2-15 本館B1F:地下駐車場
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――第十回〈極皇杯〉。予選開始より、一時間十二分。五ツ星ホテル・〈竜宮楼〉、本館地下一階、地下駐車場。
一面コンクリートで覆われた無機質な空間で、〈神威結社〉・クランマスター――雪村雪渚と、第九回〈極皇杯〉ファイナリスト――馬絹百馬身差は相対していた。
天井には、屋上から地下まで貫通した大穴が空いている。
……剥き出しになった鉄筋。破裂した配管。降り積もった瓦礫。粉塵の匂いと、焼けたコンクリートの焦げ臭さが、薄暗い地下駐車場の空気を濁らせていた。
俺の足下には、罅割れた床。周囲には、貸切の筈のホテルに不自然なほど多く残された車両。そして眼前には――まだ立っている馬絹百馬身差。二十トンの鉄塊と化した俺に真上から押し潰され、四十七階から地下まで何十もの床を貫通しながら叩き落とされたというのに。
馬絹は四本の脚で、立っていた。その巨躯は僅かに蹌踉めいている。
褐色の肌には裂傷が走り、焦げ茶色の馬体からも血が流れている。白いファーショールは半ば千切れ、サラシにも赤黒い染みが広がっていた。
それでも、凛とした表情だけは崩れていない。馬絹の両眼は、真っ直ぐ俺を見据えていた。
「おいおい……二十トンだぞ……」
半分は驚き。もう半分は呆れだった。自分でも馬鹿げた火力だとわかっている。
普通の出場者なら、〈犠牲ノ心臓〉が発動するどころか、発動までの過程すら認識出来ずに潰れている筈だ。
「ふむ……確かに痛むな……」
馬絹は己の腹部へ視線を落とし、淡々と告げた。
――だがなんだこれは。こんな人間が、存在していいのか?
「臓器が潰れたようである」
「馬絹百馬身差……マジか……」
「前言を撤回しようぞ、雪村の」
馬絹が一歩、前へ出る。
蹄がコンクリートを叩き、乾いた音が地下へ反響した。
「汝は強者であるな」
「おー、認めてくれるのは嬉しいけどさ」
俺は痛む身体を庇いながら、肩を竦める。
「早く倒れてくれよ……」
瞬間。
馬絹の巨体が、くるりと回転した。
後ろ脚による回し蹴り。
反応するより先に、俺の身体は横から弾き飛ばされた。
「――っ!」
背中から駐車車両のフロントガラスへ突っ込む。
強化ガラスが蜘蛛の巣状に割れ、破片が背中へ突き刺さった。
痛みを自覚する暇もない。
眼前へ迫った馬絹が、前脚を高く掲げていた。
「――意趣返しである」
「ガキかよ……!」
馬絹の蹄が落ちる。
全体重を乗せた踏み付け。
直撃すれば、車体ごと俺の身体は潰れる。
俺は寸前で身体を捻り、フロントガラスの上から転がり落ちた。
直後、馬絹の一撃が車両を踏み抜く。
車体が上下に圧縮され、タイヤが弾け、衝撃で車両そのものが跳ね上がった。
潰れた車はコンクリートの天井へ激突し、鉄屑とガラス片を撒き散らしながら大破する。
「あっぶ……!」
床を転がった俺は、即座に体勢を立て直す。
馬絹は白線の上へ血反吐を吐き捨てた。
だが、目は離さない。
血を吐いても、臓器が潰れていても、四本の脚が震えていても、その視線に曇りはない。
俺も馬絹を見据えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
少し離れた場所では、庭鳥島が赤い翼で宙を舞っていた。
地下駐車場に逃げ込んでいた重装備の出場者達へ、羽根型の刃を次々に飛ばしている。金属製の盾も、分厚い防護服も、庭鳥島の羽根は容赦なく貫通した。
倒れた若者達が、次々に光となって消えていく。
〈犠牲ノ心臓〉の発動。
敗退。
この地下駐車場に残る雑兵は、庭鳥島が処理してくれている。
つまり、俺は馬絹だけを見ていればいい。
「馬鹿みてーな脚力しやがって……」
「近接格闘は不得手か?雪村の」
「馬と戦ったことねーから知らねーよ……」
「何れにしろ――」
馬絹の姿が揺らぐ。
次の瞬間、懐へ入られていた。
「汝にとっては難敵であろ?」
「……が……ッ!」
再びの回し蹴り。
今度は脇腹へ入った。
骨が折れる音が、身体の内側で響いた。
衝撃が内臓を揺さぶり、俺の身体はコンクリート柱へ叩き付けられる。
