2-17 本館5F:スパフロア
〈極皇杯〉予選Aブロック会場――五ツ星ホテル・〈竜宮楼〉。本館五階、スパフロア。
そこは、血と殺意に塗れた現在の〈竜宮楼〉において、余りにも場違いなほど整った空間だった。最先端のマッサージチェアが規則正しく並ぶ休憩フロア。壁際には、牛乳やスポーツドリンクを販売する自動販売機。その外周に沿って、大浴場、岩盤浴、プライベートサウナ、リラクゼーションルームが併設されている。五ツ星ホテルに相応しい、金を掛けた癒やしの階層。
ただし今は、世界中に生中継されている殺し合いの最中である。
にも関わらず。
俺達三人は、そのスパフロアの大浴場――より正確には、男湯にいた。黒を基調とした高級感のある内装。広々とした浴槽。磨き込まれた石床。湯煙と熱気が立ち込める空間。
壁際の間接照明が湯面へ淡く反射し、先程まで命の遣り取りをしていたことが嘘のような、奇妙な静けさに包まれている。
「――おい、ちょっと待て。庭鳥島、馬絹」
「なんね、せつな?人が寛いどるとに」
「おー、ここ男湯なんだよな」
俺は入浴もせずに、服も赤いニット帽も着用したまま、大浴場の外に併設された露天風呂近くの木製ベンチへ腰掛けていた。
開け放たれた扉の奥では、露天風呂に浸かって寛ぐ「人形態」の庭鳥島と馬絹の姿がある。
庭鳥島は肩まで湯に浸かり、心底気持ち良さそうに頬を緩ませている。
馬絹は長身の褐色の身体を堂々と湯に沈め、傷だらけの肌へ温泉の熱を浴びながら、まるで座禅でも組んでいるような落ち着きぶりだった。
「細かいことを言うでない、雪村の」
「まぎぬの言う通りばい!女湯はめちゃくちゃになっとったけんしかたなか!」
「戦闘が発生したのであろうな」
「せつなは考えすぎばい!リラックスすることも大事とよ?」
「おー、庭鳥島」
俺はベンチへ腰掛けたまま、深々と息を吐いた。
「俺は〈極皇杯〉初出場だがよ。わかるぞ。リラックスも大事なんだろうが、少なくともこういうことではない。間違いなく」
「はー、せつなはわかっとらんねー」
「あと馬絹。お前は全身傷だらけなのに風呂入るな。染みるだろ」
「この程度の痛み、マッサージとそう変わるまい」
「いや変わるだろ。頭おかしいのか」
馬絹は平然としている。実際、彼女の全身には俺との死闘の痕跡が残っていた。
裂傷。打撲。火傷。骨折の跡。血は既に洗い流されているが、湯に浸かれば痛みが走らない筈がない。それでも馬絹は、眉一つ動かさない。
矢張りファイナリストは、どこか感覚が壊れている。
〈極皇杯〉予選中、〈竜宮楼〉内には天プラ製の超小型カメラが無数に飛び交っている。それらによって、予選の様子は新世界中へリアルタイムで生中継されている。だが、流石に大浴場やトイレの中まではカメラも入ってこないらしい。
プライバシー保護という観点からすれば当然だ。尤も、運営側もまさか、血で血を洗う〈極皇杯〉予選中に、堂々と入浴している出場者が現れるとは想定していなかっただろう。
だが庭鳥島も馬絹も、寛いでいるように見えて、完全には気を抜いていない。
湯船に浸かりながらも、庭鳥島の視線は浴場の入口や換気口の位置をさりげなく確認している。
馬絹も、背を壁へ預け、死角を最小限にしていた。
入浴している癖に、戦闘態勢だけは解いていない。この二人は、矢張り本物だった。
「というかなんで俺を連れてきたんだ……」
「愚問であるな」
馬絹が湯煙の奥で目を細める。
「吾輩と庭鳥島のが入浴する間は汝は暇であろう」
「話し相手になってもらわんと!てかせつなも入ればよかとに!」
「庭鳥島の、強要は良くなかろう。雪村のには最愛の妻がおるのだ。吾輩らとの入浴は浮気になるのであろう」
