2-21 2F出発ロビー:南側コンコース
「最悪……アル……!」
黒い毒ガスが迫っていた。
まるで意思を持つ軍隊のように、境界線を乱すことなく、規則正しく、じわじわとコンコースを呑み込んでいく。
逃げ道を削る黒い霧。
触れれば即座に〈犠牲ノ心臓〉を発動させられる死の壁。
だが、李蓬莱が恐怖していたのは、毒ガスそのものではなかった。
その黒い霧を背に、ゆっくりとこちらへ歩いてくる女騎士。
銀色の鎧。
神々しい剣。
ブロンドのミディアムヘア。
凛と整った顔立ち。
ただ歩いているだけで、周囲の空気が張り詰める。
安全地帯の縮小に追われているのではない。
まるで毒ガスの進行速度さえ計算に入れ、自分の歩幅で死の境界線を従えているようだった。
蓬莱は、自身の不運を呪った。
彼女は知っている。
十三年間、〈神屋川エリア〉を支配した〈韮組〉・組長――竜ヶ崎龍帝。
あの男が〈極皇杯〉優勝を夢見て、何度も大会へ挑戦していたことを。
そして何度も、予選で敗退していたことを。
竜ヶ崎龍帝は弱くなかった。
少なくとも〈神屋川エリア〉では、絶対的な暴力だった。
だが〈極皇杯〉には、その竜ヶ崎龍帝を当然のように上回る怪物がいる。
彼の本戦進出を阻んだのは、いつだって、さらに上を往く強者たちだった。
そして、眼前の女も間違いなくその一人。
二年前、第八回〈極皇杯〉ファイナリスト。犬吠埼桔梗。
そう確信するまでに、時間は掛からなかった。
「――竜歌サン!手毬サン!逃げるアル!」
「犬吠埼桔梗なのだ!?」
「ガッハッハ!ファイナリスト様の登場とは幸先がいいじゃァねェかァ!」
オートウォークの上で遊んでいた竜ヶ崎竜歌と羊ヶ丘手毬も、迫り来る脅威に気付いた。
手毬は目を丸くし、蓬莱は青ざめる。
だが竜歌だけは、長い黒髪を微かに揺らしながら、牙を剥くように笑っていた。興奮を表すように、太く逞しい尻尾が妖しく波打つ。
「……ッ!まさか竜歌サン、戦う気アルカ!?」
「当然だろォ!」
竜歌は鉤爪を鳴らした。
「敵前逃亡なんて、ボスの顔に泥ぶっかけるような真似できっかよォ!」
「――でも竜歌!こんなとこで戦ったらすぐに毒ガスに飲み込まれちゃうのだ!」
「――ッ!竜歌サン!雪村サンに恩義を感じているなら、いや、だからこそ今は退くべきアル!」
「そうなのだ!毒ガスから逃げるのは、雪渚の顔に泥を塗る行為じゃないのだ!正しいことなのだ!」
「ガッハッハ!文句あんなら先に逃げりゃァいいじゃねェかァ!」
竜歌は一歩前へ出る。
「アタイは最初から一人で戦うつもりなんだァ!」
「……っ!」
その覚悟に、手毬と蓬莱は一瞬だけ気圧された。
竜歌はアホだ。無茶をする。考えなしに突っ込む。
けれど、その背中には確かに、昔の彼女にはなかった芯が通っていた。
雪村雪渚に拾われ、〈神威結社〉の一員になり、もう一度自分の生き方を選んだ竜ヶ崎竜歌。
その変化を、蓬莱ははっきり感じていた。
――だが、異変に真っ先に気付いたのもまた、誰より犬吠埼桔梗を注視していた竜歌だった。
「――あァ!?テメェ……!余所見とはどういうことだァ!」
犬吠埼桔梗は、こちらへ歩いている。確かに、竜歌たちの方へ向かっている。
だが、その瞳は違った。
竜歌を見ているようで、見ていない。蓬莱を見ているようで、見ていない。手毬など、最初から視界に入っていないかのようだった。
桔梗の視線は、南側コンコースのさらに奥。毒ガスの進行方向と安全地帯の残り幅、その先の敵影と退路。戦場全体を捉えていた。
「……っ!?ワタシ達を……見てないアルカ?」
「お、お、面白いのだ!ボクなんて眼中にないとでも言いたいのだ!?」