後頭部が硬い柱へ激突した。
視界が白く弾ける。
頭から血が流れ、潰された内臓と折れた肋骨の痛みが、全身を駆け巡った。
「はぁ……はぁ……」
速い。
重い。
そして、近過ぎる。
遠距離なら〈エフェメラリズム〉で牽制できる。
中距離なら、掟を組み立てる時間もある。
だが馬絹は、そのどちらも与えてくれない。
コンクリート柱へ背を預け、辛うじて立っている俺へ、馬絹は追撃の猶予を与えなかった。
高く上げた前脚。
踏み付け。
「……があ゛ッ……!」
全体重を乗せた一撃が、俺の身体を床へ押し潰す。
柱と床の間で、身体が軋んだ。
骨が、悲鳴のような音を立てる。
――竜ヶ崎龍帝を倒したことで、どこかで英雄級ユニークスキルを軽視していたかもしれない。
一千万人に一人しか存在しないとされる英雄級ユニークスキル。格が違う。
馬絹は、ただ速いだけではない。
ただ脚力があるだけでもない。
この速度と質量を、精密な格闘技として扱っている。
こんな化物に、どう勝つ。
「無敵状態」になれば耐えられる。
だが攻め込めない。
「千倍反射」は、馬絹の速度と衝撃の千倍を正確にイメージ出来ないせいで機能しない。
「鉄塊化」の自由落下で臓器を潰しても、このパフォーマンスを維持している。
ならば――。
全身が悲鳴を上げる中、俺は何とか視線だけを馬絹へ向けた。
『掟:己の体重を他者に預けることを禁ず。
破れば、全ての足を骨折する。』
掟が定まった。
直後。
バキッ、と痛々しい音が地下駐車場に響いた。
馬絹の四本脚が、通常ではあり得ない方向へ折れ曲がる。
「……ぬ」
巨体が傾いだ。
身体の重みに耐えきれず、馬絹が床へ崩れる。
「はぁ……!はぁ……!」
馬絹の重量から解放された俺は、蹌踉めきながら立ち上がった。
頭も痛い。
腹も痛い。
脇腹も熱い。
だが、痛む場所を押さえる余裕すらなかった。
頭から垂れた血が、コンクリートへぽたりと落ちる。
「やっと見下ろせたよ……馬絹」
眼前で姿勢を崩した馬絹。
その瞳には、未だ自信と誇りが滲んでいる。
油断などしていなかった。
罠に掛かったというより、罠を踏み潰してでも進もうとしている目だ。
馬体の毛並みには汗が浮かび、湯気のような水蒸気が立ち上っている。
俺はポケットから〈エフェメラリズム〉を取り出した。
Y字型の棹を握る。
弾丸は、『通常弾』。
狙いは馬絹の頭部。
距離は、ほぼ零。
照準。
引き絞る。
放つ。
この一連の動作に掛かった時間は、〇・〇一秒にも満たない。
だが、ゴム紐から指を離した瞬間、俺は気付いた。
――いない。
「――それじゃ遅かろう」
背後から声がした。
次の瞬間、首に何かが引っ掛かる。
馬絹の脚だった。
骨折した筈の脚を使い、俺の首を捕らえ、そのまま身体ごと床へ叩き付ける。
「がッ!」
肺から空気が抜けた。
馬絹の巨体が、俺の上へ覆い被さる。
褐色の肌。熱を帯びた馬体。汗と血と粉塵の匂い。
俺の身体を圧し潰すように、馬絹は全身を預けてきた。
「馬……絹……!」
全身に再び激痛が走る。
逃れようとしても、四肢に力が入らない。
馬絹は白いサラシで押し潰した豊かな胸を俺の背へ押し付け、耳元へ顔を寄せた。
「……雪村の」
囁く声は、先程までの凛とした声音とは少し違っていた。
弱さ。焦り。それでも消えない誇り。
その三つが、奇妙に混ざっている。
「吾輩を勝たせてくれると言うのならば、吾輩の身体を好きにさせてやろう」
「お……前……」
「汝にとっても悪い話ではなかろう?」
会話するのが精一杯だった。
俯せに押さえ込まれた状態では、馬絹の姿を視界へ捉えられない。
〈天衡〉を使うにも、対象を正確に見る必要がある。
今の俺には、それすら困難だった。
全身がミシミシと音を立てている。
競走馬の体重は、一般的に四百キロから五百キロ。
その重量に、人間の上半身と筋力が乗っている。
肋骨は疾うに折れていた。
肺が圧迫され、呼吸が浅くなる。
「安心するが良い、雪村の。生中継には乗らぬよう話しておる」
「ぐっ……」
馬絹の身体も、既に限界に近い。
「鉄塊化」した俺を受け、地下まで叩き落とされ、更に四本脚を折られている。