「そう言えば!」
庭鳥島が、ちゃぷ、と湯を揺らして身を乗り出す。
「せつなの奥さんと陽奈乃様の親善試合……すごかったばい」
先程の開会式。
〈継戦ノ結界〉によって観客に被害が及ばないとはいえ、親善試合に出場した天音と陽奈乃は、〈極皇杯〉の出場者ではない。
つまり、〈犠牲ノ心臓〉を装着していなかった。本来なら、あの戦いは一歩間違えれば、どちらかが本当に死んでいてもおかしくなかった。
神話級ユニークスキルという、神に等しい力。それを持つ二人が、殺し合いになりかねない状況で、それでも「魅せる」試合として成立させた。
あれは、二人の強さだけではない。互いの実力を信じていたからこそ成立した、ギリッギリの芸当だったのだ。
「カメラがなかけん聞くばってん」
庭鳥島が、妙に真剣な顔でこちらを見る。
「せつなは奥さんと陽奈乃様、どっちが好きとね?」
「はあ?」
――いないだろ、血で血を洗う〈極皇杯〉の予選中に恋バナする奴。
「陽奈乃様はせつなラブばい!陽奈乃様と付き合わんとね?」
「いや、そんな単純な話じゃ……」
〈不如帰会〉の幹部によって、陽奈乃の家族と親友が惨殺された事件。
陽奈乃は先日、それを正式に世間へ公表した。その背景もあり、今、「@hinateras」のユーザー名から始まる陽奈乃のSSNSでは、四億人のフォロワーが彼女の恋を応援する空気に染まっている。
世界最強クラスのギャルが、家族を奪われ、それでも前を向き、恋までしている。大衆が熱狂する理由としては十分過ぎる程だった。
「一夫多妻制など、旧世界の話であろう」
馬絹が何でもないことのように言う。
「今は男も女も自由な時代であるぞ。二股でも掛ければ良かろうに」
「そう言われてもな……」
今この瞬間も、〈天上天下闘技場〉の大型ホログラムディスプレイでは、画面に一向に映らない俺達を探している筈だ。
陽奈乃も。
天音も。
拓生も。
ハズレちゃんも。
フランも。
竜歌も、どこかのブロックで戦っている。
みんな、俺や竜歌の本戦進出を願ってくれている。
「うーん」
俺はベンチの背へ身体を預けた。
「俺も、陽奈乃の気持ちにちゃんと答えてやれないのは申し訳ないと思ってる。でも、最終的には陽奈乃が幸せになってくれればいいかな」
庭鳥島が、大袈裟に溜息を吐いた。肩へ湯を掛ける。ちゃぷ、という音が浴場に木霊する。
「はー!せつな、わかっとらん!」
「何がだよ」
「陽奈乃様にとっては、あんたと一緒になっとが一番の幸せなんに、陽奈乃様の幸せをあんたが勝手に決めると?」
「……っ!」
言葉が刺さった。鋭い刃のように、胸の奥を抉った。
陽奈乃の幸せ。そう口にした時点で、俺はどこかで自分を安全圏に置いていたのかもしれない。彼女の想いに応えられない自分を正当化するために、「幸せになってほしい」という綺麗な言葉を使っただけなのかもしれない。
「陽奈乃の幸せ……」
「ふっ」
馬絹が静かに笑う。
「〈十傑円卓会議〉で銃霆音のから日向のを守ったのだろう?女としては、惚れるのも理解できんではないがな」
「ようじゅーていおんに逆らえるなー。あたしやったら怖くてでけんばい」
「まあ、あの時は必死だったしな」
「その結果、図らずも〈神威結社〉は日向のを獲得したというわけか……」
馬絹は湯面へ視線を落とした。
「吾輩らも、クランに入るべき頃合かもしれぬな」
「あー、お前らってクラン入ってないんだよな」
強い者ほどクランへ所属しない。そういう傾向があるとは聞いていた。
新世界を共に生き抜く仲間。家族を看取ることさえ難しいこの時代において、クランは「新しい家族の形」という側面を持つ。
