2-16 本館1F:エントランス
煙が肺を満たした。湿気を含んだ煙草の味は、酷く不味い。
それでも俺は、柱に背を預けたまま、暫くそれを吐き出せずにいた。口の端から、白い煙がゆっくりと立ち上る。
赤いニット帽を押さえ付けるように目深に冠り直し、薄暗い地下駐車場の奥を見つめた。
ガラガラになった通路の中央。そこには、車だったものの残骸が山のように積み上がっている。
フレームの歪んだ車体。外れたホイール。砕けたガラス。潰れたボンネット。それら全てが、つい数十秒前まで一人の女へ殺到していた。
馬絹百馬身差。
強者だった。
最後まで冷静さを失わなかった。
最後まで勝利だけを見据えていた。
あの女が求めていたものは、優勝そのものだけではなかったのかもしれない。
昨年、自身を下した銃霆音雷霧。
その男に認められたい。
その渇望が、馬絹百馬身差という怪物を支えていた。
愛、と呼ぶには不器用で。
執着、と呼ぶには真っ直ぐ過ぎる。
だが少なくとも、あれは嘘ではなかった。
俺は煙草をコンクリートの床へ押し付ける。火が潰れ、赤い点が消えた。
重い腰を上げる。
「いって……」
立ち上がるだけで、全身に痛みが走った。
頭からは血が垂れている。肋骨は何本折れたかわからない。内臓のどこが潰れているのかも、もう判別出来ない。視界は霞み、膝は笑っている。〈犠牲ノ心臓〉が発動していないことが不思議なくらいだった。
恐らく、意識を手放せば、そのまま敗退判定へ転がり落ちる。そういうギリギリの状態だった。
「――せつな!」
背後から声がした。
振り返る。
黄緑色の外ハネウルフカット。その上に載った白いスポーツキャップ。短い丈の白いキャミソールに、赤いショートパンツ。
年末の大会とは思えない露出度の格好をした女が、腕と一体化した赤い翼を羽ばたかせながら、こちらへ飛んでくる。
「庭鳥島……」
庭鳥島萌。昨年の〈極皇杯〉ファイナリスト。
俺とは対照的に、宙を舞うその身体には目立った傷一つない。白い肌も、黄緑の髪も、赤い翼も、血と粉塵に塗れたこの地下駐車場の中で、場違いなほど鮮やかだった。
「ボロボロたい!」
庭鳥島は勢い良く俺の前へ降りてくる。そして、半ば強制的に俺を抱き寄せた。
柔らかな胸元へ頭を押し込まれる。抗議する気力も、抵抗する体力も残っていなかった。
「まぎぬはどうしたと!?」
「むぐ……庭鳥島……くるし……」
――この様子からは想像し難いが、庭鳥島もまた歴とした本戦進出経験者だ。
世間的には、馬絹百馬身差と同格。〈十傑〉に次ぐ強者の一人として扱われている。
無邪気で、騒がしくて、どこか抜けている。だが、その実力だけは本物だ。
「馬絹は倒した……筈だ」
何とか庭鳥島の胸元から顔を出し、言葉を絞る。
俺の視線を追うように、庭鳥島もガラクタの山へ目を向けた。
「あれは……車ね?なしてあぎゃんこつになっとっと?」
「色々あったんだよ……」
庭鳥島の腕の力が少し緩む。
俺はその隙に身体を離し、車だったものの残骸へ歩み寄った。足取りは覚束ない。一歩ごとに、身体の内側がずきりと疼く。
「せつな……やっぱ、あんた強かよ」
庭鳥島が、ぽつりと言った。
「まぎぬを倒せる人間なんて、〈十傑〉以外におらんて思うとった」
昨年の〈極皇杯〉本戦トーナメント。一回戦第一試合。
二年連続でファイナリストとなった馬絹百馬身差を、銃霆音雷霧は十秒足らずで倒している。今、俺が満身創痍になりながら、あらゆる手を使って、何とか追い詰めた馬絹百馬身差を。
その事実を思うと、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「馬絹は本当に強かった」
俺はガラクタの山の前で足を止めた。
「〈極皇杯〉のファイナリストは……こんな奴を何人も相手にして、勝ち上がった奴だけが得られる称号なんだな」
伸ばした手が、潰れた車体へ触れかけた。
その瞬間。
ガラクタの山が、微かに動いた。
「――雪村の」
金属片が内側から押し退けられる。潰れたドアが滑り落ち、歪んだボンネットが横へ摺れた。
中から現れたのは、傷だらけの長身の女だった。
褐色の肌。凛とした目元。胸を押し潰すように巻かれたサラシ。オーバーサイズの紺色の下衣。
馬絹百馬身差。その人だった。
「まぎぬ!まだ〈犠牲ノ心臓〉が発動しとらんかったとね!?」
「馬絹……!」
反射的に身構える。
〈犠牲ノ心臓〉の役割は、命の肩代わりだ。
死に至る攻撃を受けた瞬間、それが発動し、〈翔翼ノ女神像〉によって〈天上天下闘技場〉へ強制送還される。
逆に言えば。
馬絹は、あの車両群に押し潰されても、まだ死に至っていなかった。
敗退していない。