そこで、ブロンドヘアの女騎士がようやく口を開いた。凛とした表情のまま、冷たく澄んだ視線をこちらへ向ける。
「――む?ああ、済まない。私に話し掛けていたのか」
「――マジなのだ!?」
竜歌たちが桔梗へ話し掛けていたことは、火を見るより明らかだった。周囲に他の出場者はいない。
血痕と戦闘の痕跡が残るだけの南側コンコースで、三人は明確に桔梗を見ていた。
それでも彼女は、本気で気付いていなかったらしい。
格下を無視したのではない。敵意を向けられることに慣れすぎていて、その一つ一つへ意識を割いていなかったのだ。
「〈神威結社〉の竜ヶ崎竜歌と……元〈韮組〉・幹部の李蓬莱……それと子供か」
「ワタシ達を知っているアルカ……」
「当然だ。正義に忠誠を誓った身だからな」
「――ちょっと待つのだ!聞き捨てならないのだ!」
「なんだ、子供」
「ボクは子供じゃないのだ!羊ヶ丘手毬なのだ!ピッチピチの十八歳なのだ!」
「……むっ、それは失礼した」
桔梗は真面目に頭を下げた。
「容姿で判断してしまうとは……私もまだまだ未熟だな」
「おォ……?なんだコイツ……噂に聞いてた印象と違ェなァ……」
竜歌が首を傾げる。
蓬莱も同じ気持ちだった。
犬吠埼桔梗といえば、悪を絶対に許さぬ苛烈な正義の騎士。そういう噂が独り歩きしていた。
だが、目の前の女は確かに威圧感こそあるものの、話が通じない狂信者には見えない。
「安全地帯も狭まっている。少し歩きながら話をしようではないか」
桔梗は歩みを止めない。
「特に〈神威結社〉――貴殿らには興味があってな」
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犬吠埼桔梗
2108 BEST8
2109 不参加
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桔梗は、そのままコンコースを歩いていく。
三人は顔を見合わせた。
戦うべきか。逃げるべきか。ついていくべきか。答えを出すより先に、毒ガスの境界線が背後から迫ってくる。
結局、三人は桔梗へ続いた。
広々とした南側コンコースの壁面には、化粧品、旅行代理店、航空会社、魔道具ブランドの広告が並んでいる。
デジタルサイネージが次々に切り替わり、夕暮れ色の照明と相まって、無人の空港に奇妙な華やかさを与えていた。
背後には黒い毒ガス。前方には銀の女騎士。まるで、死と正義に挟まれて歩いているようだった。
「ワタシたちを倒さないアルカ……?」
蓬莱が慎重に問う。
「それは、『〈極皇杯〉なのに何故戦わないのか?』という意図の質問か?」
「それもあるアルが……犬吠埼桔梗は悪を絶対に許さないと聞いたアル」
「あァ?それならアタイも悪ってことにならねェかァ?」
竜歌が自分の鼻先を指差す。
「ボスに言われてもう全部返したけどよォ、兄貴を殺すための金を集めてカツアゲとかしちまったからなァ」
「李蓬莱も竜ヶ崎竜歌も罪は償ったのだろう」
桔梗の声は、静かだった。
「ならば私が出る幕はない。一度の過ちで道が閉ざされることがあってはならないとも思うからな」
「話に聞いていたよりずっと話が通じるのだ……」
「噂というものは当てにならぬものだからな」
桔梗は少しだけ苦笑した。
「ファイナリストになってからというもの、話に尾鰭が付いて回って、私としても困っている」
「おォ……なんか拍子抜けだなァ」
四人の背後では、毒ガスが同じ速度で迫っている。
薄紫色のタイルカーペットには、時折血が滲んでいる。戦闘の痕跡。敗退者の名残。
それらを踏み越えながら、四人は歩き続けた。
手毬が無垢な表情で、桔梗を見上げる。
「でも〈極皇杯〉なのだ。なんで戦わないのだ?」
