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1-55 机上のトラジェディⅢ

 中学受験を「(わざ)と」不合格した雪村(ゆきむら)雪渚(せつな)。結局、彼は滑り止めとして受験していた中高一貫校ちゅうこういっかんこうへ入学することになる。


 色々考えた末の選択だった。仲が良いとは決して言えない小学校の同級生達がそのまま進学するであろう校区の中学校よりも、新しい環境の方が楽しい学生生活を送れるのではないか、と考えたのだ。


 ――しかし、それは失策だった。中学校に入学後、彼は私室とスマートフォンを与えられ、塾も辞めることが出来た。一見すれば、(ようや)く自由を手にしたように見える。だが実際には、その逆だった。


 母は中学受験の失敗を「管理不足」だと結論付けたのだろう。更に高度な学習内容を自ら教えることが難しくなると、今度は別の方法で息子を縛った。私室に数台の監視カメラを設置したのである。


 机から離れる。それだけで、ドアの向こうから足音がする。直後、母が怒鳴り込んでくる。


 トイレ以外で席を立つことは許されない。息を抜くことも、ぼうっとすることも、壁を眺めることすら咎められる。部屋を与えられたのではない。監房を与えられただけだった。


 監視カメラの設置された私室で勉強を強いられる六年間。雪村(ゆきむら)雪渚(せつな)――彼が入学した中学校は中高一貫校ちゅうこういっかんこうであったため、高校受験を受けずにそのままエスカレーター式に高校へ入学出来る。高校受験の必要はなかった。


 この頃には彼は、小学生の時に母親から受けたものは、「愛」ではなく「教育虐待」だと理解していた。当時は「毒親(どくおや)」なんて言葉も存在しなかったし、当時の幼い彼にはそれが虐待だとは思いもつかなかったのだ。


 しかし、彼は中学生になり、高校受験よりも(はる)かに厳しい勉強量を母から()いられた。当然と言えば当然であるが、私立の中学校に入学し、小学校に比べ、途端に生徒のレベルの上がった中学校。母の志望校とは異なったが、それでも国内で五本の指に数えられる超進学校だ。母は定期試験の結果を特に厳しく重視していた。


 中学一年生の一学期、初めての定期試験である中間試験は、これまでの貯金もあり、全科目満点で大差を付けて学年一位を()ることが出来た。


 ――しかし、中学一年生の二学期、期末試験。連日の無理が(たた)り、試験当日に体調を崩してしまった彼は、ここで初めて全科目満点を逃した。しかし、それでも結果は、一問のみ失点しての学年一位。学年二位の男子生徒とは、総合点に四十点近くの差があった。


 しかしながら、その成績表を受け取った日の帰りは、酷く憂鬱(ゆううつ)だった。母が発する言葉なんて容易に想像し得るからだ。重々しく玄関の扉を開けると、成績表を待ち()びた様子の母が()ぐに出迎える。


雪渚(せつな)ちゃん、おかえり。で、成績表は?そろそろでしょ?」


「…………これ」


 無愛想(ぶあいそう)に成績表を母に手渡すと、それを見た母の表情がみるみると怒りに変わる。


「……なんで満点じゃないの?」


「……いや、一位だし……」


「他の子と比べても仕方ないでしょ!?よそはよそ、うちはうちっていつも言っているじゃない!」


「……ごめん……なさい」


「あんたの所為(せい)で胃が痛いわ!私が死んだらあんたの所為だからね!」


 普通なら、褒められていいどころか、学校中の教師に称賛されてもおかしくない成績だった。


 だが、この家では関係なかった。満点でなければ失敗。一位であっても、完璧でなければ罪だった。


 その日の夜、彼にとって数少ない「自分のもの」だったゲーム機は、母の手で真っ二つに折られた。スマートフォンは浴槽へ沈められ、水泡を吐きながら沈んでいった。物が壊れる音がした。それは玩具の音ではなく、自分の逃げ場がまた一つ潰される音だった。


 それ以来、彼は学年一位、()つ全科目満点の成績を維持し続けた。私物を無遠慮(むえんりょ)に壊されるということに、途轍(とてつ)もない恐怖を感じたのだ。


 ――東慶(とうけい)大学模試。日本最高学府の東慶大学を受験する、全国のトップの高校三年生らが受験する模試。雪村(ゆきむら)雪渚(せつな)――彼は中学二年生(・・・・・)の時点で、既にこの模試で全国同率一位を叩き出していた。