この交渉は、余裕から出たものではない。
馬絹にとっても、苦肉の策なのだ。
「それとも吾輩が約束を反故にすることを危惧しておるのかの?」
褐色の腕が伸びる。
馬絹は、力なく垂れ下がった俺の手首を掴んだ。
そのまま俺の手を、自身の胸元へ押し当てる。
「雪村の……頼む」
彼女の声が、初めて震えた。
「吾輩は優勝せねばならぬのだ」
「……そうまでして……勝ちたいかよ」
返事の代わりに、馬絹は俺の後ろ髪を掴んだ。
そのまま俺の顔をコンクリートの床へ叩き付ける。
「――うが……ッ!」
鼻が折れた。
口の中が血で満たされる。
「嗚呼」
馬絹の声は、今度こそはっきりしていた。
「勝ちたいに決まっておろう」
勝ちたい。
その一言だけが、この女をここまで立たせている。
「雪村の。吾輩では、汝の〈犠牲ノ心臓〉が発動するまで汝を攻撃し続ける体力は、もう残っておらぬ」
「はぁ……はぁ……」
「だが……汝も同じであろう。吾輩を圧倒するほどの余力はないと見た」
図星だった。
俺も限界に近い。
「全快」を使えば治せる。
だが、そのためにはまた掟を定める必要がある。馬絹を視界に収められない今、その一手を組み立てる隙すらない。
馬絹は再び耳元で囁いた。
吐息が耳を擽る。
「雪村の。吾輩は誰にでも股を開こうというわけではない」
生々しい言葉だった。
だが、その奥にあったのは色欲ではない。
強者への敬意。敗北への恐怖。勝利への執着。
それらが歪に絡み合った、馬絹百馬身差という女の本音だった。
「抱かれても構わないと思えたのは……昨年の本戦で吾輩を打ち破った銃霆音のと、汝のみぞ」
銃霆音雷霧。昨年の本戦で、馬絹を下した男。雷を操る〈十傑〉・第八席。
「そうか……」
俺は血の混じった息を吐いた。
「馬絹は……去年の本戦の初戦で……雷霧に負けたんだったな……」
「吾輩は……銃霆音のに認められたいのだ」
その言葉は、嘘ではなかった。声色だけでわかる。
誇り高いこの女が、命を懸けた勝負の最中に零してしまうほど、深く、強く、胸の奥に抱えていた本心。
馬絹自身が、それを恋だと理解しているかどうかはわからない。だが、認められたいという願いは、間違いなく本物だった。
「汝を認めた上での交渉である。受けてくれるな?」
地下駐車場の奥で、悲鳴が上がった。庭鳥島がまた一人、誰かを敗退させたのだろう。
俺は、馬絹に言葉を返した。
「……わかっ……た」
馬絹の身体から、僅かに力が抜ける。
「わかってくれたか、雪村の」
顔は見えない。それでも、彼女の表情が少しだけ綻んだのを感じた。
俺の身体に伸し掛かっていた馬絹が、折れた脚を引き摺りながら背中から降りる。
漸く肺に空気が入った。
血を吐きながら、俺もゆっくりと立ち上がる。視界が戻る。馬絹の姿が見える。
その瞬間、脳内で掟を定めた。
『掟:恋慕を禁ず。
破れば、ユニークスキルの使用を禁ず。』
馬絹は、俺の策に気付いていない。折れた脚を引き摺り、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。黒髪のポニーテールが、僅かに揺れた。
「誓いの口付けでもするかの、雪村の」
「ああ……」
――ごめんな、天音。
――陽奈乃。
馬絹は目を閉じた。凛とした表情を保っていた筈の女が、この時ばかりは少しだけ緊張した顔をしていた。
俺は顔を近付ける。唇を重ねた。
瞬間。
馬絹の身体が震えた。
ケンタウロス化が、解ける。
否。
〈天衡〉の罰によって、解かされた。
馬の下半身が消え、人間の二本脚が現れる。
上半身は変わらない。
褐色の肌。サラシで押し潰した胸。白いファーショールとファーカフス。
だが下半身は、袴のようなオーバーサイズの紺色の下衣に包まれていた。足元には下駄。全体的に、どこか和風の装いだ。
脚から流れる血が、紺色の布へ痛々しく滲んでいる。
「なっ……!雪村の……謀った……のか」
馬絹の瞳に、初めて明確な動揺が走る。
「馬絹」
俺は一歩下がり、折れた鼻から流れる血を拭った。
「これでお前は、英雄級ユニークスキル・〈覇駆〉を使えなくなった」
「ユニークスキルが……使えない……?」
馬絹は呆然と両手を見下ろした。
