1-54 机上のトラジェディⅡ
「――痛いっ!」
「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」
彼の母は、感情の手綱を握るのが絶望的に下手な人だった。息子が思い通りに動かない。ただそれだけで、声は直ぐに裏返り、金切り声となって家中へ飛び散った。機嫌の波は激しく、予兆もなく、幼い彼には避けようがなかった。
――雪村雪渚、二十歳。彼の幼少期を端的に一言で表すならば、「地獄」であった。
別にわかりやすい不幸ではない。貧民街の生まれでもなければ、親に捨てられたわけでもない。重い病を抱えていた訳でもない。何処にでもある、ありふれた家庭。その内側だけが、酷く歪んでいた。
だからこそ厄介で、だからこそ誰にも見つけてもらえなかった。――そんな、ありふれた、至って普通の「地獄」だった。
幼稚園の頃の彼は至って普通の子供であった。日曜朝の特撮に目を輝かせ、男児向けのアニメの真似をして、友達とごっこ遊びをする。転んで泣いて、直ぐ笑って、また走る。その頃はまだ、少なくとも本人にとって、自分の人生が歪んでいるとは思っていなかった。
ただ一つだけ特筆するとすれば、彼は異常に賢かった。夕食時に何気なく流れていたニュース番組。そのテロップやフリップを眺めているうちに、彼は幼稚園を卒園する頃には、高校レベルの漢字までであれば既にマスターしていた。
本人には、それが「異常」である自覚はなかった。自分に見えている景色は、他人にも同じように見えているのだと思っていた。そして、彼は自宅近くの、至って普通の小学校に入学する。
「雪村くんすごーい!また百点だ!」
小学校のテストは退屈だった。問題用紙を見た瞬間に答えがわかる。見直しをする程の難易度でもない。周囲が必死に鉛筆を走らせる中、時間を大いに持て余す。だから彼は、どこかで「自分は出来る側の人間なのだ」と、早くから知ってしまった。
学歴に強いコンプレックスがあった彼の母は、息子に同じ轍を踏ませまいと、早くから教育に力を入れることにしていた。その手始めとして、彼が小学一年生の冬、中学受験対策の塾の体験授業に息子を参加させた。
「雪村君、もうこんな漢字も書けるのかい?賢いねえ」
「こんなのも書けますよー!」
その事実は、まだ幼かった彼の胸を、驚くほど素直に擽った。自分の頭の良さを、他人がわかりやすい形で褒めてくれる。それが少し嬉しくて、少し誇らしくて、彼はつい気を良くしてしまった。
「雪渚ちゃん、授業はどうだった?」
「楽しかった!」
「通ってみる気はない?」
「えー、でもゲームしたいー」
「ふふ、ゲームならいつでも出来るわよ」
「うーん、それならいいよ!」
帰りの車の中で母と交わした、たったそれだけの会話。だが、その一言が引き金だった。母の中にあった期待は、ここで「可能性」から「確信」へ変わってしまった。
――小学三年生になった頃、塾で毎週土曜日に行われるテストが始まった。通称「特別テスト」……国語、算数、理科、社会の四科目のテストが全国のその塾の教場で一斉に行われる。全国の上位成績者五十名が順位表に掲載され、各教場に貼り出された。小学校とは比べものにならないほど高いレベルのテストだった。
その初回となる「特別テスト」、彼はその日を一生後悔することになる。彼は「誤って」しまったのだ。
「すごいじゃない、雪渚ちゃん!偉いわ!」
「えへへー、簡単だった!」
「雪渚ちゃんはいい大学に入って立派な医者になるのよ」
合計四百点満点中の、堂々の四百点満点。平均点は二百点前後と非常に難易度の高いテストで、結果、彼は順位表の一番上に名前が掲載された。
母は歓喜した。彼もまた、幼いなりに、その才能を少し誇らしく思っていた。
だが、その日から家庭の空気は変わった。母の目は、褒める目ではなくなった。期待を越えて、執着の目になった。
「お母さーん、もう眠いー」
「まだ社会と理科が終わってないでしょ?一位取れないわよ?」
「別に一位とか興味ないー!眠いー!」
