2-13 西館20F:客室フロア
断末魔が聴こえたのは、西の方角からだった。
それは悲鳴ではなかった。
喉を裂き、肺を潰し、理性の底を踏み抜いた者だけが発する、命の最終音。壁一枚向こうから届いたその声に、俺と庭鳥島の間を、張り詰めた緊張が走る。
「――なんね!?」
「――この階だ!」
考えるより先に、身体が動いていた。
非常階段の踊り場から、客室フロアへ繋がる扉へ手を伸ばす。冷えた金属製のドアノブを掴み、周囲の気配を探りながら、ゆっくりと捻った。
扉が開く。
本館二十階、客室フロア。
視界に入ったのは、長く伸びる回廊だった。
左右には客室の扉が等間隔に並び、床には高級ホテルらしい抽象柄のカーペットが敷かれている。照明は柔らかく、壁面には落ち着いた色調の絵画まで飾られていた。
だが、上品な内装は完全に死んでいた。
床が赤い。
回廊の奥へ向かって、何かを引き摺ったような血の跡が、幾筋も、幾筋も伸びている。
「なんだ……?この血痕……」
人の気配はない。悲鳴も、怒号も、足音もない。ただ、血だけがある。
アブストラクト・パターンのカーペットは、至るところで赤黒く濡れ、乾きかけた血が繊維へこびり付いていた。
血痕は一箇所に留まっていない。回廊をぐるりと一周するように続いている。床だけではなく、壁の低い位置にも、横へ擦れた血の跡がある。客室の扉の下部にも、赤い線が走っていた。
一人や二人が倒された痕跡ではない。もっと多い。何十人。何百人。或いは、それ以上。
ここで人間が、ただ殺されたのではない。何かに巻き込まれ、引き摺られ、擦り潰された。そんな死の跡だった。
予選Aブロックの会場――五ツ星ホテル〈竜宮楼〉。
俺達がいる五十階建ての本館を中心に、東西南北へそれぞれ三十階建ての別館が配置されている。東館。西館。南館。北館。そして本館の五の倍数階には、各別館へアクセスするための連絡通路が存在する。二十階も、その一つだ。
俺達は誰もいない回廊を進む。〈エフェメラリズム〉をいつでも構えられるようにしながら、足音を殺した。
進む程に、血の量が増えていく。
軈て、西館へ続くガラス張りの連絡通路へ出た。
開放感のある通路だった。本来ならば、海と空とホテル群を一望できる展望回廊だったのだろう。だが今、ガラスの床も、透明な壁も、ところどころ血で曇っている。
ここにも同じ血痕があった。何かを引き摺ったような跡。
いや、違う。
これは――引き摺られたのではない。
轢き殺されたのだ。
「――まさか……!」
背筋に冷たいものが走った。
「――庭鳥島!背中に乗せてくれ!」
「せつな、歩くの疲れたと?」
「バカ!地に足着けてたら死ぬんだよ!早く!」
「わ、わかったばい!」
庭鳥島の両腕が、赤い翼へ変わる。素足は鋭い鉤爪を備えた猛禽類の脚へと変貌した。
俺は助走もなく、その背へ飛び乗る。
庭鳥島が翼を打つ。身体がふわりと持ち上がり、天井すれすれの高さまで上昇した。
床から離れた瞬間、漸く呼吸が少し戻る。
「せつな、何かわかったと?」
「おい庭鳥島……なんで去年のファイナリストのお前がわかってねーんだ……」
俺達は天井ぎりぎりを飛びながら、本館二十階の回廊を確認する。
北館へ続く連絡通路。――同じ。
東館へ続く連絡通路。――同じ。
南館へ続く連絡通路。――同じ。
