2-20 2F出発ロビー:男子トイレ
「……竜歌サン!ワタシたちではこの男に勝てないアル!頼むアル!」
「ホントはボクなら勝てるけど、活躍を譲ってあげるのだ!」
「ガッハッハ!手毬は相変わらずだなァ!まァ任せろやァ!」
「……うるさい。嫌な学生時代を思い出す……」
男子トイレの床に、水滴と泥が散っていた。
磨き込まれた白いタイル。整然と並ぶ小便器。壁際の洗面台。本来ならば清潔な空間であるはずのそこは、既に泥と怒りと羞恥と殺意が混ざった、奇妙な密室戦場へ変わっている。
李蓬莱は、既に確信していた。この戦いは、竜ヶ崎竜歌が勝つ。理由は単純だった。稚田牛太郎の身体は泥である。水分を含む土。物理攻撃は通じない。どれほど正確に拳を叩き込んでも、どれほど鋭い爪で切り裂いても、泥は飛び散り、再び集まる。
だが、竜ヶ崎竜歌には炎がある。上位級ユニークスキル・〈竜鱗〉。その技の一つ――『竜ノ息吹』。口から火炎を噴く、竜人化した竜歌ならではの攻撃。泥へ火炎を浴びせれば、水分が飛ぶ。乾燥し、固まる。固まれば、物理攻撃が通る。これほど明快な相性勝ちはない。
李蓬莱はそう判断した。
「――竜歌サン!『竜ノ息吹』を使うアル!」
「あァ?なんでだァ?」
蓬莱の確信は、竜歌の一言で揺らいだ。竜ヶ崎竜歌がアホであることは、蓬莱もよく知っている。知っていた。幼い頃から知っていた。しかし、想定以上だった。
「……な、なんでわからないアル!」
「竜歌はアホなのだ!」
「……何?来ない……?それなら……」
稚田牛太郎の泥の身体が、床を滑るように動いた。
次の瞬間、竜歌の眼前へ迫る。泥が跳ねた。
粘ついた泥の身体が、竜歌へ覆い被さる。
「うえッ……!なんだァ……!テメェ……!」
「窒息……させる……」
稚田の身体が崩れた。泥となって、竜歌の全身へまとわり付く。黒い軽装鎧の隙間へ入り込み、首元へ絡み、顔面へ貼り付き、鼻と口を塞いだ。
泥が体内へ侵入しようとする。喉へ。気道へ。肺へ。
竜歌は思わず膝を折りかけた。
「が……ッ……はッ……!」
吐き出した鮮血が、口元を塞ぐ泥へ混ざる。太く逞しい尻尾が、苛立ちをぶつけるように床を叩いた。タイルが砕ける。
「竜歌サン……!」
「ま、まずいのだ……!」
「竜歌サン……ちょっと耐えるアル……!」
蓬莱が動いた。赤いチャイナドレスの裾が翻る。片脚を高く上げ、片脚立ちの姿勢を取る。功夫の構え。糸目の奥に宿る集中が、空気を変えた。
上位級ユニークスキル・〈香薫〉。敵の気配、弱点、違和感を嗅ぎ分ける蓬莱の嗅覚は、泥に紛れた稚田の位置すら見逃さない。
狙いは、竜歌の体内に潜む泥の塊。蓬莱は竜歌の腹部へ、鋭く、最小限の打撃を入れた。
「……がッ……!」
竜歌が苦痛に声を漏らす。
だが、効いた。
衝撃が腹の奥を走り、竜歌の口から大量の泥が吐き出される。
べしゃり、と床へ落ちた泥が、すぐに人の形を取り戻した。
「……むっ、なかなかやる」
「ナイスなのだ!蓬莱!」
「……何とかなったアル」
「おえッ……ぺっぺっ……!汚ェ……!」
稚田牛太郎本体にダメージはない。
しかし、蓬莱の拳は竜歌の身体へ必要最小限の衝撃を与え、体内へ入り込んだ泥を物理的に押し出した。それは蓬莱だからできた芸当だった。味方を傷付けすぎず、敵だけを吐き出させる。
竜歌一人では、間違いなく窒息していた。
「――竜歌サン!早く『竜ノ息吹』を使うアル!」
「蓬莱!だからなんでだァ!アタイは自分の意思で戦うぞォ!」
「――アホなのだ!炎で固めてしまえば攻撃が通用するのだ!」
「――バッ――手毬サン!それを言っちゃダメアル!」
「……手の内を晒した……?馬鹿乙……!」
稚田の反応は速かった。無数の泥の腕が伸びる。壁面に設置された洗面台へ一斉に絡み付き、全ての蛇口を勢いよく捻った。
轟々と水が流れ出す。洗面台から溢れた水が床へ落ち、瞬く間にトイレ全体へ広がっていく。
「……これで……固められてもまた水分を吸収して泥に戻れる……対あり……」
「あれ?なんかまずいこと言っちゃったっぽいのだ!ゴメンなのだ!」
「阿呆しかいないアル……」
蓬莱は頭を抱えた。