まだ幼い彼が泣き言を吐くと、母はリビングのテーブルに置いてあったボックスティッシュを彼に投げ付けた。
「痛いっ!」
「もっとやれるはずよ?何度言わせるの?」
塾は火曜、木曜、土曜の週三日。火曜と木曜は小学校の帰りの会が終わると、母が正門の前まで車で迎えに来ており、そのまま塾に向かわされた。逃げ場はない。二十二時に塾が終わると、再び迎えに来た母の車に乗り帰宅。食事と入浴を済ませた後、母は彼の鞄から塾のテキストを取り出し、深夜二時頃までつきっきりで勉強させた。
塾のない日も同じだった。夕食と入浴を終えれば、当然のように机へ座らされる。
クラスメイトが皆夢中になっているような、流行りのゲームを遊んだり、流行りのアニメを観たりという娯楽は一切許されなかった。恐らく、彼にそれ程の勉強を強制せずとも、彼は母の望みを叶えられたであろうに。彼の母は、万全を期したのだ。彼の母は、彼が勉強していない時間を作ることが怖かったのだ。
「その問題集が一周終わるまで今日は眠らせないからね」
「……………………」
一方の父は、一言で言えば仕事人間であった。県外で単身赴任をしていた。たまに帰って来ては、無口な父は、夕食の後に直ぐに休んでしまう。数日居座った後にまた県外の社宅へ戻る。彼の父は、彼が塾に通っていることは知っていても、母の暴走を知る由もなかったのだ。母の暴走を止める者は誰一人いなかった。
この時、雪村雪渚――彼はまだ僅か八歳であった。
彼は最初の頃はそれ程その生活を苦痛に感じていなかった。塾で毎週土曜日に行われていた「特別テスト」――この順位によって彼は近くのカードショップでトレーディングカードゲームのカードを母に買ってもらえることになっていたのだ。一位ならば五千円分、二位ならば四千円分、三位ならば三千円分といった具合だ。母はそうして飴と鞭を息子に与え、彼を自身の都合の良いように飼い慣らした。何より他の家庭を知らない彼にとって、その生活は「普通」なのだと思っていた。当時の彼には母の思惑など知る由もなかったのだ。
その頃から小学校での彼は、無意識的な勉強へのストレスからか、鼻につく言動が増え、傲慢になっていった。友達が一人、また一人と彼から離れていった。小学校や塾で話の合う友達は殆どいなかった。
しかし、母は小学校を休ませてまで勉強させるということはしなかった。飽くまで両立を図らせていた。大方、保護者会で鼻が高いからといった平凡な理由だろう。
学年が上がる毎に日に日に縮まっていく睡眠時間に、彼は気付かぬうちに限界を迎えていた。小学校のクラスメイトに些細な理由で暴力を振るったり、弱気なクラスメイトを揶揄ったりしていた。厳密に言えば勉強のストレスを彼らにぶつけていたのではない……。学校が終われば友達の家に集まってゲームをして遊ぶ、好きにテレビを観る、休日は家族で遊びに行ける。そんな自由な他の子がただただ羨ましかったのだ。
「どうせまた雪村が一位だろ……」
「なんだよあいつばっかり褒められやがって」
塾でも妬み嫉みからか、彼を悪く言う生徒が多かった。その度に彼は、お前らが相応の努力をしていないからだろ、と思っていた。
彼は不幸だったのだ。偶、賢かった。それが彼を苦しめた。
結局のところ母は、彼の才能を理解出来なかったのだ。母親すら理解し得ない領域の天才。その点に酷い恐怖を覚えたのだ。
母は彼を完璧な人間に育てようとした。大学受験で挫折した過去を持つ母にとって、彼は、母の承認欲求を満たす道具。母にとって彼は「母親の優秀さ」を示す道具。彼が自身の思い通りに動かないのならば、それは自身の否定に繋がる。だからこそ理解し得ない恐怖には、恐怖を以て支配しようとした。
――ある日、僅か十歳になったばかりの彼は、行動を起こすことにした。母に対する脅迫である。
夜、塾に迎えに来た彼の母。彼はその車に乗らず大通りまで走った。背後から母の悲鳴が追い掛けてくる。ヘッドライトが道路を切り裂き、クラクションが鳴る中、彼は振り返りもせず言った。
「僕、もう死ぬから」
「雪渚ちゃん、何言ってるの!帰るわよ!」