「よーし、じゃあ次、一九七〇年、大阪府の吹田市(すいたし)で開催された日本万国博覧会にほんばんこくはくらんかいにおいて展示された塔の名前――この問題。解ける奴いるか?」


「はいはーい!」


 クラスの担任による日本史の授業。教員の問いにクラス内でも人気のある、サッカー部の男子が元気良く手を挙げる。


「お、高橋。答えてみろ」


「スカイツリー!」


「ははは、高橋。全くお前は……」


「「ハハハ!!!高橋おもろすぎだろー!!!」」


「「また赤点取るぞー!!!」」


 爆笑の渦に包まれる教室。


「……つまんな。大喜利の一個目じゃねえか」


 教室の窓側、最後列に座る雪村(ゆきむら)雪渚(せつな)――彼は、クラスの面白くない雰囲気に辟易(へきえき)していた。結局は中高一貫の超進学校とは言っても、彼にとっては酷くつまらないものだった。隣の席の女子生徒にも聞こえない程度の声量で、そうぼそっと(つぶや)き、窓から見えるグラウンドを(なが)めているだけの退屈な日々が過ぎてゆく。


 彼は(ひそ)かに計画していた。高校卒業まで、母に一切の(すき)を見せない。成績は落とさず、日本国内最高偏差値の大学――東慶大学(とうけいだいがく)へ合格する。そして母に、この子は大丈夫だ、と思わせる。そうすれば大学は県外だ、ローンが残った実家を置いてまでして追って来ることはない。


 ――そして高校三年生。彼は不登校となった。陰湿な(いじ)めに遭っていた訳ではない。周囲のクラスメイトが毎朝早くから登校し、自習に励む一方、彼だけは(ほとん)ど学校に姿を現さなかった。卒業要件の単位を満たすためだけに時々登校しては、クラスメイトを驚かせた。


「えー、じゃあこの問題。今日は五日だから……出席番号五番の岡田」


「はい。Xが二十分の一、Yが三十分の一です」


「正解だ」


 中学までの何処(どこ)か緩い雰囲気とは異なり、大学受験を目前にした教室には、静かな焦燥と緊張が張り詰めている。その熱量が、彼にはまるで別世界のものに見えた。


 シャーペンをカリカリと走らせる音と教師の板書の音だけが響く。そんな中、彼は、突然荷物を(まと)め、席を立った。


「――お、おい雪村!何処(どこ)に行くんだ!」


 呼び止める教師の声に振り向きもせず、彼は教室の扉を開けた。


「つまんねーんで図書館行きますわ」


「…………っ!」


 その圧に静まる教室内。クラスメイトどころか、進学校の教員すら、誰も彼に異を唱えることは出来なかった。彼は全国模試でも、常に全科目満点――文句なしの全国一位だったのだから。


「……授業を続けるぞ」


 もう彼にとって学校は、通う場所ではなく、単位を回収するためだけの場所に成り果てていた。


 ――そして数ヶ月後。最終的に彼は独学で、日本国内最高偏差値の大学――東慶大学、その中でも最高難度と呼ばれる医学部へと見事次席で、()つ現役で合格することとなる。


 一次試験の共通テストでは脅威の全科目満点、二次試験では国語の「親孝行」を題材にした小説の文章題でのみ、全く理解が出来ずに失点したが、それは()(かく)として、親から逃げること――それだけをモチベーションにして、彼は地獄の九年を走り切った。


 母がいつしか言っていた「絶対に私に感謝する日が来る」、という台詞(せりふ)。日本国内最高偏差値の大学へ次席での合格を果たしても、彼は到底そう思うことは出来なかった。勉強が出来る環境にあることが恵まれているなんてことは頭で理解していた。しかし、それでも彼は、結局最後まで母を許すことは出来なかった。彼が受けた精神的苦痛は、尋常(じんじょう)ではなかった。


 恐らく、勉強なんてしなくても彼は合格していた。実際どうなのかは並行時間軸、パラレルワールド――勉強をせずに東慶大学医学部へと挑んだ世界線の彼にでも尋ねてみないと(わか)らないが、まあ受かっていただろうという確信が彼にはあった。とどのつまり彼は、親に支配された、無駄な九年間を過ごしてしまったのだ。