十三年間、〈韮組〉によって支配された〈神屋川エリア〉。そこでは、住民が知恵を付けることを徹底的に封じられていた。勉強も、外部との情報接続も、自由な学びも許されなかった。
竜歌や手毬がここまで常識に疎いのは、本人たちだけの責任ではない。蓬莱自身も、その支配体制の一端を担ってしまったという負い目がある。
それでも。それを差し引いても。この二人のアホさ加減は、時々、常識の限界を超えていた。
床に水が満ちていく。排水溝へ轟々と流れ込んでいるはずなのに、排水が追いつかない。あっという間に、水位は足首ほどまで上がった。
「本戦進出経験者でも準決勝進出者でもないはずアルが……普通に強いアル……!」
〈極皇杯〉の出場者は、上位級ユニークスキル持ちが大半を占める。中位級や下位級の者も参加はするが、その多くは記念参加か、思い出作りだ。
つまり、新世界の上位一パーセントしか存在しない、上位級ユニークスキルを持つ竜歌や蓬莱でさえ、〈極皇杯〉全体で見れば有象無象に過ぎない。
稚田牛太郎はファイナリストではない。それでも、準々決勝進出者だ。強い。不快で、卑劣で、冴えない見た目をしていても。この男は、紛れもなく強い。
「――『竜ノ犬牙』ッ!!」
竜歌が床を蹴った。
水を跳ね上げ、稚田の腹部へ突進する。
そして、牙を剥く。
竜の顎が、泥の身体へ食らい付いた。
稚田の腹に、大きな穴が空く。
だが、泥だ。
穴はすぐに周囲の泥で塞がっていく。
「――あァ!なんで通用しねェんだよォ!」
「――ッ!だから『竜ノ息吹』を使うべきだったアル!」
「……もう遅い」
稚田の身体が、膨らみ始めた。
最初に違和感へ気付いたのは、蓬莱だった。
「……何か大きくなってないアルカ……?」
「まさか……!水を吸ったのだ……!?」
蛇口から流れ続ける水。
足場を満たす水。
その全てを、稚田は下半身から吸収していた。
泥の身体が肥大化していく。
二メートル。
三メートル。
四メートル。
トイレの天井へ頭が届くほどに、稚田牛太郎は巨大化した。
濡れた床に足を取られ、竜歌たち三人はまともに踏ん張ることすら難しい。
巨大な泥の男が、三人を見下ろす。
「……〈神威結社〉……意外と大したことない」
稚田の小さな声が、湿った空間に響く。
「……クランマスター――雪村雪渚の底が知れる」
竜歌の目が、変わった。
「――あァ!?テメェ……!今なんつったァ!?」
「――竜歌サン!明らかな挑発アル!乗ってはダメアル!」
「そうなのだ!攻撃を誘ってるのだ!」
「――るっせェ!!」
竜歌が吠える。
喉の奥から、獣じみた怒声が響いた。
「ボスを馬鹿にしたヤツはブッ殺すぞォ!!!!」
水を蹴散らし、竜歌が突っ込む。
怒りに任せた直線的な突進。
稚田の口元が、わずかに歪んだ。
誘いに乗った。
そう思ったのだろう。
だが、竜歌は稚田の眼前まで踏み込み、超至近距離で大きく息を吸い込んだ。
「――『竜ノ息吹』ッ!!」
「――いや、おっそいのだ!」
手毬のツッコミと同時に、竜歌の口から火炎が噴き出す。
灼熱の息吹が、巨大な泥の身体を正面から焼いた。
水分が飛ぶ。
泥が乾く。
一瞬、稚田の身体がコンクリートのように固まった。
その隙を、竜歌は逃さない。
続けざまの――攻撃。
「『竜ノ両鉤爪』!!」
黒い鉤爪がX字を描く。
固まった稚田の身体が切り裂かれ、砕けた破片が水浸しの床へ落ちた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
乾いたはずの破片が、すぐ水を吸っていく。
「――あれっ?倒せた……のだ?」
「――いやッ!まだアル!水を吸って復活してくるアル!」
「だったら今のうちに逃げるのだ!」
「ボスを馬鹿にされたまま黙ってられるかよォ!」
竜歌は牙を剥いた。
「そうじゃなくても蓬莱や手毬が酷い目に遭ってンだろォがァ!」
「竜歌サン……!」
「問題ねェ!泥だから大した攻撃力はねェ!問題はあの厄介な、体の中に入って窒息させてくるヤツだけだァ!」
「次その攻撃が来たらワタシがまた助けるアル!」
