさ、アタシら二人で旅行行くのありじゃね?」


 舞白の突然の提案に目を丸くするが、いつものことだ。舞白は多少強引な面もあるが、主体性がない私をいつも引っ張ってくれる。


「ありかも。じゃあ週末ウチで計画立てようよ」


「え、やった!ひなのっちママのご飯よき?」


「もー舞白、仕方ないな~。ママにお願いしとくね」


「ひなのっちありがと!あ、そろそろ昼休憩終わっちゃう!」


 休憩室のデジタル時計が表示した時刻は十二時五十七分。そろそろ午後の仕事の時間だ。


「あ、そうだね。じゃあ、舞白またね」


「いぇあ!」


 急いで空になった弁当箱を巾着(きんちゃく)で包み、電子ロッカーに戻す。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 早足でオフィスルームへ向かい、入口に社員証を(かざ)す。


 自分の席へ急ぐ途中で、私は嫌なものを見つけてしまった。私の机の横で、腕を組んだまま待ち構えている女。直属の上司、木村だ。その姿に、思わず足が(すく)む。


「あ、木村さん……すみません。今戻りました」


「あのさ~日向さん、遅いんだけど。言ったよね?十三時ちょうどには座席に座って業務を始めるようにって」


 木村は爪先をトントンと鳴らしながら、露骨に苛立ちを表に出す。


 私は視線の端で、業務用映像投影型PCの時刻表示を見る。十二時五十九分から、ちょうど十三時へ切り替わったところだった。


 ――時間ピッタリ。遅れてなんかいない。


 でも、それを口にしたところで何かが良くなるわけじゃないことくらい、もうわかっていた。


 その横で次々と休憩から戻ってくる他の同僚(どうりょう)たち。木村は彼らを気にも留めず、ずっと私を(にら)み付けていた。


「……すみません。次から気を付けます」


 萎縮(いしゅく)して頭を下げる。私の直属の上司に当たる木村は、新人イビリで有名な四十歳ほどの女性である。彼女は新人の私に対して常に高圧的だった。私は理不尽なこの人が苦手だった。しかし入社したばかりで楯突(たてつ)く訳にもいかない――そう考え、やり過ごすしかなかった。


「あと日向さん、この資料間違ってるんだけど。ちゃんとチェックしたの?」


 資料が机に叩き付けられる。紙がばさりと広がる音が、やけに大きく感じた。


「すみません……チェックはしたんですけど……」


「はあ、ホント使えないわね」


「……すみません。確認してすぐ修正します」


「はあ……」


 周囲の社員も「お局様」には強く言えないのか、皆が見てみぬフリをしている状況。私は、私にはこの仕事は向いていないのかもと思い始めていた。


 しかし、舞白と同じ会社になんとか内定を()ることができたこと、日も浅いため転職も難しく、ユニークスキルも発現しておらず一般職以外の当てもなかったことから、会社を辞めることは選択肢になかった。これくらいのことはみんな乗り越えている――そう思い込んで耐えるしかなかった。


「日向さ~ん、お茶貰っていい?」


「あ、はい!すぐに!」


 男性の上司の指示で、私は給湯室(きゅうとうしつ)に向かった。


 扉の前まで来たところで、中からくぐもった笑い声が聞こえる。嫌な予感がした。けれど、引き返す方がもっと(みじ)めに思えて、そのまま足を止めた。


「はあ、日向さん、ホント使えない。なんで人事(じんじ)はあんな子採用したのかしら」


「新人の子でしたっけ?正直顔だけって感じですよねー、暗くて地味だし」


「面接で身体でも売ったんじゃないですか?なんて」


「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!それ最高!」


 ――また木村さん。それとその取り巻き。こんなのは日常茶飯事だ。なんだか嫌になっちゃうな。


 何度目だろうと思う。何度目でも、慣れはしない。


 私はわざと表情を変えないまま、給湯室の扉を開けた。


「…………」


「あ、日向さん……」


「何?日向さん、何か文句あるの?」


「いえ……」


「いや暗すぎでしょ。行きましょ」


 面白くなさそうに去っていく木村と取り巻きたち。取り残された給湯室に、妙に白々しい静けさだけが残った。


 お湯の沸く音を聞きながら、私はぼんやり思う。


 ――嫌だな。


 でも、辞められない。辞める理由も、次の当ても、私にはない。


 舞白がいてくれる。家に帰ればママとパパにタロがいる。だから大丈夫。――そう思い込むしかなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ――そして迎えた週末。