拳を握る。
開く。
再び握る。
グー、パー、グー。
それを何度も繰り返す。
そして、自分の下半身へ視線を落とした。
そこに、先程までの馬体はない。
〈覇駆〉が発動しない。
俺の言葉がブラフではないと悟ったのだろう。
「左様な真似ができるのであらば、最初からそうすれば済んだであろう」
自分で言いながら、口元が歪む。
「そう思うか?」
実際、そうかもしれない。
だが俺は、お互いのユニークスキルを本気でぶつけ合ったうえで勝ちたかった。
強者と戦い、強者として勝ちたかった。
その拘りを捨ててでも、〈覇駆〉を封じなければならない。
そう判断させた時点で、馬絹百馬身差という女は紛れもなく強者だった。
そして。
この女は心のない戦闘機械ではない。
銃霆音雷霧に認められたい。
その願いは、おそらく恋に近い。
本人に自覚がなくとも、感情は確かにある。
だから、掟に恋慕を絡めた。
勝つために。
この女の強さと弱さ、その両方を利用した。
「吾輩は……」
馬絹はゆっくりと顔を上げる。
その動揺は、一瞬で消えた。
代わりに戻ってきたのは、闘士の目だった。
「異能が使えなくなった程度で敗けるような、ヤワな鍛え方はしておらぬぞ」
「わかってるよ」
俺は〈エフェメラリズム〉を握り直す。
「そんな奴は、本戦に進めないってことも」
「汝には無礼な真似をした」
馬絹が、深く息を吐く。
「……すまぬ。心から詫びよう」
「別にいいよ」
いや、良くはない。
頭は割れ、鼻は折れ、内臓は潰され、全身血塗れだ。
だが満身創痍なのは、お互い様だった。
「みんな〈極皇杯〉に人生懸けてんだもんな」
「恩に着るぞ、雪村の」
馬絹は静かに構える。
人間の二本脚。
折れ、血を流し、痛々しく震える脚。
それでも、重心は乱れていない。
「汝が気に入った。正々堂々決着をつけようぞ」
「ああ……」
『掟:攻撃を禁ず。
破れば、全身に磁力を帯びる。』
馬絹が跳んだ。
ユニークスキルを失って尚、速い。
二本の脚だけで高く跳躍し、鋭いハイキックを繰り出す。
俺はそれを、敢えて受けた。
脇腹へ脚が突き刺さる。
身体が弾き飛ばされ、遠方のコンクリート柱へ背中から激突した。
「ぐっ……!」
しかし、その瞬間。
罰が下った。
馬絹の全身が、強烈な磁力を帯びる。
地下駐車場が、唸った。
まず、近くにあった車両のドアが歪む。
次に、天井の配管が軋む。
車のボンネットが浮き上がり、ホイールが外れ、金属製の工具箱が床を滑り出した。
地下駐車場中の金属が、馬絹へ向かって引き寄せられていく。
馬絹は目を見開き、そして――全てを悟った。
「……ありがとう。蹴っ飛ばしてくれて」
俺はコンクリート柱に凭れ掛かりながら、血の混じった息で笑った。
無数の車両が、宙へ浮かび上がる。
一台。
二台。
三台。
駐車されていた車が、まるで見えない巨人に掴まれたかのように持ち上がった。
その全てが、地下駐車場の中央に立つ馬絹へ向かう。
金属片が舞う。
車体が軋む。
サイドミラー、ホイール、ボンネット、バンパー。
あらゆる金属が、馬絹という一点へ殺到する。
馬絹は逃げなかった。
逃げられなかったのではない。
もう理解していたのだろう。
勝負は決した、と。
「……完敗である」
その呟きは、地下駐車場の轟音に掻き消されかけた。
だが、俺の耳には届いた。
次の瞬間。
車と車が、馬絹を中心に激突した。
不協和音。
潰れる車体。
砕けるガラス。
裂ける金属。
高速道路を走る車両が、四方八方から一斉に衝突したような地獄の光景だった。
車両は次々に大破し、原形を失った金属の塊となって馬絹へ重なっていく。
俺はコンクリート柱に凭れ掛かったまま、暫く動けなかった。
全身が痛い。視界が揺れる。鼻血が止まらない。
それでも――勝った。
俺はコンクリート柱に凭れ掛かったまま、ポケットへ手を突っ込む。取り出したのは、煙草とオイルライターだった。
一本の煙草を口に咥え、震える指で火を灯す。若干の水気を含んだ煙草の味は不味く、とても吸えたものではなかった。
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