四
病院は思ったよりも近かった。越前さんの運転が上手で快適な車内だったからそう感じたのかもしれない。
あの後家の前に来たのは黒塗りのいかにもな高級車だった。なんでも越前さんの自家用車らしい。やっぱりお医者さんってお金持ちなんだな、という感想を抱いて五分ほどで病院に着いたのだった。もう少し乗っていたいくらいだった。
県立の総合病院とだけあって、葛総合病院はとても大きい。雲母坂さんによるとメジャーからマイナーまで、内科外科合わせて五十二もの診療科があるそうだ。
今回私が受ける検査は三つ。診察と脳波の確認、そしてカウンセリング。診察は脳神経外科のある五階で行うということで、エスカレーターに乗る。その間も雲母坂さんは私の横にいた。見覚えのない病院の廊下を歩く。時々すれ違う看護師たちが向けてくる視線がやけに不愉快だった。ズキンと頭が痛いむ。
「あの人たち、失礼よね。病院にギャルの一人や二人くらいいてもいいじゃない! 平成ギャルだからダメなの? 昔すぎるってこと? じゃあ今度は令和ギャルで来てやろうかしら」
雲母坂さんが鼻を鳴らして言う。どちらかというとそれは私に向けた視線だった気がしたが、そういうことにしておいた。世の中には知らなくていいこともある。
病院内は空調が整っている。クーラーの涼しい風が時折私の首を撫でた。また、頭が痛む。外と病院の温度差で疲れているのかもしれなかった。
診察室に入ると、パソコン前の丸椅子にはすでに越前さんが座っていた。そういえば車を止めに行った後、戻ってこなかったなと思う。
「病院内を歩いてみてどうだった? 疲れていないかい? 頭痛とかも大丈夫だといいんだけど」
「はい、疲れてはないです。……ただ、頭が痛くて。まあ、外との気温差に体が追い付いてないだけかもしれないです」
「病院に来たことで忘れてしまった記憶のいくつかが、戻ろうとしているのかもしれないな。僕は専門じゃないから、若林さんに伝えておくよ。カウンセリングのときに何かあるかもしれない」
その後はいたって普通の診察だった。心音を聞いて、口の中の確認をされて、鼻も見られる。特殊なことは頭の確認をされたことだ。それも物理的に。前髪を上げさせられる。時には縫合跡などを触られ抑えられ、痛みや違和感がないか聞かれた。
一取り終わった後、私は越前さんと雲母坂さんに挟まれるようにして再び病院の廊下を歩いている。脳波をとりに行くそうだ。無機質な光が私たちに降りかかる。空調の利きすぎているこの場所は、やはり寒かった。
脳波自体は三十分ほどで終わるらしい。体や頭に電極をつけて、暗い場所に入る。私はその空間で越前さん出す指示に従うだけだった。
「ゆっくり瞬きしてくれるかな」
「上の方で光がちかちかしてると思うんだけど、それを見てて」
「いいよっていうまで深呼吸をしていてね」
あっという間だった。気づいたら終わり、検査室を出る。どうやら越前さんとはここでお別れらしい。優秀なだけあって、診察が絶えないそうだ。雲母坂さんと二人で若林さんのいる神経心理科に向かう。
「……! 風花ちゃん! 頭痛は大丈夫?」
「はい、なんとか」
久しぶりの再会であった。小島さんはいない。おそらく彼も仕事に戻ったのだろう。脳神経外科とは違い、広くやわらかな印象のある診察室だった。オレンジ色の温かみのある電気がその一因を担っている。病院特有の丸椅子ではなく、柔らかな一人掛けのソファが二つ、ガラス張りの長机を真ん中に挟み置いてある。私は入ってきた扉側の、若林さんの反対側に腰かけた。
いつの間にかいなくなっていた雲母坂さんが暖かそうな飲み物、ココアだろうか、それが入ったマグカップをもってやってきた。
「熱いから気を付けてね」
そう言って机に置き、若林さんの斜め後ろに立つ。若林さんにはアイスティーの入ったグラスが置かれていた。私も同じものでよかったのに、と思う。寒そうにしていたから、暖かいものを持ってきてくれたのだろうか。だとしたら申し訳ない。気を使わせてしまった。
一口飲んだココアはやけに甘い気がした。
「じゃあ早速だけど、カウンセリングはじめようか。まあ、カウンセリングって言っても、どちらというと問診とか診断に近いものになるんだけどね」
「まずは、そうだね。手を動かしてほしい。自分の意思で手のひらを握ったり開いたり、できる?」
「できます。違和感もなにもないです」
「よかった。腕の曲げ伸ばしも問題なさそう?」
「はい」
「次に……座ったところ悪いんだけど一度立ってくれるかな。そのまま、屈伸してみて」
「はい。……あの、一体これは何をさせられているんですか?」
幼稚園児のお遊戯会のようなことをさせられている。私が動いているところは先ほどの家で見ていたはずなのに。手元のバインダーに何かを書き込んでいた若林さんが顔を上げた。
「ああ、風花ちゃんは脳の手術を受けたでしょう? 神経的な問題が起こっていないか確認するために、一応ね。頭痛もするって聞いたから、何かあったらいけないって思ったの」
なるほど。うなずいておいた。「ありがとう、もう座っていいよ」と声がかけられたのをいいことにソファに再び腰かけ、マグカップへと口をつける。