 今日は待ちに待った、舞白とゴールデンウィークの旅行の 計画を立てる予定の日だ。舞白が来るのを今か今かとリビングで待っていた。


 ピンポーン!


 インターホンの音が鳴った瞬間、胸がぱっと明るくなる。


 ――舞白だ……!


 階段を駆け下り、玄関の扉を開ける。そこには、いつも通り八重歯を見せて笑う親友の姿があった。


「ひなのっち!お邪魔するね!」


「舞白!入って入って!」


 リビングから愛犬のタロが駆け寄ってくる。小さな足音、弾む呼吸、全力で振られる尻尾。その全部が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。


「ワン!ワン!」


「タロ~!久しぶり~!」


 舞白は(しゃが)み込み、タロの頭を撫で、そのまま頬擦りする。タロも嬉しそうに鼻を鳴らしていた。


「あらタロ、舞白ちゃんが来てくれたからって(はしゃ)いじゃって。舞白ちゃん、いらっしゃい」


 続けてリビングから現れた母が、舞白に歓迎の言葉を投げ掛ける。母の声には、いつもの優しさが(あふ)れている。


「ひなのっちママ!ご無沙汰(ぶさた)です!」


 敬礼のポーズを取って挨拶を返す舞白。その様に思わず苦笑が漏れる。


「ふふ。舞白ちゃん、ハンバーグ作ってるから楽しみにしててね!」


「わあ!ありがとうございます!」


「ほらあなた、舞白ちゃんが来られたわよ」


 母に呼ばれ、父もリビングから姿を見せる。


「おー舞白ちゃん!久しぶりだね。陽奈乃が会社でもお世話になってるそうで」


「いえいえ!とんでもないです!すみません、お休みの日にお邪魔しちゃって……」


「いやいや、舞白ちゃんなら大歓迎だよ。(くつろ)いでいきなさいね」


「ありがとうございます!」


 ――普段は能天気で明るい舞白……フランクながら礼節(れいせつ)をしっかりと(わきま)えている。私が舞白を好きな理由の一つだ。その明るい人柄(ひとがら)に、私の家族も心を開いている。


「舞白、部屋行こっ」


「おけ!」


 階段を上ろうとしたところで母から肩を叩かれる。振り返ると、白い箱が差し出された。


「さっき買っておいたケーキよ、舞白ちゃんと食べなさい」


「あっママ、ありがとう」


「ひなのっちママ、ありがとうございます!」


「いいのよ、舞白ちゃん。後でご飯できたら呼ぶからね」


「はーい!」


 私たちはドタドタと階段を駆け上がり、私の部屋へ飛び込んだ。高校生の頃は毎週のように一緒にいたのに、社会人になってからはこういう時間すら久しぶりで、胸の奥が少しだけ(くすぐ)ったくなる。


 白い箱を床に置き、二人でベッドに腰を下ろす。舞白は小さな鞄から旅行情報誌を何冊も取り出し、シーツの上にばさばさと広げた。


「えっ舞白、買ってきてくれたの?」


「へっへっへ!こういうのはアナログに限るからね!」


「ふふ、ありがと、舞白」


「いぇあ!」


 ページを(めく)るたび、色鮮やかな観光地の写真が目に飛び込んでくる。海、街並み、温泉、夜景、離島。知らない場所ばかりで、それだけで少し楽しかった。


「〈桜和門(さくらわもん)エリア〉の街並みを観光するのもありよりのありだし……〈南国諸島(なんごくしょとう)ニライカナイ〉の〈渚岐南(なぎさきな)エリア〉も気になるかも!」