どこも血痕が走っている。床を舐めるように、壁の低い位置を削るように、何かがこの階層全体を通過していた。
引き摺ったのではない。
轢き殺した。
しかも一度ではない。
何度も、何度も、回廊を周回しながら。
再び、西館へ続く連絡通路へ向かう。
庭鳥島の背に乗ったまま、俺は独り言のように呟いた。
「こんなことが出来る奴は……矢張り……」
「――アイツしかおらんばい」
庭鳥島も、漸く同じ結論に至ったらしい。
昨年の〈極皇杯〉ファイナリスト。世界十六位。取る異名は――「黄金郷の鬼神」。馬絹百馬身差。
英雄級ユニークスキル・〈覇駆〉。「下半身を馬の肢体へと変貌させるユニークスキル」。端的に言えば、「ケンタウロス化するユニークスキル」だ。
「馬絹百馬身差……!」
「……アイツ……何人殺ったとね……!?」
馬絹の本業は占星術師らしい。だが、その本質は戦士だ。
砂漠と鉱石の国・〈黄金郷エルドラド〉出身。広大な荒野を駆け、戦場そのものを蹂躙する戦闘民族。その中でも、馬絹は突出した存在として知られている。
「庭鳥島……!馬絹はヤバい……!潰すぞ……!このまま西館へ!」
「せつな!やばかなら行くべきじゃなか!言ってることおかしかばい!」
「慎重に行くとは言ったが、逃げ回って勝つなんて言ってねえよ……!」
「…………っ!」
庭鳥島が一瞬だけ息を詰める。だが、直ぐに覚悟を決めたようだった。赤い翼が大きく撓る。
次の瞬間、俺達は西館へ続く連絡通路を一気に突っ切った。
ガラス張りの通路を、風が叩く。割れた窓から入り込む空気が、血の匂いを運んでくる。
俺は振り落とされないように、庭鳥島のキャミソールの肩紐付近をがっしりと掴んだ。
「せつな!強く掴みすぎたい!胸が痛かばい!」
「落ちたら死ぬんだよ!我慢しろ!」
「むー!」
西館二十階・客室フロア。
庭鳥島が速度を落とし、俺達は天井付近で停止した。
予想通りだった。ここも同じ。高級感のある回廊。左右に並ぶ客室。そして、床一面に走る赤黒い轍。何かが何人もの人間を轢き潰しながら、通路を駆け抜けた痕跡。
「せつな、馬絹と戦うにしても……これじゃどこにおるかわからんばい!」
「恐らく、馬絹は〈竜宮楼〉全体を超高速で周回してる」
「全体?」
「本館、東館、西館、南館、北館。その客室フロアの回廊と連絡通路を、全部だ。俺達は非常階段にいたから偶々助かった」
馬絹の策は、単純で、豪快で、狂っていた。
五つの高層棟。それらを繋ぐ連絡通路。本館から繋がる幾つもの回廊群。そこを、英雄級ユニークスキル・〈覇駆〉による超速度・超暴力で走り続ける。
徒歩移動を強いられる大半の出場者にとって、客室フロアの廊下は通らざるを得ない動線だ。そしてそこへ一歩でも足を踏み入れれば――馬絹に轢き殺される。
人間が、時速百二十キロで車が行き交う高速道路へ、目隠しをして飛び出すようなものだ。
この二十階は、最早、廊下ではない。
馬絹百馬身差が作り上げた、人間屠殺場だった。
「それならなおさら、馬絹がおる場所が特定できんばい!」
「いや、逆だ」
「逆?」
「周回しているなら、確実にここを通る」
いつ来るかわからない。
だが、必ず来る。
その違いは大きい。
「……よし。庭鳥島、ここで下ろしてくれ」
「せつな!危なかばい!」