どれだけタフなんだ、コイツは。
いや、タフという言葉では足りない。
あれだけの攻防を経て尚、〈犠牲ノ心臓〉が発動しない。
馬絹百馬身差という女の耐久力は、人間という枠をどこかで踏み越えている。
「そう警戒するな。雪村の、庭鳥島の」
馬絹は、血に濡れた口元を僅かに動かした。
「吾輩に、もう戦う力はない」
相変わらずのポーカーフェイスだった。その表情から感情の機微を読み取るのは難しい。
だが、言葉に嘘はなかった。立っているだけで限界なのだろう。肩は僅かに上下し、脚は震え、全身の傷口から血が流れ続けている。
それでも、馬絹は背筋を伸ばしていた。
「凄いな、お前は……」
俺は警戒を解き切らないまま、それでも本音を口にした。
「吾輩を打ち破っておいて、吾輩を賞賛するか」
馬絹が小さく目を細める。
「見上げた男よ。雪村の」
「ばってん、せつな」
庭鳥島が警戒を残したまま、俺と馬絹を交互に見た。
「まぎぬ、どぎゃんすっと?」
「吾輩は、雪村のの本戦進出に助力しよう」
余りにも当然のことのように、馬絹は言った。
「馬絹……気持ちは嬉しいけど……お前もボロボロだろ」
「汝の足代わりにはなれよう」
そう言うと、馬絹の身体が再び変化した。紺色の下衣が消え、下半身が焦げ茶色の馬体へ変貌していく。立派な毛並み。逞しい四本の脚。地下駐車場の薄暗い照明を受け、傷だらけの馬体が堂々と姿を現した。
しかし、その威容とは裏腹に、脚は痛々しく傷付いている。先ほど折れた骨も、完全に癒えているわけではない。
それでも馬絹は立った。俺を運ぶために。
「走れるのか?それで」
「先刻の戦闘と比べれば、幾分か楽であろう」
無茶苦茶だ。だが、馬絹なら本当に走るのだろう。
俺は馬絹を見上げ、脳内で掟を定めた。
『掟:赤いニット帽の着用を禁ず。
破れば、全快する。』
赤いニット帽を冠ったままの俺は、掟を破る。
罰が下る。
潰れた内臓が繋がり、折れた骨が元に戻り、裂けた皮膚が塞がった。頭痛が引き、濁っていた視界が晴れていく。
血の汚れだけは残った。だが、肉体そのものは万全に近い状態へ戻っていく。
「……雪村の。汝の異能は、不思議なものであるな」
「ようわからんユニークスキルばい」
天音の〈聖癒〉には遠く及ばない。それでも、全快程度なら〈天衡〉でも可能だ。
連戦連勝が必須となる〈極皇杯〉予選において、回復出来るというだけで、俺はかなり有利な位置にいる。そのことを、今さらながら実感する。
俺は続けて、馬絹を対象に掟を定めた。
『掟:深呼吸を禁ず。
破れば、全快する。』
「馬絹、深呼吸しろ」
「む、何だ?」
「傷を治してやる」
馬絹は目を丸くした。ほんの数秒。そして、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに息を吐いた。
「……ふっ、やめておこう。雪村の。吾輩は、今の戦いの傷をこの身に刻んでおきたいのでな」
「変な奴……」
「強者に敗れた証である。誇ることはあれ、恥じることではない」
馬絹は静かに言った。
成程。この女にとって、傷は敗北の記録ではない。次に勝つための印なのだ。
そうと決まれば、いつまでも地下駐車場にいる理由はない。毒ガスがここまで届いていない以上、地下駐車場もまだ安全地帯内と考えていい。だが、安全だからと居座っていても、その先に勝利はない。
「移動するぞ」
「予選開始から、一時間二十五分三十二秒」
馬絹が即座に言った。
「既に弱者は残っておらぬであろうな」
「まぎぬ!あんた、時間数えとったとね!?」
「庭鳥島の。当然であろう。汝もファイナリストであるならば、ファイナリストとしての自覚を持って――」
「――わー!やかましか!」
低レベルな口喧嘩が始まった。
俺は内心で呆れながら、地下駐車場の出口へ向かって歩き出す。
地上へ続くスロープ。壁に設置された黄色と黒の注意表示。遮断機に取り付けられた遮断桿。
その横を抜け、外へ出た。
夕焼けだった。気付けば、周囲はオレンジ色に染まっている。南国の空を低く傾いた太陽が照らし、〈竜宮楼〉のガラス張りの外壁を赤金色に輝かせていた。
背後を振り返る。地下駐車場の入口。遮断機。高さ制限の表示。その真下に、馬絹と庭鳥島が並んでいる。
焦げ茶色の馬体と、赤い翼。夕陽が二人の姿を美しく染め上げていた。
更に視線を上げる。
眼前には、五十階建ての本館が聳え立っている。その上層部は、既に黒い毒霧に包まれていた。
ホテル正面の車寄せ。大きな噴水。美しく整えられたエントランス前の広場。至るところに血痕が残っている。ここもまた、少し前まで戦場だったのだろう。
「庭鳥島、馬絹、ここは上階から狙われ放題だ。取り敢えず屋内に――」