「〈渚岐南(なぎさきな)エリア〉って去年の〈極皇杯(きょくのうはい)〉の予選Aブロックの会場だよね?」


「いぇあ!めっちゃ綺麗だったくない?」


「確かにいいかもね」


 その時、階下でインターホンの音がした。誰か来客だろうか、と一瞬だけ思う。けれど、舞白は雑誌を(めく)る手を止めず、私はそれに付き合っていた。


「それでそれで、ひなのっちは気になるとこある?」


「うーん、一箇所(いっかしょ)(しぼ)るの難しいけど……〈淡墨(うすずみ)エリア〉とか気になるかも」


「うわー!それもあり!」


「でも舞白が言ってくれたところも気になるなあ。〈桜和門エリア〉も〈南国諸島ニライカナイ〉も行ったことないし」


「それな!悩むー」


「え、決めるの難しくない?」


「それ!マジムズい!あ、折角(せっかく)だし陽奈乃ママにいただいたケーキ、食べちゃわない?」


 舞白が床の白い箱へ視線を落とす。その無邪気さに、私は釣られて笑ってしまう。


「そうしよっか。あ、小皿とフォーク貰うの忘れてた……」


「じゃあアタシ、ひなのっちママに貰ってくる!」


「え、いいよ舞白!私行くから」


「もう、そう言ってタロの頭撫でたいだけでしょー?」


「あちゃ、バレた?まあ、ひなのっちは雑誌見ててちょ!」


「わかったー」


 舞白はそう言うと、扉を開けて部屋を飛び出した。ドタドタと階段を降りる音が遠ざかる。


 ――それきり、部屋は静かになった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 旅行情報誌を開いたまま、私はしばらくページを眺めていた。けれど、文字が頭に入ってこない。


 静かすぎた。


 最初のうちは気にしていなかった。タロと遊んでるのかな、とか。ママと喋り込んでるのかな、とか。そういうふうに思っていた。


 でも、十分経っても舞白は戻ってこなかった。


 ――遅い。


 あまりにも遅い。


 両親は在宅している。小皿とフォークの場所を聞くだけなら一分もかからない。


 タロと遊んでいるにしても、階下から何かしら声が聞こえてきそうなものなのに、家は酷く静まり返っていた。


「もー舞白、何してんだろ」


 私は雑誌を閉じ、ベッドから立ち上がった。扉を開ける。


 その瞬間だった。


 家の中の空気が、明らかに変わっているのを感じた。それは、音ではなく、温度でもなく、もっと本能に近い感覚だった。さっきまで確かにあったはずの生活の気配が、綺麗に消えている。


 静かすぎる。


 それに――鼻を突いた。


 鉄のような、生温かい、鈍い匂い。


「えっ……」


 嫌な予感が、背骨をゆっくりと這い上がる。私は息を詰めたまま、階段へ足を向けた。


 足音がやけに大きく響く。ギィ、ギィ、と古い階段が軋む音まで耳につく。


 一段。また一段。


 降りるたびに、胸の鼓動が速くなる。呼吸が浅くなる。喉の奥が乾いて、やけに飲み込みづらい。


 ようやく踊り場に着く。そこから下へ続く階段を降りるため、身体を右へ(ひね)って向きを変えた。


 ――その時、見えた。


 真っ赤だった。


 階段も、廊下も、壁際も、全部が。赤い血飛沫で汚れていた。


 散らばっているものを、最初、私は脳が理解できなかった。細くて、白くて、関節の形をしていて、でも家具でもゴミでもあり得なくて。


 ――腕。

 ――脚。


 人の、だった。


 心臓が一度、大きく跳ねた。その音だけが頭の中で異様に響く。


 玄関には、見慣れた靴が並んでいた。


 そのすぐ傍で、(うつ)ろな目をした舞白の生首が、黄色い瞳でこちらを見て微笑んでいた。

評価(すぐ下の★★★★★)やブックマーク、感想等で

応援していただけると執筆の励みになります。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