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私は後ずさりしようとしたが、足元は水の中だ。泳ぐこともできず、ただその場で体を硬直させることしかできない。
目を凝らして、その巨大な目玉の端の方、「顔」らしきものの全体像を捉えようと視界を動かした。
すると、その頭部らしき場所から下方へ向かって、ウネウネと大地そのものが波打つように動く「超巨大な触手」が、影のように幾本も伸びているのが見えた。
上の方を見上げれば、三角に尖った独特のフォルム。
私は前世の記憶から、その生物の正体を弾き出した。
イカ。いや、そんな次元ではない。ダイオウイカを微生物レベルにまでスケールダウンさせてしまうほどの、正真正銘の『超巨大なイカ』の怪物だった。
『——ドワーフの子らではないのだな』
突然、私の脳内に直接、重厚で性別を感じさせない、深い声が響いた。
この超巨大なイカが、私に話しかけてきているのだ。
『あんな貧相な入れ物で、よくここまで辿り着けたものだ』
貧相な入れ物。それはきっと、私たちが乗ってきた最新鋭の潜水艦のことだろう。西パンゲアの技術と財力を結集した結晶が、この怪物からすればブリキのおもちゃ程度の認識なのだ。
「あ、あなたは……誰なの?」
私は震える声をなんとか絞り出した。ルキアナの体であっても、これほどの規格外の存在を前にしては、本能的な恐怖で声が上ずってしまう。
『私は、ただのルルイエの門番だ』
「ルルイエ……?」
禍々しい響きの言葉だった。
『眼下に見える、あの都市の名だよ』
門番を名乗る超巨大イカは、黄金の目玉をゆっくりと動かし、海底に広がる純白の都市群を示した。
『我々リヴァイアサン種が治める国だ。そして、君たちが先ほど起動させた装置は、かつて我々が地上のドワーフ種と貿易を行うために使っていた、ただの転移装置』
「貿易用の……転移装置……」
私は信じられない思いで、その言葉を反芻した。
あれほどの威容を誇り、周囲の岩や海水を巻き込む凄まじいエネルギーを放っていたあの結晶のアーチが、彼らにとってはただの「搬入口」だと言うのだ。この世界のスケールの狂いっぷりには、もう笑うしかない。
『驚くのも無理はない。だが、時折こうして、忘れ去られた装置を偶然起動させ、ここまでやってくる者たちは後を絶たないのだ。君たちのように』
「そう……なのね」
私は深呼吸を一つして、少しだけ心を落ち着かせた。
相手が言葉を解し、理性的に対話ができる存在であるなら、むやみに恐れる必要はない。元ベテラン主婦にとっては、近所の気難しいお姑さんや、理不尽なクレームを言ってくるパート先の客の対応で、交渉術を鍛えられているのだ。
「でも、どうしてこうして私に話しかけてくれているのかしら? 私はただの人間よ。あなたから見れば、チリのような存在でしょうに」
『君があの入れ物(潜水艦)の中で、責任者だったからだ』
「そんなこと、外から見ていてわかるの?」
『わかるさ。我々は他者の記憶を読めるからな』
巨大なイカ——リヴァイアサンは、淡々と答えた。
『君が、元々この世界の魂だけではないこと。遠い『異界』から、別の魂として、いまの魂に結合された者であることも、私は全て知っている』
私はハッとして、思わず自分の胸元を押さえた。
前世の記憶。日本という国で、普通の主婦として生きてきた過去。そして夫と共に神隠しに遭い、このルキアナという女性の体に転生したという、誰にも言えない秘密。
それを、出会って数分のこの巨大生物に完全に見透かされていたのだ。
「……異界から来たと知って、驚かないのね」
『異界から来る者は、そう珍しいことではないのだ。遥か彼方から来る者、次元の狭間から落ちてくる者、その異界は様々だが』
黄金の目玉が、少しだけ面白そうに細められたような気がした。