馬絹の速度は、常人が肉眼で追える次元ではない。姿を確認してから回避するのは不可能。動きを止めるなら、体を張るしかない。
「馬絹を止めなきゃ、同じ舞台にも上がれねえ」
「でも――」
「大丈夫だ。負けるつもりもない」
「……わかったばい」
庭鳥島は渋々と高度を落とした。
俺は西館二十階の回廊、その曲がり角へ飛び降りる。靴底が血で濡れたカーペットを踏んだ。滑りそうになる足を踏ん張り、姿勢を整える。
頭上では庭鳥島が翼を広げたままホバリングしていた。
「庭鳥島は周囲を警戒してくれ」
「せつな!別にあたしが援護して、一対二で戦っても誰も責めんばい!」
「力を借りることを恥だとは思わない」
それは本心だった。忌住と冴積の戦いでも、庭鳥島に救われたばかりだ。共闘を否定するつもりなどない。
「だが、今回は〈神威結社〉の強さを証明することが目的だ。まずは一人で戦わせてくれ」
今、この戦いは世界中に観られている。
天音。陽奈乃。フラン。拓生。ハズレちゃん。竜歌。
俺の仲間だけではない。
〈神威結社〉を警戒する者。俺を値踏みする者。俺を潰すべき脅威と見る者。その全てが、画面の向こうにいる。
――一切気を抜くな。
一瞬の油断が敗退に直結する。
「でも……!」
「ファーストペンギンって言葉がある」
庭鳥島が眉を寄せる。
「集団行動をするペンギンの群れの中から、天敵が潜む海へ、餌を求めて最初に飛び込む一羽のことだ」
「ペンギン……?」
「転じて、意味は『勇敢な一番手』」
この回廊へ最初に降りる者。馬絹の走路へ踏み込み、その速度を止める者。そいつがいなければ、誰も馬絹と戦えない。
「馬絹を討てるのは――ファーストペンギンだけだ」
「…………っ!」
庭鳥島は何かを言い掛け、口を噤んだ。俺の意思を飲み込んでくれたらしい。
その時。
眼前に伸びる高級感のある廊下、その遥か先の曲がり角に、三人の男女が見えた。二十代前半くらいだろう。若い男が二人。女が一人。
三人は背中合わせになり、武器を構えながら周囲を警戒していた。耳を澄ますと、震える声が聞こえてくる。
「――馬絹を倒せば本戦進出は確実よ!」
「ああ!クラン・〈一揆軍〉!!この中の誰かがファイナリストになって故郷に恩返ししてやろうぜ!」
「大丈夫!俺達幼馴染の絆はこんなとこで途切れない!」
か細い鼓舞だった。
言葉は勇ましい。
だが、三人の身体は恐怖で震えている。
それでも逃げずに立っている。
負けられない理由があるのだろう。
故郷。
仲間。
約束。
そういうものを背負って、この〈極皇杯〉に来たのだろう。
次の瞬間。
三人が爆ぜた。
音が遅れて届く。
肉体が、視界の中で突然、赤い霧へ変わった。
まるで超高速で走る新幹線へ正面から突き飛ばされたかのように、骨も肉も区別が付かないほど粉砕される。
何かが三人を轢き殺したのだ。
弾け飛んだ血肉は、床や壁へ撒き散らされるより早く、淡い光へ変わって消滅した。
〈犠牲ノ心臓〉の発動。
敗退。
夢も、絆も、故郷への恩返しも。
全てが、一瞬で終わった。
「――せつな!馬絹が来るばい!」
「わかってる……!」
血の匂いが濃くなる。
まだ姿は見えない。
だが、風が変わった。
回廊の奥から、空気そのものを押し潰すような圧が迫ってくる。
――大丈夫だ。陽奈乃ほど速くはない。微かにだが……見える……!