「――迷っているのだ」
桔梗がそう答えた時だった。
先頭を歩いていた竜歌が、壁際に固まっている敵の集団を見つける。クランらしい。数名の男女が、身を寄せ合いながらこちらを警戒していた。
竜歌の顔が、ぱっと明るくなる。
「――おっ!敵じゃねェかァ!」
十三年を共にした愛用の鉤爪・〈ヴァンガード〉が妖しく光る。
「――うわっ!竜ヶ崎竜歌……!」
「やべえコイツ……!戦いを楽しんでやがるっ!」
「ガッハッハ!散れ散れェ!」
男たちは斧の刃先や小銃の銃口を竜歌へ向けた。
だが、竜歌は物怖じしない。水を得た魚のように、いや、戦場へ戻った竜のように、彼女はコンコースを駆ける。
鉤爪が閃く。銃弾を弾き、斧を躱し、鎧ごと肉を裂く。
数秒後。
男たちは〈犠牲ノ心臓〉を発動させ、淡い光となって消滅していった。
その様子を遠巻きに見ていた犬吠埼桔梗が、ふっと笑う。
「ふっ……逞しいな」
「犬吠埼サン……『迷っている』とは……どういうことアルカ?」
桔梗は、竜歌が敵を蹴散らした場所を見つめたまま答える。
「竜ヶ崎竜歌が今やったように、相手を殺すことで命の肩代わりをしてくれる〈犠牲ノ心臓〉を発動させる――それが〈極皇杯〉の戦い方だ」
「そうなのだ。そうしなきゃ勝ち残れないのだ」
「この〈極皇杯〉がそれを是としているのも、それが新世界の法に反していないのも、これが興行として成立しているのも理解しているつもりだ」
桔梗の声に、わずかな迷いが滲んだ。
「……だが、正義に忠誠を誓う者として、どうしても『殺さなければならない』というのが引っ掛かるのだ」
第八回〈極皇杯〉ファイナリスト。犬吠埼桔梗。
彼女は雪国――〈城塞都市イーハトーブ〉の生まれである。
現在は〈城塞都市イーハトーブ〉直属の騎士団・〈イーハトーブ聖騎士団〉、その総勢九千名に及ぶ騎士団の副騎士団長を務めている。
国の防衛。治安維持。災害救助。そして異能戦争。桔梗にとって戦いは日常だ。それでも、彼女の剣は本来、守るためのものだった。
「私が〈城塞都市イーハトーブ〉直属の〈イーハトーブ聖騎士団〉で副騎士団長を務めていることは知っているだろう。幼い頃から鍛錬ばかりでな、〈極皇杯〉のことを知ったのも恥ずかしながら二年前だったのだ」
「〈極皇杯〉を知ったその年にファイナリストになったアルカ……」
「ああ」
桔梗は頷く。
「だから私が初めて参加したときは、〈極皇杯〉のルールを本当の意味で理解していなかった。〈犠牲ノ心臓〉を発動させる――即ち、『殺さなければならない』ということを知らないまま、予選に放り込まれてしまったのだ」
前方では、竜歌がさらに別の敵影へ向かって駆けている。彼女は笑っていた。血飛沫の中で。危険の中で。自分が生きていることを確かめるように。
「でも殺すことに躊躇いがあるなら、ファイナリストにはなれないはずなのだ」
「羊ヶ丘手毬は私が戦った予選を観ていなかったか?単に運が良かったのだ」
「確か……犬吠埼サンは防御に徹して最後の三人まで生き残ったアル」
蓬莱が記憶を辿る。
「ただ、残る二人が相討ちとなり……結果、犬吠埼サンが勝ち上がる形になったアル」
「そんなことがあるのだ!?」
「ああ、その通りだ。だから私は結局……一人も倒さずに本戦に駒を進めた」
ファイナリスト。その称号だけを聞けば、誰もが血塗られた強者を想像する。
だが、犬吠埼桔梗は違った。殺さずに残った。
「だが本戦は、一対一だ。タイマン形式であろうと、〈犠牲ノ心臓〉を発動させるという勝利条件は同じ。結局、殺す気が起きず、防御に徹しているうちに敗北してしまったがな」
「そういうことだったアルカ……」
「でも、だったらなんで今年もエントリーしたのだ?」