上位級以上のユニークスキルを持つ強者なら、働かずとも生きていける。
だが無等級や下位級のユニークスキルしか持たない者はそうではない。働き、日銭を稼ぎ、それでも自分一人では新世界を生き残れない。
だからクランへ入る。クランは、生活基盤であり、保護組織であり、時に家族だ。
「強い奴ほどクラン入らないとは聞くけど……気が変わったか?」
「汝に敗北して吾輩自身の弱さを省みるフェーズに来たということよ」
馬絹は淡々と言った。
「のう、庭鳥島の」
「んー、あたしも今年負けたらクランば探すことになりそうばい」
「ふーん。でもまあお前らなら引く手数多だろ」
「少なくとも〈神威結社〉はなかろう。温すぎよう」
「あたしも思っとったばい。陽奈乃様がおるのは魅力的ばってん、〈神威結社〉はなかばい」
「おー、なんだお前ら」
庭鳥島と馬絹は、随分とリラックスした様子で五ツ星ホテルの大浴場を堪能していた。見るからに気持ち良さそうだ。予選の最中にも関わらず、この図太さ。少しだけ羨ましかった。
それでも、二人は警戒を怠っていない。馬絹の視線も、常に浴場の出入口、窓、換気口を順に拾っていた。緩んでいるように見えて、戦場から意識は逸れていない。だからこそ、この時間が成立している。
「……さて」
馬絹が、ざばん、と音を立てて湯船から立ち上がった。
「血で血を洗う戦場に戻るとするかの」
濡れた褐色の肌が、湯気の奥で艶めく。身長は百九十センチ近いだろう。ユニークスキルを使わずとも、並の人間なら性別を問わず体格差だけで圧倒出来る。
「おー馬絹、お前、羞恥心とかって子宮に置いてきた?」
「ふっ、生まれは戦闘民族でな。左様なものならば昔に捨てたわい。庭鳥島の、汝も出ようぞ」
「いやー、せつながおるとに、恥ずかしゅうてそぎゃん堂々とはでけんばい」
「……先に出てるぞ」
俺は立ち上がり、裸足のまま大浴場から脱衣所へ続く扉を開けた。脱衣所を抜け、床に脱ぎ捨てていた靴下を履き直す。入口に置いていたスニーカーへ足を入れ、「男湯」と書かれた紺色の暖簾を潜った。
休憩フロアへ出る。広々とした空間に、様々な種類のマッサージチェアが規則正しく並んでいる。床にはタイルカーペット。
壁際には、牛乳やコーヒー牛乳を売る自動販売機。紙幣挿入口がない以外は、旧世界の自販機と殆ど変わらない。
喉が渇いていた。コイン投入口へ銅貨を一枚入れ、コーヒー牛乳を購入する。落ちてきた瓶を手に取る。ひんやりとした感触が、妙に心地良かった。
瓶の蓋は、素手で開けられる構造になっている。吸い寄せられるように蓋を開け、ミルクティーブラウン色の液体を口へ運んだ。
ひと口。甘さとほろ苦さが舌へ広がる。冷たい液体が喉を通り、胸の奥へ染み込んでいく。
「……うっま」
思わず声が漏れた。血と粉塵と煙草の味で鈍っていた味覚が、漸く真面なものを思い出した気がした。
広過ぎる休憩フロアは、俺一人で使うには余りにも寂しい。近くに並んでいた白いマッサージチェアの一つへ腰掛ける。
背を預け、残りのコーヒー牛乳を口へ運んだ。ひんやりとした瓶の手触り。柔らかく沈む椅子。夕暮れの光が窓から差し込み、床のタイルカーペットを淡く染めている。ここだけ切り取れば、どう見ても高級ホテルの午後だった。
それでも、耳は周囲の音を拾っている。換気口。窓。暖簾の奥。廊下。何かが動けば、直ぐ反応出来るように。
軈て、脱衣所の暖簾が揺れた。庭鳥島と馬絹が出てくる。
庭鳥島は、腹部の露わな短い白いキャミソールに赤いショートパンツ。
馬絹は、胸のサラシとオーバーサイズの紺色の下衣。
元の服装へ戻っている筈なのに、二人とも殆ど入浴前と印象が変わらない。