「――雪村の、乗るが良い」
馬絹が高らかに前脚を上げた。パカラッ、パカラッ、と軽快な蹄の音を響かせながら、こちらへ近付いてくる。
俺はその背へ飛び乗った。先程まで命を削り合っていた相手の背に乗っている。その事実が、少しだけおかしかった。
馬絹は本館エントランスへ向かって駆け出す。
背後では、赤い翼を広げた庭鳥島が頬を膨らませていた。
「……あたしも乗せてくれればよかとにー」
「庭鳥島の……汝は飛べるであろう……」
本館一階、エントランス。
自動ドアを抜けると、豪華絢爛な空間が広がっていた。一面の白い大理石の床。至るところに置かれた観葉植物。中央に設置された受付カウンター。外周には、ブティックやカフェ。手前側には、幾つものテーブルと、それを囲むソファが配置されている。
だが、優雅なロビーは完全に戦場の顔をしていた。白い床には血痕が残り、柱には弾痕があり、ソファの一部は焼け焦げている。そして何より、床の中央には大きな穴が開いていた。
「なんだ、この穴」
「いやさっきせつなが開けた穴ばい……」
――そういやそんなことしたな……。
馬絹の背から降り、穴を覗き込む。
地下駐車場まで続く、滅茶苦茶な縦穴。改めて見ると、我ながらとんでもない破壊をしたものだ。
「雪村の、あれは効いたぞ」
「『効いた』程度で済んでるのがおかしいんだよなぁ……」
「いや、二人ともおかしかばい……」
庭鳥島の正論を聞き流しながら、周囲を確認する。
人の気配はない。ただ、ロビーの至るところに血の痕跡がある。つい先程まで誰かが戦い、誰かが敗退した証拠だ。
自動ドアの両端は、一面ガラス張りになっている。その向こうから上空を見上げると、黒い霧状の毒ガスがホテル七階より上を完全に覆っていた。
「上階は全滅か……」
安全地帯は、既にかなり低い位置まで縮小している。
「となると、このエントランスにも人がいても良さそうなモンだけどな」
「吾輩が三万人ほど屠ったが……もう多くは残っておらぬのであろうな」
「あっ、さっき二人が戦うとるときに準決勝進出者十人ば含めて百人くらい殺っといたばい!」
――改めてなんだこのパーティ……。
ファイナリストを倒した俺。三万人を屠った馬絹。俺と馬絹が死闘を繰り広げている間に、準決勝進出者十人を含む百人を片付けていた庭鳥島。この三人だけで、最早、小規模な軍隊より遥かに厄介だ。
「いつの間にか終盤だな」
「吾輩は〈竜宮楼〉中を駆け回っておったのでな」
馬絹が静かに言う。
「推測するに、現在は準々決勝――残るは十数人といったところであろう」
「そんなに進んでるのか……」
「例年で言えば、こん段階からは膠着状態ばい!」
庭鳥島が頷く。
残るのは、強者だけ。強者同士は、互いに迂闊に手を出さない。一戦ごとの消耗が命取りになるからだ。
安全地帯が更に縮小し、逃げ場が完全に消えるまで、互いに様子を見る。それが終盤の定石なのだろう。
だが、油断は出来ない。ここまで残っている者は、最低でも準決勝進出者級。下手をすれば、馬絹と同格の本戦進出経験者もいる。
「とは言え、油断は禁物だぞ」
「わかっておる」
馬絹が静かに頷く。
「いざとなれば、吾輩が汝の盾となろう」
馬絹百馬身差は、事実上この予選での勝利を諦めた。
〈犠牲ノ心臓〉が発動していないだけで、勝負としては俺に敗れている。その馬絹が今年は俺に味方すると言う。
心強い。心強過ぎて、若干怖いくらいだ。
「他ん出場者は一人なんにあたしらだけ三人って、これもう勝ったようなもんじゃなか?」
「考えが甘いであろう、庭鳥島の」
馬絹が即座に斬り捨てた。
「だから本戦で冴積四次元に一撃で倒されるのだ」
「あー!まぎぬ!まぎぬも、じゅーていおんに一撃でやられとったとに!」
「それは単に吾輩の実力不足であろう。汝の考えの甘さとは話が違かろう」
「やかましか!馬!馬!」
「その罵倒は些か知性に欠けるの」
「むきーっ!」
冷静沈着な馬絹。天真爛漫な庭鳥島。性格はまるで違う。だが、何故か噛み合っている。
受付カウンターへ凭れ掛かりながら、俺は二人の馬鹿馬鹿しい口喧嘩を眺めた。
自然と口角が緩む。死闘の後だからこそ、そのくだらなさが妙に心地良かった。
予選開始から、一時間二十九分十七秒。
決着の刻は近い。残る敵は、全員が怪物。この先、一つの判断ミスが、そのまま敗退に繋がる。
緩みかけた意識を、もう一度締め直した。
――その瞬間。
庭鳥島が、信じられないことを口走った。
「――せつな!」
「なんだ」
「お風呂に入るばい!」
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