桔梗の表情が、わずかに引き締まる。
「甘いことを言っていられる状況ではなくなってしまったのだ」
「何があったアルカ?」
「私が所属する〈城塞都市イーハトーブ〉直属の〈イーハトーブ聖騎士団〉は、知っての通り新世界最強の騎士団とも言われている」
桔梗は、声を一段階落とした。中継カメラへ音声が拾われないように。
その意図を察した蓬莱は、自然と歩幅を詰めた。
対照的に、何も理解していない手毬が大きな声で反応する。
「丈も強いって言ってたのだ!特に団長が強いとかなんとか!」
「……羊ヶ丘手毬は少し声量を下げてほしいが、その通りだ」
「おっと……ゴメンなのだ」
「最強と呼ばれる理由は団長――最上川真下騎士団長にあった」
「最上川真下騎士団長――黒い甲冑の女騎士アルネ」
「ああ」
桔梗の声には、明確な敬意が宿っていた。
「私も心から尊敬している方だ。あの方のようになりたいとずっと背中を追い掛け続けていた」
そこで、桔梗は一度言葉を切る。足音だけが、コンコースに響いた。
「だが、その彼女が、単独任務へ向かった先日、失踪した。行方を晦ませたのだ」
「えっ……神話級ユニークスキルの噂まであったような方アルヨ……!?」
「まさか……誰かにやられたのだ……!?」
「わからない」
桔梗は首を振る。
「だが、最上川騎士団長は、望めば〈十傑〉に加われたほどの強さの方だ。簡単に敵に敗れて命を落とすとは到底思えない」
「謎……アルネ……」
「だから〈極皇杯〉に出場したという次第だ」
桔梗の目が、真っ直ぐ前を見る。
「〈極皇杯〉を優勝すれば、どんな願いでも叶う――失踪した最上川騎士団長を見つけるのも容易いだろうからな」
「桔梗がまた〈極皇杯〉に参加したのは、そういう理由だったのだ……」
「だが結局、〈犠牲ノ心臓〉によって実際に死ぬわけではないと頭では理解していながらも……敵と戦うことすらできていない」
桔梗の声には、自嘲があった。
「悪人であれば、容赦なく斬れる。だが、ここにいる者の多くは、真剣に挑んでいる罪なき者たちだ。彼らの夢を、願いを、正義の名の下に斬ることに、どうしても迷いが出る」
騎士としては、甘い。〈極皇杯〉出場者としては、致命的。だが、それこそが犬吠埼桔梗という女だった。
「恥ずかしい限りだ」
「――あァ?テメェらよォ、何をヒソヒソ話してんだァ?」
敵を全滅させて戻ってきた竜歌が、犬吠埼桔梗の顔を不思議そうに覗き込んだ。黄色い双角が、空港の照明を受けて輝いている。
そのアホ面を見て、桔梗は少し気が紛れたのか、ふっと笑った。
「いや……単なる身の上話だ」
「あァ?よくわかんねェけどまァいいかァ」
竜歌は前方を指差す。
「それより早く行こうぜェ!あっちはまだ敵がいそうだぞォ!」
そして再び、コンコースの奥へ駆け出していった。
李蓬莱は、その背中を見つめる。
黒い髪。黄色い角。竜の尻尾。昔は、怒りと憎しみだけで走っているような少女だった。
今は違う。明るく笑う。誰かのために怒る。誰かのために戦う。自分の居場所を得た人間の背中だった。
「……竜歌サン。明るくなったアルネ」
「きっと雪渚達のお陰なのだ!」
手毬が嬉しそうに言う。
「竜歌が笑えるようになって、ボクも嬉しいのだ!」
「少しだけ、竜ヶ崎竜歌が羨ましいな」
桔梗が小さく呟いた。
誰かの名を背負い、迷わず戦場を駆ける竜歌。
それは今の桔梗にとって、眩しいものだった。
「……さて、私達も行こうか」
三人は駆け出す。背後に迫る毒ガスを置き去りにして。竜ヶ崎竜歌の背中を追い掛けて。
――予選開始より、二十四分五秒。
この時点で、竜ヶ崎竜歌のKILL数は三十八にまで積み上がっていた。