 ――そしてその年の三月末。迎えた引っ越しの日。


「じゃあ雪渚(せつな)ちゃん、大学でも勉強頑張ってね。たまには帰って来るのよ」


勿論(もちろん)だよ、母さん。じゃあ、行ってくるね」


 玄関で母に笑いかけた時、彼の胸には達成感ではなく、(ようや)く監獄の扉が開いたという安堵しかなかった。この瞬間が、彼と彼の母が言葉を交わした最後の瞬間であった。


 スーツケースを片手に玄関の扉を開ける。


 この時の彼に、実家に帰る気などある(はず)もなかった。空港への道中、両親の連絡先をブロックし、両親と実家の固定電話の電話番号を着信拒否に設定し、彼の楽しい大学生活は始まった。


 親の目が届かない自由に、これ以上ない至福(しふく)の喜びを感じながら、彼は大学生活を謳歌(おうか)しようと決めた。


 髪はストレスで真っ白になってしまった。それでも、遅くなったが、大学からきちんと人生をやり直そうと決めたのだった。


 自由だった。

 親の目がない。

 怒鳴り声もない。

 監視カメラもない。

 夜中に無理矢理机へ向かわされることもない。


 それだけで、世界は美しく見えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「雪渚、この後暇?図書館でレポート一緒にやんね?」


 大学の講義終わりの賑やかな教室で俺をそう誘うのは、端正(たんせい)な顔立ちにスマートな印象の眼鏡を掛けた黒髪の青年、五六(ふのぼり)一二三(ひふみ)


 彼は遊びで受けた海外の有名大学の合格を()って、この日本国内最高偏差値の大学に、毎日一冊の読書だけで首席での合格を果たした本物の天才であった。しかし、それでもこの成績至上の大学では、入学時の成績が極めて近いこともあり、自然と馬が合った。


「おう、一二三。そうするか」


 大学に入学すると、流石日本最高の頭脳が集まる日本トップの大学と言うべきか、非常にレベルの高い学徒(がくと)に囲まれた。高校までとは明らかにレベルが違う。大学の学徒達とも話が良く合った。


 ――折角(せっかく)合格したし大学内での付き合いも色々あるだろう。頑張りすぎる必要はない。


 そう考えた俺は、大学の講義には真面目に出席し、学業にも取り組んだ。


 大学の講義はハイレベルだったが、高校までの地獄を考えると余程健全だった。余暇(よか)は大学の友人らと、輝かしいキャンパスライフを満喫(まんきつ)した。キャンパスを歩くだけで、自分も(ようや)く普通の人生を歩めるのかもしれないと思えた。


 ――しかし、それは長くは続かなかった。


 特に何かがあった訳ではない。事故も、失恋も、劇的な挫折もない。ただ、ある朝、起きるのが酷く億劫になった。


 今日は一限を休もう。そう思った。

 

 翌日も、同じことを思った。(やが)て二限も、午後の講義も、全部が遠くなっていった。


 緊張の糸が、遅れて切れたのだ。九年間、切れたら終わると信じて張り続けてきた糸が、(ようや)く安全圏に出た瞬間、音もなく(たる)んだ。


 大学へ行かなくなった。唯一のコミュニティだった場所から、自分の足で離れた。残ったのは、過剰な程の時間と自由だけだった。


『――ああ、出た。もしもし、雪渚』


「あー、一二三か……」


『雪渚、どうしたんだよ。今日も大学来ないのか?みんな待ってるぞ』


「あーわりー。気分じゃねえわ」


 親友の一二三は俺を心配して定期的に連絡をくれたが、その電話に出るのすら徐々に億劫になっていった。


 その空白に(おぼ)れ、遊びに明け暮れた。酒に女に煙草、ギャンブル、ゲームにスポーツ――それまで遊びを知らなかった俺は、(うしな)った青春を取り戻すかのように、考えられる遊びの限りを尽くした。


 ふと初めて足を踏み入れたパチンコ店。そこで味わった快感は十八年の人生で一度も経験したことがないものだった。大当たりの音と光、興奮で震える指先、胸の高鳴り。勉強という重圧から開放された俺は、まるで別人のように変わっていった。光と音に満ちた空間で、俺は自分を見失っていった。機械の鳴る音が頭の中で響き、玉の転がる音が耳を満たしていく。その音は、(かつ)て聞いた母の金切り声を少しずつ消していった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「そうして俺は……堕ちていった。日に日に生きる気力を失い、借金だけが積み重なった。気付けば大学で精神医学を学んでいた(はず)の俺は精神科通い。自殺に追い込まれた――という訳だ」