俺は、薄く見えた影を対象に掟を定めた。
『掟:被弾を禁ず。
破れば、その攻撃を相対する者へと千倍の威力で反射する。』
これで止まる。
そう思った。
忌住には通じた。
あの巨体を内側から爆ぜさせた、千倍反射。
相手がどれほど速かろうが、どれほど重かろうが、俺に触れた瞬間、その威力が千倍となって返る。
――筈だった。
風を切る音が、回廊を満たす。
びゅうびゅうと、耳障りな音が近付く。
額を冷や汗が伝った。
次の瞬間。
衝突。
全身に、凄まじい衝撃が走った。
トラックに真正面から撥ねられたような、人体が受け止めることを想定していない力。
靴底がカーペットを削り、俺の身体は後方へ数メートル押し下げられた。
背中が壁へぶつかる。
息が詰まる。
だが、不思議と痛みはない。
〈天衡〉の効果は発動している。
被弾によって、俺自身は無傷で済んでいる。
だが――。
反射は起きていない。
恐る恐る目を開く。
眼前に、女がいた。
下半身が馬の肢体へ変貌した、長身の女。
焦げ茶色の毛並み。
力強く発達した四肢。
床を踏み締める蹄。
褐色の上半身には、白い毛皮のファーショール。大きな胸を押し潰すようにサラシを巻いているだけで、他に衣服らしいものはない。
両手首には白いファーカフス。
黒髪は高く結ばれたポニーテール。
凛とした目元に、揺らぎはなかった。
ギリシャ神話に登場する半人半獣――ケンタウロス。
そう呼ぶ以外にない姿だった。
「吾輩を止めるか、雪村の」
女は、俺を見下ろしている。
「そこそこやりおるの……」
――罰は。千倍反射の罰は、どうなった。
俺の動揺を見透かしたように、女が目を細める。
「雪村の。何かしたかの?」
「――っ!化物かよ……!馬絹百馬身差……!」
忌住には通じた。
ならば馬絹にも通じる筈。
そう考えた時点で、俺はまた一つ勘違いをしていた。
〈天衡〉は万能ではない。
掟を定め、破った者へ罰を下す。
それは事実だ。
だが、罰は俺が「成立する」と認識出来る範囲でしか形を取らない。
俺が想像出来ない罰は、現実へ落とし込めない。
忌住の拳は見た。
何度も受けた。
反射した。
速度、重さ、衝撃、その輪郭を掴んだ。
だからこそ、千倍という倍率をぎりぎり具体的にイメージできた。
だが、馬絹は違う。
俺の目では追えない速度。
どれだけの質量が、どれだけの加速度で突っ込んできたのか、脳が捉えきれていない。
それを千倍にして返す。
その光景を、俺は正確に想像出来なかった。
だから罰は不発に終わった。
雷霧の雷もそうだ。
師匠――大和國綜征が木の枝一本で起こしたソニックウェーブもそうだった。
強過ぎる攻撃。
認識の外側にある攻撃。
俺の想像が追い付かない力は、〈天衡〉の「罰」さえすり抜ける。
反則じみた神話級ユニークスキルにも、限界はある。
「そうじゃ。吾輩が馬絹百馬身差である」
馬絹は淡々と名乗った。
焦げ茶色の馬体が、ゆっくりと床を踏み鳴らす。
蹄がカーペットを潰し、その下の床材を軋ませた。
「そうか。会いたかったよ……」
「ほう」
馬絹の表情は変わらない。
だが、僅かに興味を持ったようだった。
「さて、死ぬ前に遺す言葉はあるか?雪村の」
「お前の親は、同世代の他の子に大差をつけてゴール出来ますようにって願いを込めて名付けたのか?」
「名前如き記号に過ぎん。安い挑発は吾輩には通じんよ、雪村の」
――この程度じゃ乗らないか。
凛とした表情。
揺らがない呼吸。
こちらを見下ろす視線には、怒りも嘲りもない。
ただ、走路へ転がった障害物を眺めるような静かな圧だけがある。
雷霧とも違う。
忌住とも違う。
馬絹百馬身差は、強者であることを誇示しない。
自分が強いことなど、本人にとっては呼吸と同じくらい当然なのだ。
「始めようかの、雪村の」
馬絹が半歩下がる。
馬の下半身が、回廊の上で静かに身構えた。
あれが動き出せば、次は止められる保証がない。
「吾輩と汝の異能バトルを」
――コイツを倒さなければ、俺はファイナリストにはなれない。
上空で庭鳥島が息を呑む気配がした。
俺は赤いニット帽の位置を指先で直す。
濡れたカーペットを踏み締め、〈エフェメラリズム〉を握った。
千倍反射は通じない。
正面から受ければ殺される。
逃げても、いずれ追い詰められる。
だからどうした。
「闘ろうか、馬絹」
――勝つって、決めたんだ。
俺は笑った。
「屠殺場送りにしてやる」