「ほう、雪村の」
馬絹がこちらを見て、僅かに口元を緩める。
「吾輩らに講釈を垂れる割には汝も寛いでおるな」
「ずるか!あたしもコーヒー牛乳飲むけん!」
――緊張感ねーな、コイツら……。
俺は夕暮れの光が差す窓へ視線を向けた。
現段階で完全に安全地帯内となるのは、本館七階以下。北館は五階以下。東館は既に完全な安全地帯外。西館と南館も、壁際のほんの一部だけが安全地帯へ残っている程度だろう。実質的には、安全地帯外と換算していい。
つまり、残された出場者はかなり狭い範囲へ押し込められている。終盤だ。
「それにしても、馬絹は二年連続ファイナリストなんだろ?」
俺は瓶を片手に、隣へ座る馬絹を見る。
「こんな予選を二年連続で勝ち抜いてるなんて、化物だな……」
庭鳥島と馬絹は、それぞれコーヒー牛乳を購入し、俺の両隣のマッサージチェアへ腰を下ろしていた。
「今年は汝によって阻止されたようだがな」
「ぷはぁ……! うまかぁ」
庭鳥島が幸せそうに息を吐く。
「……ばってん、よう出たね?今年は見送るとか言うとらんかった?」
「なに」
馬絹はコーヒー牛乳の瓶を眺めながら、静かに答えた。
「銃霆音のに認められたいというのもあるが、祭りがあるなら神輿を担がねば面白くなかろう」
俺は空になった牛乳瓶を捨てようと、マッサージチェアから立ち上がる。自販機横に置かれたゴミ箱へ向かい、瓶を放った。瓶が中で軽く音を立てる。その音が、やけに静かに響いた。
戦闘は、いつも突然だ。緩んだ瞬間に来る。再び二人の下へ戻ろうと、俺が振り返った――その時だった。
ぱん。
軽い音がした。
それは、銃声というには余りに小さく。
破裂音というにはあまりに乾いていた。
次の瞬間。
マッサージチェアに腰を下ろしていた馬絹の頭部が、吹き飛んだ。
血が咲いた。
夜空に打ち上がる花火のように。
赤い飛沫が、夕暮れの光を受けて一瞬だけ美しく散った。
「は……?」
声が漏れた。
理解が追いつかない。
馬絹の身体は、まだマッサージチェアへ座っている。
首から上だけが、ない。
庭鳥島が、コーヒー牛乳の瓶を取り落とした。
瓶がタイルカーペットへ落ち、中身が茶色い染みとなって広がる。
彼女は勢い良く立ち上がった。
頭部を失った馬絹の身体が、ゆっくりと横へ崩れる。
床へ落ちる寸前、淡い光が全身を包んだ。
消える。
〈犠牲ノ心臓〉が発動した。
馬絹百馬身差は、今この瞬間、正式に敗退した。
俺達は警戒を怠っていなかった。
馬絹も、庭鳥島も、俺も。
大浴場でさえ、完全に気を抜いてはいなかった。
それでも、撃たれた。
当然、馬絹を倒したのは庭鳥島ではない。
敗北を認めた馬絹を、今更俺達が倒す意味はない。
そもそも庭鳥島には、馬絹を倒す機会など幾らでもあった。
俺でもない。
俺は瓶を捨て、振り返ったばかりだった。
では、誰が。
何処から。
どうやって。
庭鳥島の顔から、血の気が引いていた。
先程までの明るさは、完全に消えている。
あの庭鳥島萌が、怯えていた。
昨年のファイナリスト。
準決勝進出者十人を含む百人を片付けておきながら、笑ってコーヒー牛乳を飲んでいた女が。
本能的な恐怖に、身体を強張らせている。
庭鳥島は俺へ飛びついた。
胸を押し付けるように抱きつき、赤い翼を半ば盾のように広げる。
その声は、震えていた。
「――お、鬼が……」
黄緑色の髪が、小刻みに揺れている。
「鬼が出たばい!」
予選開始より、一時間五十二分三十九秒。
Aブロックは、遂に最終局面を迎えようとしていた。
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