『だが君のような……何とも言えず穏やかで、生活感に溢れた異界の記憶を持つ者を見たのは、久しぶりだよ。「スーパーのタイムセール」や「家族での温泉旅行」……実に興味深い。平和というものの極致だな。良い世界だったのだろう。少なくとも君の住んでいた国は、だが』
私のささやかな主婦の記憶を、まさか異世界の深海巨大イカに感心される日が来るとは、夢にも思わなかった。長生きしてみるものだとは、よく言ったものだ。顔から火が出るほど恥ずかしいが、今はそれどころではない。
「……それで、今はどうなっているの? 私の体は、潜水艦の皆は無事なの!?」
『今は、君の精神だけを抜き出して、こうして話しかけている』
リヴァイアサンは静かに告げた。
『あの入れ物(潜水艦)の時間は、現在完全に止めてある。だから君たちも無事だ。しかし、私が時を動かしてしまえば、君たちのあの入れ物は、この海底に耐えきれずに、跡形もなく消滅してしまうだろう』
背筋に冷たいものが走った。
私たちが乗ってきた潜水艦は、ティベリウス艦長たちの必死の操舵も虚しく、アーチの引力に捕まっていた。あれがここまで転移させ、ここが限界深度を超えた負荷であることは、素人の私にもわかる。時間が動き出せば、私たちは全員、文字通り海の藻屑となるのだ。
「お願い……助けてくれるかしら。私には、まだやらなければならないことがあるの。それに、一緒に来てくれた船員たちを、ここで死なせるわけにはいかないの」
私は両手を胸の当て、祈るように巨大な瞳を見つめた。
『助ける。君たちの記憶を見る限り、我々に対する敵対心や、侵略の意図はないようだからな』
リヴァイアサンは、あっさりと承諾してくれた。
ゆっくりと、海中をうねる巨大な触手の一本が持ち上がった。
『それに君は、行方不明になった夫に会いに行きたいのだろう? 彼の居場所なら分かる』
「本当!? 夫は……ヴァレリウスは生きているの!? あなた、彼に会ったことがあるの!?」
私は興奮のあまり、フワフワとした精神体であることも忘れ、リヴァイアサンの方へと身を乗り出した。
夫が生きている。その確証が得られるかもしれないのだ。
『直接会ったことはない。だが、この海のどこかにいる限り、何者であっても、水脈を通じてすぐにわかるのだ。君の夫は、生きている。そしてずっと浅い海域の、ある『列島』の近海で、船に乗っている』
「よかった……っ」
安堵のあまり、私の目からポロリと涙が零れ落ちた。精神体でも涙は出るらしい。
今世の夫であるヴァレリウス。そしておそらく、その中にいるかもしれない前世の夫。彼が無事であるという事実だけで、私は十分だった。
『君たちの入れ物では、これ以上の潜航は不可能だ。私が、君の夫がいる海域まで、あの入れ物ごと転移させてやろう』
リヴァイアサンが持ち上げた超巨大な触手の先端が、ゆっくりと円を描いた。
すると、海中に白く輝く、途方もなく巨大な『光のリング』が出現した。それは先ほどのアーチとは比べ物にならないほど清らかで、安定した魔力を放っていた。
『これを通れば、一瞬だ。……それと』
黄金の目玉が、最後に私を真っ直ぐに見据えた。
『君の記憶にある「ユニークな物体」。もし、再び安全な航路を確立し、我々と貿易ができる日が来たならば……その時は、いつでも歓迎する。是非とも交易してみたいものだ』
まさかの交易リクエスト。
私は涙を拭い、今日一番の笑顔を作って頷いた。
「ええ、約束するわ。また必ずここへ来る。あなたたちと、素晴らしい貿易をしてみせる」
西パンゲア貿易会社総督としての、そして一人の主婦としての、固い約束だった。
『良い旅を、異界からの旅人よ』
リヴァイアサンの深く温かい声が脳内に響き渡った次の瞬間。
光のリングが凄まじい閃光を放ち、私の視界は再び、完全な純白へと染め上げられていった。
夫の待つ、新たな海域へ向けて。私たちの途方もない夫婦旅行は、リヴァイアサンの優しさに導かれ、次なる目的地へと跳躍を果たしたのだった。




