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圧倒的な闇と重圧に包まれた深海七万メートルの世界で、私たちの乗る漆黒の潜水艦は、息を殺すようにゆっくりと前進を続けていた。
ティベリウス艦長の「機関停止。姿勢制御バーニアのみで現在位置を維持。これより、目標地点の周囲探索へと移行する!」という号令のもと、艦の側面から細かな泡が吐き出され、巨大な鉄の鯨は慎重に、まるで薄氷の上を歩くかのように静止態勢に入った。
「前方、障害物なし。魔力反応、徐々に増大しています」
ソナー担当の船員が、緊張で上ずった声を上げた。
「外部照明、一点集中。対象の全貌を捉えろ」
艦長の指示で、潜水艦の強力な魔光灯が一点に絞られ、漆黒のベールを切り裂いた。
光の束が届いたその先に、それは静かに佇んでいた。
思わず、操舵室にいた全員が息を呑んだ。VIP席に座っていた私もまた、言葉を失い、スクリーンに映し出されたその光景を食い入るように見つめた。
それは、途方もなく巨大な『アーチ型の門』だった。
材質は石でも金属でもなく、半透明の純白の結晶体。まるで巨大な氷の彫刻のように滑らかで、神々しいまでの美しさを放っていた。潜水艦の強烈な照明を反射して、結晶の奥深くがプリズムのように七色に輝いている。
そして、その巨大なアーチの表面には、ドワーフの古代文字らしき、見たこともない複雑なルーンがびっしりと彫り込まれていた。
「これが、何万年も稼働し続けているという、古代の……」
ベネチア旅行で訪れたドゥカーレ宮殿の時ように心を奪われる。
私が感嘆の声を漏らしかけた、その時だった。
ズゥゥゥン……。
腹の底を揺さぶるような、不気味な重低音が海中を伝わって響いた。
見れば、巨大なアーチの右下付近に彫られていたルーン文字の一つが、不意に青白く発光を始めたのだ。
「魔力反応、急上昇! 対象から強力な波動が放たれています!」
船員の悲鳴に近い報告が響く。
右下の文字を皮切りに、光は隣の文字へ、さらにその隣へと、まるでアーチを駆け上がるように順番に点滅を始めた。
一つ光るごとに。
ズン……ズズン……。
あの嫌な重低音が、次第に音量を増して響いてくる。最初は遠雷のようだった音が、今や頭蓋骨を直接揺さぶるほどの轟音へと変わりつつあった。
光るルーン文字の数は加速度的に増えていく。アーチ全体が脈打つように青白く発光し、周囲の海水を沸騰させるかのようなすさまじいエネルギーの渦を生み出し始めていた。
私の胸の奥で、前世から培ってきた「生き物としての本能」が、けたたましい警鐘を鳴らした。これは、ただの歓迎の光ではない。私たちが触れてはいけない、次元の違う力が起動しようとしているのだ。
「艦長! 離れて! すぐにこの海域から離脱しなさい!」
私は椅子から立ち上がり、叫んだ。
「総員、緊急回避! 機関最大出力、後退!」
ただならぬ気配を察したティベリウス艦長も、即座に離脱の指示を出した。
魔力炉が悲鳴を上げ、スクリューが凄まじい勢いで逆回転を始める。
しかし。
「だ、ダメです! 艦が後退しません!」
「強烈な引力が発生しています! 強力な念動魔法のようなもので、船体がアーチの方へ引き寄せられています!」
「補助機関も全て回せ! 魔法障壁を前方へ集中させろ!」
艦長が怒声を発するが、虚しい足掻きだった。
潜水艦は、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように、巨大な白い結晶のアーチへとズルズルと吸い寄せられていく。
ルーン文字の点滅はもはや明滅の境がわからないほどに早くなり、重低音は一つの高い耳鳴りのような「キィィィィン」という音へと変わった。
そして、アーチに刻まれた全ての文字が一斉に眩く光り輝いた瞬間。
視界が、真っ白に染まった。
強烈な光と衝撃に、私は思わず強く目を閉じた。
◈
「……えっ?」
次に目を開けた時、私は自分の身に起きている状況が全く理解できず、呆然と呟いた。
気がつけば私は、たった一人で、海の中をフワフワと漂っていた。
潜水艦の操舵室も、ティベリウス艦長たちも、私が座っていたふかふかの特別席もない。私服のパンタロンスーツのまま、生身で深海に投げ出されているのだ。
水深七万メートル。生身の人間なら、一瞬でペチャンコに潰され、窒息して死んでしまうはずの環境。
しかし、苦しくない。水圧も、刺すような冷たさも全く感じない。それどころか、海中で普通に呼吸ができている。いや、呼吸をしているという感覚すらない。まるで、空気のない宇宙空間にぽっかりと浮かぶ幽霊にでもなってしまったかのようだった。
「私、死んじゃったのかしら……」
だが、そんな自分の不可解な状況に対する疑問よりも、目の前に広がる圧倒的な光景が、私の思考を完全に停止させた。
そこは光に満ちた海底だった。
見渡す限りの地平線——正確には海底の果てまで、真っ白に輝く結晶体でできた「タワー状の岩」が林立していた。
それは無造作な自然の産物などではない。規則正しく配置され、幾何学的な美しさを持った、巨大な『都市』のようだった。前世で見た、ドバイの超高層ビル群の夜景を、全て純白の水晶で作り直したかのような、言葉を失うほどの絶景。
さらに視線を遠くへ移すと、都市から少し離れた海底原野のような場所で、巨大な青白い竜巻が無数に発生していた。
海の中で竜巻? と混乱したが、それは凄まじい勢いで海底の岩盤を削り取り、巻き上げた物質を上方へと運び去っているようだった。
そのすぐ近くには、海底にあるはずのない「湖」があった。
周囲の海水よりも比重が重い液体が溜まった、いわゆる「ブラインプール」と呼ばれるような海底湖だ。前世のテレビの深海ドキュメンタリーで見たことがあるが、目の前にあるそれは湖というより、一つの広大な海のように見えた。湖面が青白く発光し、さながら巨大な露天風呂のようにも見える。
「すごい……なんだか、信じられないものを見ているわ……」
恐怖よりも、尽きせぬ好奇心と感動が勝っていた。肝の据わり方と、元来の旅行好きの血が騒いでいる証拠だ。
その時だった。
ズズズズズ……と、海そのものが震えるような振動が走り、私の目の前に「それ」は突然出現した。
「はっ……!」
思わず喉が引きつった。
私の目の前を、上下左右の視界すべてを覆い尽くすほどの、超巨大な「真っ黒な岩」が塞いだのだ。
まるで一つの山脈が丸ごとテレポートしてきたかのような圧倒的な質量。
よく見ると、ただの岩ではない。表面は精巧な金属のように黒光りしており、その装甲の隙間を縫うように、無数の美しい金のラインが幾何学模様を描きながら脈打つように光っている。
私が呆然と見上げていると。
その巨大な黒い岩の表面が、真ん中から上下にゆっくりと『めくれた』。
岩だと思っていたものは、まぶただったのだ。
めくれた隙間から現れたのは、黄金色に輝く、巨大な「目玉」。
瞳孔の形は横に細長く、計り知れないほどの知性と、果てしない時を生きてきた者特有の静かな威圧感を湛えていた。その巨大な一つの目玉だけで、東京ドームがすっぽりと収まってしまいそうなほどの大きさだ。
「……生き物……?」




