1-19 肉球日和
葉月外――ハズレちゃんとのE級昇格戦を終えたその日の午後。
俺達は〈オクタゴン〉の隣に構える猫カフェ――「にくきゅう日和」にいた。ブリティッシュショートヘアと呼ばれる猫の背を撫でながら、俺は独り言のように呟いた。
「まさかあれだけ派手に建物を壊しておいてお咎めなしとはな……」
膝の上の猫は、そんな人間の事情なんかどうでも良さそうに喉を鳴らしている。店内には珈琲と猫毛と日向の匂いが混ざった、妙に落ち着く空気が漂っていた。
「新世界では良くあることですからね。正直、いちいち請求していたらキリがないんですよ」
天音が苦笑混じりに返す。
床に敷かれたラグの上ではフランが猫と戯れ合って楽しそうに遊んでいる。
「ねこさん、ごはんあるよ」
「ニャー」
フランが差し出したキャットフードに集まる猫達。余りに微笑ましい光景だ。
「兎にも角にもせつくん、まずはE級昇格おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。後味の悪い勝負ではあったけどな……」
「そうですね……。ハズレさん、何か抱えてらっしゃる様子でしたが……」
「――にゃはは~。隣に引っ越して来た人達が早速お客さんとして来てくれて嬉しいにゃ~」
俺達の隣に腰掛けた女の姿がある。ミルキーブラウンのロングヘアの髪は癖毛で軽く外ハネ。ベージュのだぼっとしたセーター――それを萌え袖にして着ている。下睫毛が長い、三白眼でデフォルトでジト目……というよりは気怠げで眠そうにも見える。
「ああ、雪村雪渚だ。よろしく頼む」
「雨ノ宮天音と申します」
「ゆきむらふらん!」
「あたしはここの店長の猫屋敷彼岸だよ~。お隣さん同士よろ~」
「まさか猫屋敷さんがこんな近くにいらっしゃるとは思いませんでしたね」
「にゃはは~。〈極皇杯〉でBEST4に残れたのはたまたまだよ~。運が良かっただけにゃ~」
――猫屋敷彼岸。二年前の第八回〈極皇杯〉で本戦準決勝まで進出した猛者中の猛者。まさかこのような形でお近付きになれるとは思いもしなかった。
「せつなっちたちに〈オクタゴン〉を託したってことは〈十傑〉の杠葉ちゃん達がある意味で認めたってことでしょ~?すごくな~い?」
「そんな大層な話でもないけどな」
「にゃはは~。せつなっちは謙虚だね~」
猫屋敷は笑いながらも、目だけは妙にこちらを見ていた。柔らかく観察されている感じがする。強者特有の、さり気ない値踏みだ。
「それより猫屋敷、〈真宿エリア〉に来て長いのか?」
「そうだにゃ~。このお店をやる前から住んでるからもう四年近くになるかにゃ~」
「そうか……。だったら葉月外って知ってるか?」
「あ~。ハズレっちね~。話したことはないけど怪力の警官がいるって噂は良く聞くにゃ~。なんでも、自分の父親を殺したらしいにゃ~」
「自分の父親を……?」
「噂の真偽はわかんにゃいけどね~」
「そうか……。まあこの〈真宿エリア〉にいればまた会えることもあるだろう」
「そうですね、せつくん」
「それにしても……こんな良い猫カフェが隣にあるなら毎日通い詰めてしまいそうだな……」
「ふふ、そうですね。せつくんは昔から猫がお好きでしたから」
「にゃはは~。そう言ってもらえると嬉しいにゃ~。あたしにとって猫達は家族みたいなモノだからね~」
「フランちゃんも楽しそうですね」
「ああ、何よりだ」
「おにいたま、おなかすいた」
「そう言えばさっき、結局食事をし損ねてしまいましたからね」
「そろそろ帰るか。ここならいつでも来れるしな。猫屋敷、今後ともよろしく頼むよ」
「あいあいさ~。また来てね~」
店を出る時、振り返ると、彼岸は相変わらず眠たげな顔で猫の背を撫でていた。けれどその姿は、不思議とこの街に長く根を張ってきた者の余裕を感じさせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――〈オクタゴン〉のリビング。その食卓に並ぶのは、とろりとしたクリームシチュー、肉厚のハンバーグ、瑞々しいロメインレタスが山と盛られたシーザーサラダ。バターの香りとソースの匂いが、暖かな灯りと混ざり合って部屋を満たす。テレビの音声は、少しだけボリュームを絞られていた。
「おねえたま、おかわり、ほちい」
「ふふ、いいですよ。よく噛んで食べてくださいね」