蓬莱は構え直しながらも、表情を曇らせる。
「……でも次は学習してるかもしれないアル」
その時。
トイレ中に散らばった破片が、水を吸って泥へ戻った。
泥は床を這い、壁を伝い、天井から滴り落ち、再び一箇所へ集まっていく。
そして、即座に竜歌へ襲い掛かった。
速い。
巨大化した見た目に反して、動きは鈍くない。
泥は再び竜歌の身体へまとわり付き、鎧の隙間を這い、顔を覆い、鼻と口を塞ぐ。
再びの窒息狙い。
「……がッ……!」
竜歌は苦しみに顔を歪める。
だが、今回は暴れなかった。
水に足を取られながらも、ゆっくりと男子トイレの個室へ向かう。
扉を蹴り開ける。
背後で功夫の構えを取る蓬莱へ、目だけで合図を送った。
「竜歌サン……!」
蓬莱は、その意図を読み取った。
鋭い打撃が、竜歌の腹部へ突き刺さる。
先ほどと同じ。
だが、位置は違う。
竜歌の身体の向きも、吐き出す方向も、全て計算されていた。
堪らず、竜歌の口から泥が飛び出す。
吐き出された稚田牛太郎は――そのまま便器の中へ落ちた。
「おえっ……手毬!今だァ!」
「――任せるのだ!」
手毬が動いた。
羊の着ぐるみを揺らし、竜歌の背へ飛び乗る。
跳躍。
個室へ飛び込む。
狙いは、便器に取り付けられたレバー。
便器の中では、泥男が呆気に取られていた。
まるで大便のように、泥が便器の中へ積もっている。
「蓬莱ママ……!」
稚田が声を漏らす。
だが、遅い。
竜歌は我に返って便器から這い出ようとする稚田を逃がさない。
便座のフタを、勢いよく閉めた。
その上から、竜の鉤爪で押さえ付ける。
「行けェ、手毬ィ!」
「大なのだ!!」
手毬が便器のレバーを、「大」の方向へ全力で回した。
水が流れる。
轟音。
渦。
吸い込まれる泥。
「蓬莱ママ……!蓬莱ママぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」
便器の中から、情けなくも切実な断末魔が響いた。
蛇口から流れ続ける水音に混じって、その声は確かに聞こえた。
やがて、泥は渦へ呑まれ、排水管の奥へ消えていく。
繋がる先は――安全地帯外だ。
李蓬莱が、洗面台の蛇口をきゅっと閉めた。
水音が止む。
静寂が戻った。
「……竜歌サン。窒息を……誘ったアルカ?」
「ガッハッハ!当然だろォ!」
竜歌は胸を張った。
「〈神威結社〉のボスは天才だからなァ!一緒にいれば嫌でも賢くなるってモンよォ!」
竜ヶ崎竜歌は「敢えて」窒息攻撃の話題を出すことで、その攻撃を誘ったのだ。体内に侵入される攻撃は非常に危険だが、その体のコントロール権は、飽くまで竜ヶ崎竜歌にある。
「竜歌サンは賢くはないアルガ……いや、見事だったアル」
「怒ってたのも演技だったのだ!?」
「あァ?いやァ、ブチギレてたのはマジだけどよォ」
竜歌は鼻を鳴らす。
「なんか最初からウンコみてェだなァと思ってたから流せねェかなァ、と!」
「多分、〈極皇杯〉でトイレに流されて敗退した奴は初めてアルヨ……」
「でも竜歌のお陰で助かったのだ!ありがとうなのだ!」
「竜歌サンも、手毬サンも、謝謝アル。特に、〈神威結社〉には助けられっぱなしアルネ……」
「ガッハッハ!任せろって言ったろォがァ!」
「あっ……でもボクが本気を出せばもっと楽に勝てたのだ!」
竜歌と蓬莱は顔を見合わせ、思わず笑った。
手毬だけが、それに気付かず堂々と胸を張っている。
床を満たしていた水は、少しずつ排水溝へ吸い込まれていった。
びしょ濡れの男子トイレ。泥に汚れた床。壊れかけた個室。その中で、幼少期を共にした三人は、十三年ぶりに同じ温度で笑っていた。
「――よォし!蓬莱!」
竜歌が、蓬莱へ向き直る。
「お前とは色々あったけどよォ、この件で手打ちにしよォぜェ!」
竜歌は、何の屈託もなく笑った。
「ボスなら、きっとそうするはずだからなァ!」
蓬莱の糸目が、わずかに揺れた。
「……まだ許されるとは思ってないアルガ」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「そう言ってもらえると嬉しいアル。ワタシもまた……二人と友達に戻りたいアル」