「……もう勉強したくない」
賢い彼は理解していた。勉強が出来る環境が恵まれていることも、塾に通わせてもらえる子供が多くないことも。だが、理解していたところで、苦しさは消えない。頭で納得出来ることと、心が耐えられることは別だった。
だから逃げようとした。けれど、一人で生きていく力はなかった。本当に死ぬ勇気もなかった。だから「死ぬ」と言って母を止めるしかなかった。今思えば、もっと他にも方法はあったのかもしれない。だが当時の彼にとって、それが唯一の反抗だった。
「うっ……ぐすっ……僕も他の子みたいに遊びたいよ」
「大丈夫、大丈夫だから。絶対にお母さんに感謝する日が来るから」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」
クラクションが響く夜の街中で、母はそっと彼を抱き締めた。幾ら賢くとも、幼い少年少女にとって、親は全てなのだ。優しい言葉を向けられれば、そこに縋るしかない。彼はまた騙されてしまった。彼はこうして、再び地獄の日々に戻っていった。
塾で毎週行われていた「特別テスト」……それ以降も毎週のように全科目満点、一位を連発した。その度に彼は毎晩、人知れず枕を濡らした。幼い彼には最早、あの時、母が言った、「必ず母に感謝する日が来る」という言葉を信じる他なかった。
彼が、塾で行われたIQテストで211という驚異的な数値を弾き出したのもこの頃だった。一般的なIQの平均値は100程度であり、東大生のIQの平均値も120程度だ。彼が叩き出した「211」という数値は常軌を逸した「外れ値」であった。
卒業を間近に控えた小学校。その授業で課された卒業文集。課されたテーマは「将来の夢」だった。クラスメイトがサッカー選手、野球選手――と、なれるはずもないだろう夢を恥ずかしげもなく記す中、彼は「医者になりたい」と書いた。
「ニュースの特集で観た、医者が患者の命を懸命に救う姿に感銘を受けた」――などと尤もらしい理由をつけて、つらつらと。母に怒られないように、そんな思いで僅か十二歳の彼が綴った大嘘だった。
「雪渚君ですが……普段通りの実力を発揮してくれればまず合格は間違いないでしょう」
「そうですか……!良かった。先生方のお陰です」
塾で行われた三者面談。中学受験を間近に控え、塾の講師も、母も、彼の合格を確信していた。「何も起こらなければ」――彼は合格するのだ、と。
――そして、運命の日が訪れる。中学受験当日。第一志望の中学校の入学試験の日がやって来た。第一志望とは言っても彼の第一志望ではなく、母の第一志望と言うのが正確だろう。
「――では、回答はじめ!」
試験官の一声で、僅か十二歳の受験者達は一斉にテスト用紙を開く。捲った紙には、彼にとっては余りに簡単な問題が羅列されていた。――その時、彼は思ってしまった。
――合格しなければ、この「地獄」は終わるんじゃないか?
口角が僅かに上がる。
たった一つの思いつき。けれど、それは彼が初めて掴んだ、「自分で人生を変えるための選択肢」だった。
そして、彼はその解答用紙を――白紙のまま提出した。
――そして、数日後。通知が自宅に郵送される。そこに記されていた「不合格」の三文字にどうしようもなく心が踊った。合格を確信していたであろう母は愕然とし、塾の講師も態々自宅にまで謝罪に来る程の事態になった。
「なんで……っ!なんで……雪渚が落ちるんですか……っ!」
「本当に申し訳ございませんでした……っ!我々の……指導不足です……」
怒声とも悲鳴ともつかない声を上げる母。自宅の玄関で母に土下座をする塾の講師。自分を中心に、大の大人が振り回されている。その光景を見ながら、彼は――初めて少しだけ、愉快だと思った。
苦しめられてきた側だった子供が、初めて他人を振り回した。その感覚は、幼い彼にとって、余りにも甘美だった。
激昂する母の背後で、彼は――静かに北叟笑んでいた。
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