「あい!」
スプーンを握る小さな手が、一生懸命シチューを掬って口に運んでいる。その姿を見ているだけで、不思議と腹の底が緩む。
「フランは三歳にしてはいい子だよなあ。言うことも聞くし我儘も言わない」
「そうですね。せつくんがお勉強も見てくださってますし、きっと素敵な大人に成長しますよ」
「もうちょっと我儘でも文句ないけどな。フラン、また何か欲しいものとかあれば遠慮なく言うんだぞ」
フランはスプーンを口から離し、少しだけ考えるように首を傾げた。そして、ごく当たり前のことを言うみたいに、ぽつりと口を開く。
「おにいたまと、おねえたまといっしょだから、それでじゅうぶん。フラン、しあわせ」
胸の奥が、きゅっと縮まる。
「おー、よしよし。フランは可愛いな。また今度おもちゃ買ってあげような」
フランの笑顔に、天音もふわりと笑みを浮かべた。その頬が、ランプの橙に温かく染まっている。
ふと、テレビの画面が切り替わる。海底に聳える巨大なドーム、その内側を埋め尽くす光の街。発光する魚の群れが揺れながら通り過ぎる。珊瑚で出来た街灯が薄く輝き、泡のような光の粒が街並みに降り注いでいた。
「……きれい」
フランがスプーンを止め、画面に釘付けになる。
「〈南国諸島ニライカナイ〉の〈海底都市エリア〉ですね。陸地との交易とアイドル文化で栄えた、海底都市です」
「おにいたま、いってみたい」
純粋な憧れの光が、その瞳に宿っていた。
「フランが行きたいって言うなら仕方ねえな。行ってみるか」
「そうですね。もしかしたら〈神威結社〉の仲間も集まるかもしれませんし」
天音が、楽しげに目を細める。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――話は一週間前に遡る。
〈海底都市エリア〉。巨大なドームの内側に広がる〈南国諸島ニライカナイ〉の中心街は、青白い揺らぎに包まれていた。
海の向こうを、光を宿した魚群が流星群のように横切っていく。珊瑚を模した建物の壁面にはホログラム広告が踊り、通りを行き交う人々が、その前で足を止めては歓声を上げていた。
その中心――特設ステージ前の広場で、三人組のトップアイドルユニット・〈Triple Crown〉、通称トリクラのセンター――歌姫・漣漣漣涙の握手会が、熱気を帯びて進行していた。
「涙様ー!!応援してますー!!」
「キャー!!!涙様ー!!!」
「トリクラのシングルも買いましたー!!」
水飛沫のような歓声が四方から飛ぶ。
光の渦の中心にいるのは、一人の女だった。向日葵色の髪をサイドテール風に纏め、そのサイドに大きな編み込みを作って右肩に垂らしている。編み込みに沿うように、淡い青のメッシュが螺旋を描き、動く度に水面の反射のような煌めきを見せた。
「みんなっ☆今日はボクのためにありがとうっ☆みんなの思い出に残る、最っ高の時間にしようねっ☆」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」」」
前髪には大きな貝殻のバレッタ。水色のビキニの上に、白いもこもこの縁取りが施された短丈の海色ケープ。海色のショートパンツに、青と水色の縞ニーソ。露出は多いのに、全体として海のモチーフで綺麗に統一されていた。その瞳は、夜空に瞬く星が宿っているかのように、燦然と輝きを放っている。
握手会は、漣漣漣涙の神対応により、熱狂の中、順調に進んだ。軈て、ある青年の番が来る。重量感のある大柄な肥満体に、おかっぱ頭――毛先が同じ長さに切り揃えられた黒髪のボウルカットの男。彼は丸眼鏡のブリッジに指を添える。
「来ましたな……!涙女史のTOたる、この汚宅部拓生の出番が……!」
丸々と太り上げた巨漢で、言葉を選ばずに言うならばデフォルメの効いた体格。黒縁の丸眼鏡。厚い上唇が「ω」の字を描いている。上はアニメの萌えキャラがプリントされたTシャツに下は茶色のスラックス、といった珍妙な出で立ちだ。
だが本人は、そのことを欠片も気にしていない様子で、眼鏡のブリッジをくいと上げた。
「あっ☆拓生くんっ☆今日も来てくれたんだねっ☆ありがとーっ☆」
「ぶひっ!今日も涙女史はお美し――」
「――おい」
低く鋭い声が、その言葉を断ち切った。握手台に近付こうとした拓生の前に、鰭付きの手が横から割り込む。