 この話をするだけで、泣きそうになる。涙を堪えるのを誤魔化すように赤いニット帽を深く押さえ付ける。


『雪村……アンタ……』


「ボス……辛かったんだなァ……」


「せつくん……そんなことが……」


「おにいたま……」


 囲むローテーブルはいつになく暗い。


『地獄……ですわね。あまりに生々しいですわ』


『…………う、うん』


『頑張ったわね……雪村……』


 ――そうか。そう言ってくれるのか。


「……ありがとう」


 俺は天音へと向き直る。


「天音、俺があの公園に行くことが出来なくなってしまったのもそういう事情だ。改めて……すまなかった」


 赤いニット帽を脱ぎ、天音に頭を下げる。


「せつくん……そんな……頭を上げてください!せつくんは悪くありません!」


「それで気付けばこの新世界だった、と……。いやはや、タイムトラベルという訳ですな……」


「随分あっさり信じてくれるんだな」


「今の生々しい経験談……とても嘘とは思えませんぞ……」


「雪渚センパイが私たちに嘘をつく理由もありませんしねっ!」


 瞳に涙を浮かべる天音が俺を優しく抱き寄せた。シャンプーの香りが鼻腔を(くすぐ)る。フランもまた、天音に(なら)うように俺の足下に寄ってきて袖を引く。


「せつくん……頑張りましたね」


「おにいたま、すごい」


「……ありがとう」


 そんな暗い雰囲気を断ち切ったのは――ハズレちゃんだった。


「雪渚センパイっ!大丈夫ですよっ!」


「ハズレちゃん……」


「雪渚センパイが辛い経験をしたといえ、そんな雪渚センパイは死にましたっ!もう、雪渚センパイは『やり直せる』んですよっ!」


 場違いな明るい発言。相変わらず空気は読めていないのかもしれない。だか、そんなハズレちゃんの言葉に、俺は救われた。


「そうだな……」


「雪渚!ボクたちは雪渚に救われたのだ!何かあれば力になるのだ!」


「雪村様、ワタクシで良ければ、力添えさせていただきますわ」


「…………う、うん。私も……」


「師匠!小生達はずっと味方ですからな!孤独を感じる必要はありませんぞ!」


「おォ!ボス!アタイがついてるからなァ!」


「フラン、なかま」


『雪村、アンタ、そんな辛いこと気にしなくていいわよ』


「ふふ、そうですね。せつくんは独りじゃありません」


 天音も涙を拭ってそれに続く。前世と違って、今の俺には頼れる仲間がいる。そのことが、今の俺には何だか眩しかった。


「……みんな、ありがとう。今の俺は楽しくやれてる、と思う。みんなのお陰だ」


「はいっ!ハズレちゃんのおかげですねっ!もっとハズレちゃんを褒めてもいいですよっ!『ハズレちゃん可愛いね』ってっ!」


「ハズレちゃんの明るさにも助けられてるよ」


「わぁっ!雪渚センパイ大好きですっ!」


 ハズレちゃんが俺に抱きつく。すると、天音が面食らった様子で慌て始めた。


「――ちょ、ちょっとハズレさん!せつくんに何してるんですか!」


「ハズレェ!テメェ!ボスに無礼だぞォ!」


「いいじゃないですかぁ!私だって仲間ですよっ!」


 ――嬉しいな。みんなに出逢えて、本当に良かった。


『雪村、アンタ、辛いことあったらちゃんと相談しなさいよね』


「ああ、日向(ひなた)達もありがとうな」


『べっ、別にいいわよ。これくらい』


『雪渚!いつでも連絡するのだ!』


『そうですわね。雪村様、不動産契約を交わした仲ですもの』


『…………え、(えんじゅ)お姉様……い、言い方……』


「じゃあまたなのだ!」


「ああ」


 暗転する画面。俺が煙草に火を点けると、唯一画面に残った日向が、何かを思い出したように口を開いた。


『――あ、そうだ、雪村』


「なんだ?日向」


『前言った〈十傑円卓会議サミット〉――正式なアンタの招集が決まったわよ』


 ――〈十傑円卓会議サミット〉。〈十傑〉が集まる場。遂に、この新世界の頂点と相見える。

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