「ココアのおかわり、欲しかったら行ってね~」
雲母坂さんが気を使ってくれる。軽く頭を下げた。カウンセリングはまだまだ続く。
「今度は、起きた時のことをもうちょっと詳しく教えてほしいな。どんなことを思ったり、どういう行動をしたりっていうの、覚えてる?」
「起きたとき…… 最初は誘拐かなって思ったんですけど、何も思い出せないしこのままじゃどうにもならないって思って。だから部屋から出てみたんです」
「誘拐犯の人と会うかもって怖くはなかったの?」
「怖かったです。だからすぐ逃げれるように階段近い部屋を開けようとしたんだけど、鍵がかかってて。でも開けないって選択がなかった時点で、自分って好奇心が強い方なんだなって思いました」
説明をしていく。数時間前のことなのにもう懐かしく感じた。
そうしてすべて話し終わった後、若林さんはバインダーを雲母坂さんに渡した。私の目を見て微笑む。
「うん、話してくれてありがとう。頭痛はもう大丈夫?」
「はい、大分ましです」
「よかった。……あ、そうだ、何か疑問に思ったことってあったかな?私の分かる範囲で答えるよ」
「疑問か…… ああ、数学のノートを見つけたときのことなんですけど。私って自分に関する記憶はないのに常識とかの一般知識はあるんだなって不思議には思いました」
「あと、一人暮らしなら生活費とかはどうしてるんだろうって。」
私がそれを口にした途端、若林さんはわずかに顔をゆがめた。目を閉じ、何やら考え込んでいる。
まずいことを言ってしまった、という後悔に駆られた。苦々しい気持ちが湧き出る。
若林さんは最初の落ち着いた人、という印象とは反対に感情表現が豊かだ。というよりか、感情が顔に出やすい人だと思う。だからだろうか、話すのが意外と疲れる。この人がマイナスな表情をするたびに、私が責められている気持ちになるのだった。
若林さんが目をおもむろに開いた。アイスティーを一口飲む。
「うーん、そうだな…… まず簡単な方、家のことからいこうかな」
「お金については心配しなくても大丈夫。風花ちゃんの脳の病気って世界的にも結構珍しいもので、だからたくさんの寄付やら募金やらが集まってるの。それをもとに運用されてて、小島さんが管理してるから」
「なるほど」
つまり人のお金ということ。お金を払ってくれた人に申し訳ないと感じる。でもそれで一戸建ての住宅か。とんでもない募金額だなと他人事のように感心した。
そんな私の呑気な胸中を知らずか、若林さんは続ける。
「記憶については、難しいことなんだけど…… 記憶にはたくさん種類があってね、エピソード記憶っていうものがある。それは過去の出来事についての記憶のことなんだけど、今風花ちゃんはその中の自伝的記憶、自分に関する記憶だけを忘れてるって状態だね」
「逆に言うと、意味記憶っていう、さっき言ってたその一般知識とかの記憶は覚えてるの。例えば、字だって読めるし、病院がどういう場所かだってわかるでしょう?」
「そういうのを考えていった結果、風花ちゃんは逆行健忘症、もしくは解離性健忘かなって私は考えてる。まあ順当にいけば逆行性健忘かな」
なるほど。正直、逆行性健忘がどういうものかは分からないが、若林さんが言うならそうなのだろう。それにしても記憶は奥深い。そんなに種類があるものなんだな、私が忘れているだけかもしれないが。少し面白いと思った。
「その、自伝的記憶? っていうのは思い出せるんですか?自分に関わることなら、どうせなら思い出したいなーって」
「勿論思い出せるよ。……ただ、少し時間はかかるかもね。風花ちゃんは家でサンカヨウのにおいをかいだ時に何か思い出しそうってなった?」
「いいえ、微塵も。少ししおれてるなとしか思えませんでした。」
「そっか。人間って見覚えのある景色やにおいをきっかけに過去を思い出すことが多いの。だからサンカヨウで思い出せないならにおいをトリガーにするのは難しいかもね」
「……そうですか」
「でも、写真とか動画とか見たら思い出せることもあるかも。学校に行きだしたら、友達に見せてもらうとかもいいかもね。あと、そうだ、スマホ」
確かにスマホ、その機械については覚えている。自分がどんなものを持っていたのかは覚えていないが。起きた時のベッドサイドには見当たらなかった。
「この後家に戻るときに小島さんが返してくれると思うわ」
若林さんが続けて言う。スマホの中を見られたりしたのだろうか。それは少しいやだ。でも小島さんならしそうだというのも本音だった。何が錯乱のトリガーになるか分かりませんから、と言って眼鏡を押し上げている姿が簡単に想像できる。
「もう気になることはない?……じゃあこれでカウンセリングも終わりね。家に戻りましょうか。小島さんが車で迎えに来てくれてると思うわ。私と雲母坂さんは仕事があって家までは着いていけないから」
「わかりました。ありがとうございます」
小島さんと二人か、先が思いやられる。頭痛の次は胃痛かもしれない。そして私たちは診察室を出る。結局ココアのおかわりはしなかった。