ホオジロザメを想起させる、鰓張った顔に水色の肌の大男だ。腕には場違いな程に輝く高級腕時計。彼のオレンジ色のアロハシャツが潮風に靡いた。
「ちょっとこっちに来い」
「――ぶひっ!?で、ですが握手会の途中――」
「いいから来い」
有無を言わせぬ声音。大男は拓生の腕をがっちりと掴むと、人波を割って裏路地へと引き摺っていく。華やかな光から一歩外れたそこは、急に人気が途絶える薄暗い場所だった。水滴の落ちる音だけが、壁と壁の間に反響している。
「涙女史のマネージャーの……マルコ氏――鮫万代圓湖氏ですな?小生に何の用ですかな?」
「…………チッ」
「ははーん、さては涙女史のTOたる小生に教えを乞お――」
「――お前のような汚い醜男が涙様に近付くな」
「ぶひっ!?で、ですが小生は……CDを十枚購入し、正当な手続きを踏んで――」
「――黙れ」
「――ぐふっ!?」
鳩尾に叩き込まれた蹴りが、肺の空気ごと内臓を掻き回す。肺から絞り出された悲鳴は声にならず、濁った空気だけが喉から漏れた。拓生はその場に崩れ落ち、両手で腹を押さえる。
「貴様のようなゴミが、涙様に触れていい訳がないだろう」
マルコは淡々と、靴底で何度も踏み付けた。湿ったタイルに、鈍い音が規則正しく打ち付けられていく。
「……や、やめてくだされ……っ!」
懇願は聞き入れられない。最後の一撃が顎を捉え、拓生の身体が跳ねる。口の端から血と涎が混ざった液体が飛び散り、壁に汚い弧を描いた。
動かなくなった彼を見下ろし、マルコは冷え切った目で言い放つ。
「――巣に帰れ、ゴミが」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「くそっ……!くそっ……!なんで小生がこんな目に……!」
――夜。狭い部屋の中。
唯一の光源であるモニターが、拓生の歪んだ顔を青白く照らしていた。壁にはトリクラのポスターが何枚も貼られ、床には開封済みのCDケースが散乱している。
拓生は脂汗を拭うことも忘れ、ネット掲示板に噛り付いていた。
――――――――――――――――――――――――
Triple Crown応援スレ part.285(799)
>涙様今日も可愛過ぎ
>トリクラの新曲最高だな
>それな
>握手会の会場臭かったな
>オマイラ風呂入れしwww
>涙様に迷惑かけんな
>マルコ様のお陰で涙様に会える!
>マルコ様有能過ぎな
>マネージャーのマルコはファンを問答無用で殴り付ける暴漢
――――――――――――――――――――――――
「ぶひひ……これでマルコの株は急降下ですぞ……!――って、ぶひっ!?」
安堵と興奮の笑みが貼り付いたまま、リロードボタンをクリックする。ページが一瞬白くなり、直ぐに新しいレスが流れ込んできた。
――――――――――――――――――――――――
Triple Crown応援スレ part.285(799)
>マネージャーのマルコはファンを問答無用で殴り付ける暴漢
>嘘つき乙
>マルコ様への嫉妬キモ
>こいつ痛過ぎだろ
>デマ流して楽しい?
>死ねよ
>誰が信じるんだwww
>マルコ様がそんなことする訳なくて草
>はい特定
――――――――――――――――――――――――
「ど……どうして……!」
視界が滲む。拓生は慌てて別のスレッドも開くが、状況は変わらない。「痛い奴」「嫉妬」「キモい」「死ね」――文字列だけが画面狭しと踊り、彼の書き込みは「嘘つき」の一言で塗り潰されていく。
マウスを握る手が震え、クリックする度にカーソルが情けなく揺れた。
「……誰も、信じて……くれないのですな……」
掠れ声が、誰もいない部屋へ沈んでゆく。モニターを閉じた瞬間、部屋は闇へ落ちた。静寂が、一気に耳を締め付ける。
拓生は布団に包まり、膝を抱き締める。さっきまでの熱狂も、光も、人の気配もない。あるのは、自分の荒い呼吸と暴れ狂う心臓の音だけだった。
「ううっ……ううっ……!」
嗚咽が、狭い部屋に反響する。スクリーン越しに見上げてきた「大好きなもの」に踏み躙られ、匿名の海に石を投げ返しても、返ってくるのは嘲笑だけ。
拓生は喉を震わせた。嗚咽が部屋を満たし、軈てその声さえ、闇に呑まれて消えた。
「ううっ……」
世界の何処にも、自分の味方はいない――。そう信じ込んでしまうには、十分過ぎる夜だった。