「おォ!そう来なくちゃなァ!」
「蓬莱!ボク、嬉しいのだ!」
三人は、男子トイレを後にした。血で血を洗う〈極皇杯〉予選中であることを、ほんの一瞬だけ忘れさせるように。楽しそうに。懐かしそうに。失われた十三年を、少しずつ拾い直すように。
「――それにしても、アタイら三人が同じブロックとはなァ!」
「〈天空橋空港〉……ということはHブロックアルネ」
「アタイの勘だが、ボスは違ェブロックみてェだけどなァ!」
「そうなのだ!蓬莱、聞いてるのだ!?雪渚は今や超有名人なのだ!」
「一昨日出所したばかりアルガ……流石にその件は耳にしているアル。なんでも〈十傑〉の銃霆音サンと異能バトルを引き分けたとか……」
「ガッハッハ!ボスなら当然だなァ!」
「なんで竜歌が偉そうなのだ……」
二階出発ロビー。広大なコンコースへ戻る。そこには、既に戦闘の痕跡が刻まれていた。
オートウォークの脇。売店の隅。搭乗口の待合席。薄紫色のタイルカーペットには、至るところに血痕が残っている。
だが、人の気配はない。この辺りにいた出場者は、全員敗退したか、別の場所へ移動したのだろう。
「この辺りにいた出場者は、もう残ってないみたいアルネ……」
「そういやよォ、気になってたんだけどよォ」
竜歌が、コンコース中央に並ぶ二基のオートウォークを指差す。
「この動いてる『しすてまちっく』なヤツはなんだァ?」
竜ヶ崎竜歌は眼前の、二基が並列したオートウォークを指し示す。糸目の女――李蓬莱は淡々と答えを返した。
「『動く歩道』――オートウォークというものアル。乗ると自動で前に進んでくれる代物アル」
「――おあッ!?なんだよそれよォ!楽しそうじゃねェかァ!」
「勝手に動くなんてすごいのだ!ボクも乗るのだ!」
「――ちょっ、敵に見つかったらどうするアル!?」
「あァ!?倒しゃァいいじゃねェかァ!」
「――じゃなくて、隠れながら移動するべきアル!みんなそうしてるアルヨ!」
「知らねェ!性に合わねェ!」
「……聞いたワタシが馬鹿だったアル」
「そうなのだ!聞いた蓬莱がバカなのだ!」
「ガッハッハ!」
竜歌は楽しげにオートウォークへ向かう。手すり部分――ハンドレールとスカートガードを飛び越え、動く歩道の上へ着地した。
手毬も続く。ただし、着地は失敗した。身を乗り出し、落下するように飛び乗る。
「――ぐえっ!痛いのだ!」
「おォ!手毬、すげェぞォ!勝手に動くぞォ!」
「えっ!?ホントなのだ!大発明なのだ!」
「アタイ天才的なことを思い付いたぞォ!」
竜歌の目が輝く。
「この上で走れば一番速ェんじゃねェかァ!?」
「竜歌、もしかして天才なのだ!?競争するのだ!ボクはこっちのレーンで走るのだ!」
「おォ!やろうぜェ!」
「阿呆ばっかアル……」
蓬莱が頭を抱えた、その瞬間だった。
右側。
コンコースの奥から、気配が流れてきた。
冷たい。
重い。
おどろおどろしい。
生き物の気配というより、処刑場の扉がゆっくり開いたような感覚。
蓬莱は反射的にそちらを見た。
黒い霧状の毒ガスが、すぐ近くまで迫っていた。
八番搭乗口は既に霧に呑まれ、輪郭がぼやけている。
安全地帯が縮小している。
それ自体は、驚くべきことではない。
蓬莱が恐怖したのは、毒ガスではなかった。
安全地帯の境界線ぎりぎり。
黒い霧を背負いながら、こちらへ歩いてくる一人の女がいた。
ブロンドのミディアムヘア。
気品のある髪型。
銀色の鎧。
神々しい剣。
その立ち姿は、まさに女騎士と呼ぶに相応しい。
美しい。
だが、美しさより先に、恐怖が来る。
毒ガスの進行に合わせるように歩いている。
逃げているのではない。
追い立てられているのでもない。
黒い死の霧を背に、まるで自分が安全地帯を連れてきているかのように、女は静かに進んでくる。
李蓬莱は、最悪のエンカウントに絶望した。
何故なら。
彼女は、その女を知っていた。
否。
この新世界に生きる者なら、誰もが知っている女だった。
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